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人生経験 俺の考え 日常生活

父親にとってのJAL、日本航空。

父は今年の夏、82歳を迎える。

心臓の手術をしてから早くも12年が経った。心臓の機能をいったん止めて弁を人工弁に変えた。見た目は普通だが、障害者手帳を携帯して暮らしている。先生は15年はもつと話していたから計算上は残り3年。今では、すっかり小さくなった気がする。

*若き日の父と自分 どこだったかな…

そんな父の誇りは、JAL、すなわち日本航空(以下 日航で)だ。

兄弟が何人いるかも知らず、里子に出された貧乏からのたたき上げ、商業高校卒で日航に入社できたのは幸いだった。何と言っても当時の日航は、東京六大学卒の社員がひしめいている時代で、さらに半官半民、伸び盛りの会社でもしがらみは多かったはず。

だが父は、日航にすべてをかけるつもりで働いた。東京六大学卒の社員をしり目に、50歳の中頃には取締役になっていた。町内名簿などには在籍中は平社員で通したが、人事権さえ有する立場だった。会社の肩書よりも、会社で働くことを愛していた。

お蔭で自分も妹も、苦労することなく大学まで卒業することができた。逆に社会に出てからその反動は大きく、甘えを断ち切るまでは苦労することになった。とは言っても、何度も話すように、必要な時に父は、容赦なくその手をあげた。痛かったね…。

*貴婦人と呼ばれた ダグラスDC-8

父は国際線の地上部門の総合的な事務職だった。羽田・成田・福岡・関空、海外ならコペンハーゲンとアトランタ。インドでの研修に出かけたりもしていた。日航は、父のすべてだった。

だから、あの日、日航が消えた2010年は辛かったと思う。

63歳まで5年間勤め上げた子会社も退職して、年金暮らしに入っていた時だ。年金が減額された上、日航に未来が見えない。父はその身を、半分持っていかれたようなものだったと思う。

そもそも日航は、JASを吸収合併して鶴丸のマークを捨てた時、先行きが危ないように思えた。時代に合わないような拡大路線は、戦時の大艦巨砲主義そのもの。フットワークもまるでなくなっていた。その結果、数年で身を持ち崩したわけだ。

同じ年金暮らしの人間の多くが愚痴をもらす中、父はこう言っていた。若い社員もみんな頑張ってるんだから、と…。

2012年、日航は再び上場を果たす。その後、鶴丸のマークも現代的にアレンジされて復活した。正直言ってあの時は、父よりも自分の方が嬉しかった。子供の頃から見ていたんだ。どこに行っても、鶴丸さえあれば安心できたんだから。

*映画「男はつらいよ」にも よく出演した

この鶴丸のマーク、正面から見た鶴じゃないよね。鶴が少しだけ体をひねっているん感じなんだ。そこがまた素晴らしいんだ。このデザインを考えた方たちは、本当にいい仕事をしたと思う。このままずっと、変わらずにいて欲しいと思っている。

日航は復活したが、新型コロナウィルスの影響下、その営業はまた厳しい中に置かれている。一度あることは二度あると言う。父が人生の半分をあずけ、愛し、そして誇りにしてきた会社が倒れる姿は二度と見たくない。

いつか先に旅立つだろう父が、その古き良き思い出を、思い出のまま連れて行けるように、日航、いや、JALの方々には頑張ってほしいと思っている。

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活 趣味

痴呆症だった祖父が、残した教訓。

20年前に祖父は亡くなった。87歳だった。

亡くなる直前に会うことができたが、それまでの数年は仕事が忙しく、ほとんど会えずじまいだった。

祖父は、最後の4年間ぐらいだったかな、痴呆症で晩年を過ごしていた。6歳下の祖母が、ほとんど一人で世話をしていたことになる。時には自宅を抜け出し街中をさ迷い、道につまずいて倒れ、血を流していたこともあったらしい。

