カテゴリー
人生経験 俺の考え 健康 日常生活

51歳を受け入れ、さらに夢を描いてみる。

自分は昭和44年、すなわち1969年生まれだから、現在51歳。

実を言えば、本当かよ?って叫びたいぐらい。いや、心の中ではいつも叫んでいるんだ。実際のところ、51歳になっているという実感が全くない。気持ちはいつも前向きポジティブ好奇心も止まらない。新しい話題が生まれれば興味が尽きない。楽しいからね。興味をもつことで、新しい扉も開かれていくし。

よく紹介する「攻殻機動隊」の世界を見ていると、100歳でも200歳でも生きられるような気がして、夢を見てしまうんだよ。この世界は、自分の意識さえハッキリとしていれば、サイボーグのボディを換えていけばいい。意識の中で経験が生き続けて、ボディからボディへと意識のバトンがつなげられていく。

この技術がさらに進歩する中で、自分の経験も次から次へと積み重ねられて、半永久的に生きられるかもしれない。ただし、ボディを換える作業を他人やロボットが行った時に、故意にその意識を消されてしまう可能性もある。そうなれば、自分の命はそこで一巻の終わり。半永久的であるはずが、お粗末な結果にもなる。

*溺れるように見えるこの姿 自分の姿かも

まあ、それはいい。要は、命の有限を受け入れながら、51歳の先にある夢の可能性も信じている。同じ世代からすれば、いまだに浮足立っていて、ほらを吹いているだけの人間にしか見えないかも。実際にそうかもね。昔なら、家庭があって子供も独立していて、年金暮らしまで地道にね、なんて考えていた歳でもある。

でも、自分にはまだ道の終わりが見えないし、終わりを意識して生きようって気になれないんだ。90歳とか80歳とかで現役バリバリの人達からすれが、まだまだヒヨッコだって言われる歳。終わりが見えないんですよ、なんて自慢気に言ってみたらいい。人生を馬鹿にするんじゃない!なんて言われるのがオチだ。

*川はいつも 悠々と流れているだけ

ただ、体力のことについては、しっかりと自覚しなくちゃいけないと考えている。生身の体であるかぎり、こればかりはどうしようもない。どうしようもないことに、確実に落ちている。確実に若さが吸い取られている。頭の中で、いくら若いんだと言い聞かせても、20代の頃のように傷跡が綺麗に消えていかないんだ。

昨年の夏に手術した左肩、手術してから既に10ヶ月が経とうとしてる。肩の筋肉は複雑にからみあっているとかで、腱板が完全に断裂したともなると、やはり完治には時間がかかるんだ。先日リハビリも兼ねて、一眼レフを2時間もっただけでも、肩に疲労を感じてしまった。長い時間、左腕を固定させられない。

2月にアキレス腱を傷つけて、左足のMRI検査までして養生しても、ふくらはぎにまで後遺症が残る。新しい靴のかかとですりむけた右足首に、2ヶ月経っても傷跡が残る。数年前から季節に関係なく両手の指の皮がむけるようになり、ステロイドの世話になっている。20代では経験しなかったことが増すばかり。

*こういう道を歩くと 気持ちが晴れてくる

これが生身の体の現実なんだ。それゆえに思う。

51という歳をしっかりと受け入れた上で、新たに夢を描いていかなくてはいけない。自分に51歳なんだと言い聞かせて実感した上で、夢の形を整えていかなくてはいけないと。

若い気持ちでいることは大切だ。

でも、肉体は確実に衰えていく。衰えていくからアニメの世界が実現することも願う。願いはするけれども、それが実現されていないかぎり、現実をしっかりと見据える必要がある。その上で、腕立て伏せやスクワット、ウォーキングやダンベルなどで体力調整を続ける。続けながら気持ちの若さを維持していきたい。

リハビリ前に見た川の流れ。悠々と流れるその姿を前に、51という歳を、しっかりと受け入れようと思った。

「51歳を受け入れ、さらに夢を描いてみる。」への2件の返信

花魁でありんすさん、こんにちわ。

ありがとうございます。
思いをはきだして、言葉にしたことで、
実は若返ったのかもしれません(*^^)v

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です