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西濃運輸の目安箱に投函、社長に呼ばれた。

入社4年目ぐらいの頃、大垣の本社目安箱が置かれた。

目安箱というのは、自分が勝手につけた呼び名。江戸時代の8代将軍徳川吉宗の目安箱になぞらえて呼んでみた。要は、会社に意見がある方、聞かせてくださいってやつだ。意見箱だね。

大垣の本社と言えば、西濃運輸の本拠地だ。1代目がいらした頃には、目の前の国道258号を、トラックがパレードしたとも聞いている。その頃は、全国から人が集まって、地元の社員の割合は30%ぐらいだったらしいが、自分が入社したころには真逆。岐阜県外から集まった人間の方が30%になっていた。

*三菱のパジェロが パリダカを席巻していた時代

そうなると本社なんかでは、面と向かって社長にモノを言う人間なんかいない。当時の2代目会長が正面玄関を通る時には、隠れて姿を見せるなって言われたぐらいだ。摩訶不思議な世界だよ。社員が会長に挨拶するんじゃなくて、挨拶よりも姿を見せないことの方が大切のような雰囲気だったんだから。

そんな本社に目安箱が置かれたわけだ。

案の定、ほとんど意見の投函はなかったようだ。後で聞いたところによると、10人分ぐらいしかなかったとか。名前を明かしていたのは、自分と仲間の2人だけ。他はすべて匿名

平成8年当時には、すでに時代遅れは否めなかった。その理由が意見が通るような風通しが無かったこと。陰で愚痴は言うが、いざ意見を求められればだんまりを決め込み、はいはいそうですねの繰り返し。入社当時は吠えていた社員も、に染まってやがて言わなくなる。そんな状況だから、匿名なんか当たり前のこと。

*当時 何度もくりかえし読んだ

でも、自分は吠えまくっていた時期だからね。毎日が畜生!のくりかえし。名前を出すのが当たり前。出せないなら意見するな。それで、A4にして10枚くらい書いたかな。喜んで投函したんだ。結果が楽しみで仕方なかった。何も怖くなかったね。

でも、書いてみるもんだよ。

後日、秘書課から呼び出しがかかった。社長が呼んでるって。自分が所属してた労務課は社長室のすぐそば。社長室は扉がないから、いつも社長の姿はまる見え、声もまる聞こえ、その入り口に立ったよ。ただ、後輩に言っておいた、今日でクビだからって。内容は伏せるけど、それぐらいハッキリと意見していたからね。

当時は、1代目の田口利八さん次男にあたる方が社長。実質3代目。親譲りの立派な体格で180㌢はあったかな。

社長室に入った瞬間、一言目に「よう言った!」って言われた。そして、二言目に「会社には出来ることと出来ないことがある。でも、夢をもって頑張りなさい」、そう言われ、大きな手で握手をしていただけた。ただ、感動あるのみだった。

*生涯 この駅名は頭からはなれそうにない

後日、独身寮長としての申請が足踏みしていた稟議書の決済が下りた。額は増額されて800万円を超えていた。元々、この稟議書を通すためにも意見したもの。また感動がやってきた。

つくづく思った。言わなければ、行動しなければ何も始まらないって。それも若い時ほど、そういう気持ちは大切だと思う。

それから3年後に会社を辞めたことについては、後悔はしていない。

ただ、何年か前に当時の社長が亡くなったことを知った時、ありがとうございましたって、心の中でつぶやいたね。いい時代を与えて下さって、本当にありがとうございましたって、ね。

駄目だな、書きながら思い出していたら、涙が出てしまった…。

「西濃運輸の目安箱に投函、社長に呼ばれた。」への2件の返信

きみさんの勇気と行動力に、そして社長さんの器の大きさに心から拍手を贈ります
素敵なエピソードをありがとうございました
行動を起こさなければ何も始まらず道も開けない
改めて考えさせられました

いもさん、こんばんわ。

コメントを頂きまして、ありがとうございます。

古き良きと言っていいのかはわかりませんけど、いい経験だったと思います。
社長室には入れるのは、限られた管理職の方ばかり。
その中で、機会を与えて頂けたことは、素直に嬉しいですよね。

社内の風通しがどうのこうの囁かれます。
でも、さらにもっと昔の方が、自然にできていたとも思えます。
まだ、人間の心のつながりが厚かったのかもしれませんね。

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