*在りし日の 祖父と祖母…

自分は岐阜県の大垣で仕事漬け、あるいは佐倉で新しい店所の開設委員だったりと、忙しい毎日を過ごしていた。会社を退職して会えた時、すでに最後を迎えていたわけだ。あれだけ世話になっておきながら、義理に外れていたかもしれない。

だが祖父は、大切な教訓を残してくれた。言い方が悪いかもしれないが、痴呆症に対する大切な教訓だ。自ら考えて何かを生み出すことが大切だということ。受け身だけの生活では痴呆症になりやすいこと、それを祖父は身をもって教えてくれた。

そもそも祖父は、幅広く趣味をもっていた。

小学2年の頃、祖父母の家に預けられて暮らしていた。毎週日曜日になると、祖父と2人で渋谷新宿に出かける。目的は絵画鑑賞が中心。渋谷なら東急本店、新宿なら小田急デパートなど。出かけるたびに、美味しいものにありつけるので楽しみにしてた。

祖父は大正生まれのハイカラな人だった。晩酌は決まってワイン、つまみの甘納豆さえ渋谷まで買いに行く。味にこだわる人だったね。ちなみに最寄駅は下北沢、夕方になると、会社帰りの祖父をひとりで迎えに行く。改札から出てくる祖父を、ハチ公のように待っていたもんだよ。

*写真も脳を活性化させる 1年前の京成スカイライナー

絵画鑑賞以外にも、庭に灯篭をおいて眺めたり、文鳥を飼ってみたり、そうそう、掛け軸とかも好きだった感じ。本当に多趣味な人だったね。祖母が地味な人だったから、趣味のためにお金を使えたのかもしれない。73歳まで働いていたしね。

でも、ここで考えておきたいことがある。

それは、祖父の趣味は、ほとんどが受け身の形で、自ら考えて生み出しているものがなかったってこと。幅が広く多趣味ではあったけれど、亡くなった時に祖父の自作と言えるものが無かったに等しい。手に入れて眺め、感想をもって終わりだったんだな。

指先を器用に使っている人はボケない、そう言われる。指を一本ずつ動かすことで脳を活性化させるらしい。楽器を弾いたり絵を描いたり、あるいは文章を書いたりとかいろいろとある。それが非日常的なことで、ものを創造することにつながるのがいい。

*去年猫を亡くしてから 母はaiboを調教する

やったことのない新しいことを、可能な限り指先を使って行う。そんな時こそ脳が活性化し、ボケ防止につながるというわけだ。

自分としては、この考え方は正しいと思っている。

現実に、音楽家たちは音の追求を続け、もの書きをする方たちは言葉を著すことに貪欲だ。絵を描く方たちはより良い色を求めて長く描き続け、料理に生きる方たちも味の追求に余念がない。みんな、新しい創造をすることに努め、そこに終着点を感じない。

有名無名、業界人一般人とかは関係ないよね。自分がやってみようという気持ちになって続けること、それが大切だと思うんだ。

*母は絵を描くことに夢中で 実家の壁は絵でうまる

自分は今、本格的に書くことに目覚め、集中的に始めることで楽しむことを知った。77歳の母は絵を描くことに夢中だ。

互いに祖父の血を引き、互いに好奇心が強い。その好奇心が進むべきところは、自分で何かを生み出して行くという世界だ。

人生100年を意識するよりも、いかに健康充実した毎日を続けていけるか、それを追求する方がよほど大切だと思う。

いい意味で、祖父は教訓を残してくれたと思っている。

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日常生活 読書 趣味

読書は必ず役に立つ! その2

友人に薦められて、源氏物語を読んでいる。

田辺聖子さんの「新源氏物語」、新潮文庫で上中下の全3巻、合計で1,400ページ。さすがに大作だ。この作品が平安時代に書かれたなんて、紫式部という人のすごさには脱帽してしまう。

*平安時代の甘美な世界を味わえる

でも、急いで読んだりはしない。じっくりと味わいながら、他の本と並行して読み進めている。速読が似合うような内容じゃないよね。平安の悠久な時を感じながら、ゆっくりと進めていく。

