平成5年の4月、西濃運輸に入社した。先日も話をしたと思うけど、入社式の前日には、青春18きっぷで電車を乗り継いで大垣まで行った。期待と不安で、というよりも期待だけで自分自身が満たされていた。入社式の前から、隠れ愛社精神家だったのかもしれない。新幹線よりも、旅の感覚の方が好きだったけどね。
その愛社精神も、7年と3か月後に崩壊、退職へと向かうことになる。その間に経験したことは、一言では語り尽くせないほど充実していた。それについては、また別の機会に語る。とりあえず今は、転職について少し語ってみようと思う。
そもそも自分は、転職するなんてことは考えていなかった。自分が大学を卒業した頃は、転職なんて言葉を聞いた記憶がないし、一度会社に入いれば終身雇用で頑張るような風潮があった。
だから、自分よりも4年ぐらい後に入社した社員が、1年ぐらいで辞めていくことを理解できなかった。頑張れよと言っていただけ。一緒にお酒を飲む時は、思い切り楽しんでいたけどね。
だからこそ寂しかった。後から来た彼らが先に辞めていくことがさ。まあ自分だって、1年目や2年目には悶々としていたから、いつ辞めてもおかしくはなかった。それが7年弱も在籍できたのは、3年目から楽しくなるぞという、例の部長の言葉を信じていたからかもしれない。要は、石の上にも3年ってやつだ。
やがて時は流れた。
退職した後の自分は、転職ではなく個人の立場に立った。それも自分にかぎっては、勢いだけの計画性のない個人事業主になり、30代という若さだけが自分を引っ張ってくれた。それが7年弱続いた第一次運輸業時代。その時、ハッキリと悟ったことがあるんだ。
西濃運輸という組織がいかに巨大な企業であったのか、自分がいかに小さい存在であるのか、いかに自分が弱い立場に立たされているのか、それをハッキリと悟ったわけだ。大企業の傘に守られぱなっしで、飛び出してみたら知らないことばかり。社会保険の算出方法さえ、ろくに理解していなかった。
それからの自分には、知識と知恵がものすごい勢いで蓄えられていった。無我夢中だったよ、自分が生き残るためには。初めて知ったわけ、自分を守れるのは自分自身の力しかないってことを。必死になるのが当たり前。何よりも優秀な技術を身につけて、皆に使ってもらいたかった。
会社を辞めたことで、その後の20年間は極めて充実することになった。苦しいことの方が多かったけれど、今となってはすべてが自分の糧になり役に立っている。無駄なことは何もなかった。転職が、大きな転機になった人生の一つの形。
ここでハッキリと言えるのは、今の自分が好きだってこと。ここまでやってこられた自分を嫌いにはなれない。
学びたいことを学ぶことができた。学びたいと思った数だけ、誰に気兼ねすることもなく学ぶことができた。時間が許すかぎり学んだ。少し偉そうだけど、こうして語ることもできるようになった。これから先も学びは続くけれども、思い出すたびに楽しくなれるというのは、幸せなことだと思っている。
海を見ていると、余計な力が抜けていく。一生かかっても梅を抱くことはできないが、海はいつでも自分を抱いてくれる。海を見て安らぎを感じられなくなったら、人生も終わりに近い。
まだ何かができる、自分自身を信じられる今日の海だった。