高校の頃は国語の授業が嫌いだったから、教科書の掲載文にさえ興味がなかった。古典の授業なんて何がおもしろいのか、まったく理解できなかったね。現実の生活には何の役にも立たないような古くさい文章、読んでも意味がないような気がしたよ。

今だって古典の文章のままなら、読む気が失せたかもしれない。

やはり、田辺聖子さんの訳がうまいからだろうな。惹きこまれていってしまうんだ。読みやすいから、その気になれば一気に読めそうな気もする。だからこそ逆に、味わって読んでみたくもなるんだ。ゆっくりゆっくりと、源氏の足跡をたどっていってる。

ところで、読書するのに最も集中できる場所ってどこだろうか?

源氏物語に限らない、どんな本を読むにしても、自分にはトイレが一番いい。ドアを閉めれば読書のための個室だ。窓はないから、外の音からも遮断される。こんなに集中できる場所はないと思う。文字を追い続ける瞬きの音しか聞こえない、そう言っても差しつかえないだろう。

第一次建設業の時代には、出発前の5時から5時半までが、トイレで読書する時間だった。この毎日30分の繰り返しが、今の集中力を鍛え上げたかもしれない。もちろん、仕事を終えて帰宅してからも読書は欠かさなかった。

*昨年の引越の際にかなりの本を処分した

当時はね、こんなことを真面目に考えていた。

この先死ぬまで何冊読めるかな。60歳を一つの目標として、1年に100冊読んだとしたら、20年あるから2,000冊読める。単純に考えて80歳までなら4,000冊。やれるかもしれない。

とにかく、読みまくることにしたんだね。

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人生経験 俺の考え 入院日記 2020年夏

看護師さんの前に立つ!

手術当日の夜が明け、7月9日の朝が来た。

血圧の異常な上昇に悩まされ、寝不足の朝を迎えていた。

だが、5年前と違っていたのは、意識がしっかりしていたってこと。前回は翌朝になっても朦朧としていて、朝食も食べる気がしなかった。今回は違う。点滴をつけている状態なので通常のご飯は出ないが、残さず食べられたのには、自分でも驚きだった。

*手術翌日の晩餐は 食事の量が足りなかった

朝ご飯を食べ終えて、しばらくベッドに横になる。尿道に入っているチューブがモソモソする。T字帯が少しズレている。下半身が何とも気持ち悪い。のんびりと寝ていたいと思わない。起き上がってベッドに腰掛ける。看護師さんがやって来た。

体をふきますよって言った。チューブを取りますねとも。

横にさせられ、看護師の手が布団にもぐってくる。性器をつかまれチューブが瞬時に引き抜かれる。慣れた手つきの神業。抜かれた瞬間に痛みはなかった。プロはやはりプロだ。刺しこむ時も抜く時も、患者が快感を覚えるくらいの早業でなくてはならない。

*手術後 最低4週間は固定具をつけっぱなし

手術した左肩の方には、腕が動かないように外転装具という固定具がつけられている。右腕には点滴用のチューブもついている。当然、ひとりでは着替えもできない。まずはパンツに履き替える必要があるんだが、看護師さんに手伝ってもらうしかない。

ベッドから降りてわきに立つ。来ているものは手術着だから、上から下までつながってる。前をはだけると、T字帯がふんどしのような状態。看護師がためらうことなくT字帯を取ると、下半身がスッポンポンの状態。目はまっすぐと壁だけを見つめる。

まるで、お漏らしをしてパンツを脱がされた少年のよう。でも恥ずかしいなんて言ってられない。足を上げてって言われば、ハイと言って上げるだけ。80歳ぐらいなら達観もしているだろうけど、中途半端な歳だ。胸中は複雑で、変な気持ちだったね。

*スマホ用のキーボード 最近はお休み中

まあ、こんな感じで看護師さんの前に立ち、体を拭いてもらい病衣に着替えた。いよいよ病室に戻る時だ。頭の中ではすでに、どうやってキーボードを打てばいいかを考え始めていた…

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俺の考え 日常生活

少子高齢化を考える。

出生率が低いと言われている日本。ずいぶん前から聞いているような気もする。今は、少子高齢化の時代にあるってことだ。

確かに出生率は低いんだろうね。昭和のベビーブームの時代と比べれば、その数字は明らかだ。2019年の出生数は90万人を切っている。これは、数字的に見れば少ない?

戦後の第一次ベビーブームでは、年間の出生数が平均250万人以上。1970年からの75年までの第二次ベビーブームでは、平均200万人以上。第二次の時と比べても110万人以上、現在は出生数が落ちているわけだ。やはり少ないのか。

*少子高齢化対策には攻殻機動隊の世界がいい?

まあ、考え方はいろいろあると思うんだけどね。

高度経済成長期のモデルをベースにして、すべてを考えるとすれば、現在の状況は間違いなく人口減少へと向かっている。人口が増えていくことを前提に、年金や社会保険のモデルもできているんだから、現状のまま進めば、やがて立ち行かなくなる。

出生率を上げるために、子供を育てる環境を整備しようとか、あるいは助成金を増やそうとか、いろいろと議論されている。

でも、それは過去のモデルを前提にしていると思うんだよ。あくまでも、人口が増えていくことを前提にしているんだ。

だけど人口は、望むように増えないと思う。何よりも、出生率がピークだった頃に比べて、各個人の価値観が変わって来ているんだから。結婚して子供をつくって下さいって言われても、それは現在では、ひとつの考え方に過ぎない思うんだ。

*意思だけ残して 体を交換すれば半永久的な命

人口を増やすことを前提に議論するのではなく、人口が減っていくことを前提に議論した方がいいんじゃないのかな?

出生数が減って高齢者だけが増えていけば、将来の社会福祉にも大きな影響を及ぼすだろうね。子供が増えて働き手が増えて、そして高齢者が社会から支えられる、簡単に言えば今のモデルはこの形。働き手の数が右肩上がりなら、ごく自然にも感じられる。

でも今の時代は、結婚しない人もいるわけだ。事情は各個人によって違うと思うけれど、結婚することよりも他のことに価値観を見出す人もいるわけだよね。働き方だって昔とは違う。そう考えていくと、人口が減っていくのは自然の流れのように思う。

それに日本って、みなが思っているほど豊かじゃないんだよね。
最近のニュースの中で、貧困って言葉を聞かない日ってあるの?毎日聞いている気がするよ。14%前後の子供たちが貧困に直面してるっていうんだよ。統計とか見ると驚いてしまうよね。

*サイボーグなら AIロボットと話もできるかも

結局、この国は、自国の足元が見えていないんじゃないのかな。

自分は学者でも役人でもないし、ただの一選挙人に過ぎないけれど、国のことは真面目に心配している。大きなことはできないけれど、政治というものにしっかりと目を向けているつもりだ。

人口が増えることを前提に考えて、付け焼刃的な政策に頭をひねらせるよりも、人口が減っていくことを前提にして、政策を転換させていく方が、新しい考え方も浮かんでくると思うんだよね。

その過程では、必ず軋轢も生じると思うけど、どんなことでも方向転換していく上では、必ずは現れるものだよ。今までのモデルを前提に考えるってことは、変えるのを面倒くさがっているようにも思える。あるいは、しがらみが変化を許さないのかな。

*サイボーグなら記憶の中から正しい道も?

政治や政策は、今を生かし続けるためにあるんだろうか?

それとも、未来を輝かすためにあるんだろうか?

未婚で子供のいない自分でも、少子高齢化について真剣に考える毎日だ。

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人生経験 俺の考え

小学校6年の時の先生

小学校6年の時、大学卒業したての先生がやってきた。

東京理科大学を卒業していた。頭はちりちりの天然パーマ、背は高くて目はクリクリ、すごく若々しかったのを覚えている。

自分が小学生だからね、すべての先生が歳をとった人間に見えるのは当然だ。特に5年の時の担任の先生がクラスの生徒と折り合いが悪くてね、クラス替えはなかったから、新しい先生に期待が集まっていたわけだ。

*先生にあしたのジョーを教えてもらった

確かにおもしろい先生だった。いやおもしろいっていうよりも、先生の経験した青春を引きつれてきているような感じだった。

あしたのジョー」を教えてくれたのは、その先生。当時は単行本だったんだけど、自分の所有する「あしたのジョー」を持ってきてくれて、クラスの中で自由に読めるようにしてくれた。少年ジャンプの漫画よりも難しかったけど、おもしろいって思えた。

吉田拓郎を知ってるかいって、聞かれたことがある。クラスのみんながだ。1981年頃だと、いくら吉田拓郎が有名でも小学生にはわからない人だった。えっ、知らないの?先生は驚いていた感じだった。その時の先生の気持ち、今の自分ならよくわかる。

*大学生の頃 初めて本格的に吉田拓郎を聴いた

先生は悔しかったらしくて、ギターを自宅からもってきて、吉田拓郎の曲を弾き語りしてくれた。何の曲だったかは覚えていない。合わせて、松山千春の曲も教えてくれた。これはよく覚えている。「季節の中で」だった。好きになって何度も練習した。

そんな感じで、小学校最後の学年が始まったわけだ。

休みの日に先生の自宅近くに集まって、縄跳び大会をしたことがある。それぞれの飛び方でトップになった人は、ファミレスでご馳走にありつけた。自分もその一人。今の教育方法だと、問題視されるのかな?でも、学んだ気もする。1番になれば評価されるし、自分も嬉しいってことを。1番になるのは難しいから。

*小学生でも この曲が好きになれた

そんな先生に注意されたことがある。叱られたって言った方がいいのかな。

机の下に定規を落とした時のこと。を伸ばしても届かないから、足先で引っ張ろうとしたんだ。そこへ先生がやってきて言った。「足でものを取るな!」って。言っている意味がわからなかったけど、とにかく椅子から立って、手で定規を拾った。

先生は叱った理由を言わなかった。だから、自分で考えた。家に帰ってから親に聞いたかもしれない。

今ならわかる気がする。手を使って取れ横着をするなの2つの理由じゃないかな。何でもないことのようだけど、大人になると何気なくやってしまっていることだと思う。

大学出たての先生でも、当時はこんな叱り方もしてくれた。果たして今の時代はどうなんだろう。親が割って入って来るかな、文句を言うために。

あの頃を思い出すと、楽しいことばかりじゃなくて、今になって感謝することがとても多い。

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人生経験 俺の考え 日常生活

日経電子版にして、早くも1年が経った。

昨年の正月を境に、新聞を紙面から電子版に切り替えた。

紙面との併用も考えたが、中途半端になるのはいやだったので思い切った。新しい一歩を踏み出せた気がしてワクワクしていた。

*日本経済新聞の電子版はよくできている

大学3年の頃から日本経済新聞を愛読している。就職活動のこともあったから読み始めたんだけど、あれから今日まで、30年近く読み続けていることになるのかな。

一度だけ浮気したことがあった。あまりにも宣伝広告が多いような気がして、一般大衆紙に変えてみたんだ。でも駄目、3ヶ月も我慢できなかったね。日経の記事が体が染みついているんだ。全部理解するのは難しいけれど、役に立つ記事が多いしね。

*内容が日々進化している 面白味が増している

電子版と言っても、基本的なレイアウトは紙面と同じ。右から左に向かって読んでいく。マウスひとつでページをめくり、拡大したければそれもできる。内容は日々進化しているし、面白さも増していると思う。

保存したい記事があれば、範囲を指定して保存できる。一日だけで保存したい記事がいっぱいになることもあるが、クラウドの中にため込んでくれるから全く問題がない。読み返したくなる時もあるわけで、そんな時はクリックだけで引き出せるから嬉しい。

*紙面を読んでいた時は 記事を切り抜いていた

それでも時として、以前切り抜いて保管してある記事を読みたくもなる。紙の手ざわり感には、温かいものさえ感じられたりするんだ。クリアーファイルに入れて、直射日光にさらさないように保管してあるけれど、経年劣化で黄ばんでいるのには味がある。

もっと前は、スクラップブックに貼り付けたりもしていた。いつからか、それはやめてしまっているけれど、ファイルに残されているものについては、いずれ貼り付けておくつもりだ。ブックに貼っておくと、アルバムみたいで思い出深く読めるんだよね。

*スクラップブックには 綺麗に貼っておきたい

引越の多い自分だけど、機械ものは古くても常に一緒に移動して来た。それに対して、書籍や服などはけっこう捨ててしまう。めったに読まない紙系のものって、邪魔に思えたりもしてね。だけど後悔することも多いんだ、取っておけばよかったって。

今となっては、ノスタルジアに過ぎないのかな。電子版に変えるということは、そういうものを捨てるってことでもある。だからこそ、手元に残るブックについては、これからも大切に保管しておきたいんだよね。

この先はずっと電子版を読むだろう。SNSの中ではタイムリーに情報が流れるから、新聞は無駄かなと思ったりもする。

でも、自分が求めているものは経済の記事よりも、人間について語られているコラムの方だったりする。日経のコラムは内容が熟しているから興味深い。切り抜りぬかれてきたものも、ほとんどが人間について語られたものなんだ、実際のところ…。

*この記事は 生涯を通してのの宝物かもしれない

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活

感染対策の中で、変わってみたい!

みなさんは、感染対策の中で変われたことがありますか?

自分は昨年の入院生活もはさんで、長い休業をしているから、世の中を冷静に見つめる時間がたくさんあった。テレビラジオから流れる情報、新聞のコラム。現在も感染拡大が収まらないんだから、その情報の流れもとまることを知らない

*市役所で売られていた手作りマスク かなり大き目

ああした方がいい、こうした方がいい、ありがたい情報をたくさん得ることができて感謝している。特に入院していた身だから、感染対策は徹底してやってやるみたいなね。その気持ちは今だって衰えることはない。

でも、ウィルスの感染が再拡大しているのに、人の動きは対策から離れている感じ。1年前と比べると、危機感が薄れているんだろうね。何をやっても駄目だ、感染する時は感染する、自分がかかることはないよみたいな開き直り、そして無力感

*落花生屋さんでも 手作りマスクが売られていた

街頭のインタビューを受ける人達が、マニュアルを読むように答えてる。感染拡大がこわいです、気をつけたいと思います、密を避けたいと思います。昔で言えば、エンドレステープみたいなものだね。マスクの上の目が笑っていたら、真剣さも感じないよ。

大体さ、インタビュー受けているその場所って、密じゃないの?不要不急の外出を避けて下さい、そう言われても難しいよね。人間は最も欲望の多い生き物だもの。楽しく遊びたい、美味しいものを食べたい、あれもしたいこれもしたい、我慢は良くないか。

https://youtu.be/OTqX9qT19js
*ブルーハーツが 夢をストレートに歌う

日常生活あるいは経済活動に、これだけ我慢を強いられれば、その気持ちもわからなくもない。いろいろな意味で、追い込まれている人も多い。自分だって、休業明けはどうしようかって考えたりもするよ。不安がないと言えば嘘にもなる。

生活に追われていれば、仕事をしないわけにはいかない。生活のために働くのは当たり前。どんな状況の下にあっても、経済活動は回さなくちゃならない。お金も循環されなくては、国自体も危うくなる。大いに働いて、個人も国も潤いたい。

でも、今は仕事をすることと遊ぶことを、しっかりと分けて考えた方がいいと思う。

感染が広がる前に、外出での楽しみが100だったとする。外出での楽しみを50に落とし、残り50を家で楽しんでみるとか、仮の話だよ。70と30でもいい。頑張って、0と100の比率だったら優等生だね。それが出来れば、こんなに苦労しないだろうけど。

*このマスクはサイズが合わなかったので保管

とにかく、これを機会に何かを方向転換させる気持ちは、大切だと思うんだ。同じようにやっていても、きっと何も変わらない。感染対策をうながす言葉がみんな、絵に描いた餅になる。真実味をもたなくなるよね。

苦しい時って、やはりチャンスの時なんだ。個人でも会社でも、立場は変わらない。その最たる例が、戦後の日本人の姿だよ。

こんな言い方はよくないけれど、コロナの感染対策の中で、儲かっている会社もあるわけでしょ。それは別に悪いことじゃないよね。その会社が、社会の役に立ってるってことなんだから。方向転換して儲けを出してる会社もある。立派だと思うんだよね。

ライブ会場なんかもそうでしょ。直接行くことをためらう人には、配信って重要だよ。早い時期に配信にも踏みきって、1年間考え抜いて来た会社は、もうそのノウハウがたまってるわけだ。配信される映像のレベルもUP、プロ並みの会場もあるものね。

自分は5年の間に2回、両肩に穴を開けて内側をいじってるわけだ。生まれながらに持っていたもの以外に、体内に別のパーツがあるわけ。同じことをこれからやっても、面倒なことになるとわかってる。だから今、変わるしかない、そう思うんだよね。

変わるということは、頭で考えているほどには易しくない。変化を受け入れるのが、辛いこともある。でも変わっていかないと、良くなるもの良くならないことが多い。執着心をもち過ぎることは、人生の時間を無駄にもする。

今は自分が、最も変わっていける時だと思っている。

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オフコース 人生経験 俺の考え 趣味 音楽

君が、嘘を、ついた

中学3年の時だった。コンビニで流されていたラジオ放送から、この曲が流れてきた。

DJがさけぶ、オフコース復活

*5人から4人になり 2年を経て復活した

復活?よくわからない。オフコースの存在自体を知らなかった。5人の時が1982年までとすれば、まだ小学生。中島みゆきの「悪女」で音楽に目覚めたのが小学6年。松山千春中村雅俊なども聴いていたが、オフコースの活動は休止中だった。

衝撃的だったね。これはすごいって思った。何がすごいかって聞かれると、案外難しい。でも、中学生ながらも音のセンスに圧倒された。それまで聴いていた、アイドルの曲やフォークとは違って、心がフワフワするような感覚を覚えた。

その日から、とりあえず中学校を卒業するまでは、オフコースの虜だった。当時はまだ、カセットテープレコードの時代。レコードは高くて買えないし、レンタル代金も高い。親はあまり音響機器には興味がなかったから、ダビングなどもできない。

*レコードの良さは視覚でとらえられるものが多いこと

ちなみに、若い方にはダビングってわからないかな。

レコードやCDなどからカセットテープなどの記憶メディアに、音響機器を通して音をコピーするって言えばわかる?

そんな状況だったからカセットテープを買い、同級生にダビングを頼んだ。2人の頃から5人の絶頂期の頃まで、発売されたアルバムを調べ上げ、もれることがないように順番にダビング。そして何度も繰り返し聴いた。飽きるなんてことは、まずなかった。

*歌詞カードの裏には ジャケットとは違う写真が

詞も綺麗だと思った。でも、その中にある意味の深さを理解するには、まだ精神的に幼すぎた。メロディの美しさに憑りつかれ、小田和正の声に憑りつかれ、ハーモニーの美しさに憑りつかれ、時間さえあればテープを回し、口ずさんで歌を覚えた。

同じクラスの中には、けっこうファンも多くて話もはずんだ。当時はYMOびいきだとか安全地帯びいきだとか、マニアックなクラスメイトが多かったかな。

確かにYMOなんて世界レベルだったからね。イエロー・マジック・オーケストラ、ネーミングからしてレベルが高いよね。音楽全体のレベルが高かった気がする。

*ジャケットの作りも凝っていた

中学を卒業する頃には、発売されていたアルバムの曲はほとんど歌えた。朝から晩までオフコース。ジャケットのコピーをしてもらい、クリアーファイルにはさんで下敷きにしたりね。カセットテープが擦り切れて音が伸びたら、またダビングをお願いした。

憑りつかれるっていうこと、夢中になれることっていうのは、本当に大切なことだと思うんだ。それも、本物に夢中になりたい。すぐにメッキがはがれるような嘘っぽいものに、夢中にはなれない。どんなに時間が経っても、本物は人の心を裏切らないから。

曲名は「君が、嘘を、ついた」

でも曲は、嘘をつかなかった。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

山形県天童市まで、走り続けた!

平成16年9月の話。山形県の天童市まで走った。

茨城県の下館市から荷物を積み、当日中に天童市まで走るという引越の仕事だった。元請けの会社から個人で仕事をいただき、仲のいい運転手を助手につけて走った。8万円ぐらいの仕事。

*佐倉市を朝4時に出発 下館市で8時まで待機した

千葉県の佐倉市を朝の4時に出発。余裕はたっぷり取るのがやり方。現地近くには1時間前に待機、これが基本。

助手につけた彼はすごい運転手だった。秋田まで毎週トラックで3往復、今では考えられない仕事の仕方だった。一番信用できる相手で、時間が合えば、自宅で語り合う仲だった。

8時から積込みを始めた。引越というからには、既に用意ができていると思っていたが、なかなか仕事が進まない。手伝いの方は多くても、積む予定のものを当日に考えていた感じ。2㌧積載のトラックに天井まで満載にして、終わったのは昼の12時

*天童市までは 東北道と山形道を使った

これから天童市まで走り、荷物を降ろし終えなくてはならない。若さも十分、根性も十分の2人だったけど、不安もあった。とにかく走るしかない。コンビニで食糧を買いこみトイレを済ませ、最も近い入り口から高速道路に進入した。

トラックにはアルパインのデッキがつけてあり、今となっては化石のようなCDチェンジャーもつなげてある。助手の彼にCDを入れ替えてもらいながら、ひたすらアクセルを踏む。天気は上々、東北道の走りはなんとも爽快な気分になれた。

*東北道から山形道へと舵をきる

村田JCTから山形道に入り、さらに走り続ける。やがて左手に、蔵王の山々が見えはじめる。晴れていたから特に綺麗だった。

ただ、トラックが急な坂に耐えられなかったね。走らないんじゃなくて、重さに負けて加速できなかった。そんなにエンジンが強い車輛じゃない。左側の登板車線に移り、ハザードランプをつけながら低速で走った。時速20㌔ぐらいだったと思う。

天童市内の目的地に着いたのは17時半ノンストップで、トイレ休憩もなし、燃料補給もなし。さっそく荷物を降ろし始める。

すべてが終わったのは、19時すぎ。

*天童でおりて天童市内に向かった

実を言うと、この引越は訳ありだった。事故で旦那さんを亡くされた奥さんが、実家に戻るために荷物を先発させたんだ。天童市のご自宅には、お婆さんらしき方と幼い兄妹の3人が、自分たちを待っていて下さった。

お茶をいただき、幼い兄妹たちと別れた。彼等の父親が亡くなったことを感じさせないぐらい、明るく話しかけてくれた。今でも思い出す。だから、その時を忘れないように、いただいたお礼で記念の時計を買った。時計は今でも元気でいる。

7時間半ぶりにトイレに行った。すべてを終えて、健康センターで汗を流した。コンビニにトラックをとめ、荷台で宴会をした。彼は荷台で毛布にくるまって眠り、自分はキャビンで鍵をかけて眠った。今思えば薄情なことだったが、彼は熟睡したらしい。

*いただいたお礼で 記念に時計を買った

翌日は5時に起床、佐倉市に向けて走り始めた。高速は使わない。一般道をひたすら南に向かって、ただ走り続けた。

今となっては、忘れられない素敵な思い出だ。でも、同じことは二度とできない。

あの時手伝ってくれた彼は、何年か前に消息が不明になってしまった。どこかで元気でいてくれればと、それだけを願っている…。