父は今年の夏、82歳を迎える。
心臓の手術をしてから早くも12年が経った。心臓の機能をいったん止めて弁を人工弁に変えた。見た目は普通だが、障害者手帳を携帯して暮らしている。先生は15年はもつと話していたから計算上は残り3年。今では、すっかり小さくなった気がする。
そんな父の誇りは、JAL、すなわち日本航空(以下 日航で)だ。
兄弟が何人いるかも知らず、里子に出された貧乏からのたたき上げ、商業高校卒で日航に入社できたのは幸いだった。何と言っても当時の日航は、東京六大学卒の社員がひしめいている時代で、さらに半官半民、伸び盛りの会社でもしがらみは多かったはず。
だが父は、日航にすべてをかけるつもりで働いた。東京六大学卒の社員をしり目に、50歳の中頃には取締役になっていた。町内名簿などには在籍中は平社員で通したが、人事権さえ有する立場だった。会社の肩書よりも、会社で働くことを愛していた。
お蔭で自分も妹も、苦労することなく大学まで卒業することができた。逆に社会に出てからその反動は大きく、甘えを断ち切るまでは苦労することになった。とは言っても、何度も話すように、必要な時に父は、容赦なくその手をあげた。痛かったね…。
父は国際線の地上部門の総合的な事務職だった。羽田・成田・福岡・関空、海外ならコペンハーゲンとアトランタ。インドでの研修に出かけたりもしていた。日航は、父のすべてだった。
だから、あの日、日航が消えた2010年は辛かったと思う。
63歳まで5年間勤め上げた子会社も退職して、年金暮らしに入っていた時だ。年金が減額された上、日航に未来が見えない。父はその身を、半分持っていかれたようなものだったと思う。
そもそも日航は、JASを吸収合併して鶴丸のマークを捨てた時、先行きが危ないように思えた。時代に合わないような拡大路線は、戦時の大艦巨砲主義そのもの。フットワークもまるでなくなっていた。その結果、数年で身を持ち崩したわけだ。
同じ年金暮らしの人間の多くが愚痴をもらす中、父はこう言っていた。若い社員もみんな頑張ってるんだから、と…。
2012年、日航は再び上場を果たす。その後、鶴丸のマークも現代的にアレンジされて復活した。正直言ってあの時は、父よりも自分の方が嬉しかった。子供の頃から見ていたんだ。どこに行っても、鶴丸さえあれば安心できたんだから。
この鶴丸のマーク、正面から見た鶴じゃないよね。鶴が少しだけ体をひねっているん感じなんだ。そこがまた素晴らしいんだ。このデザインを考えた方たちは、本当にいい仕事をしたと思う。このままずっと、変わらずにいて欲しいと思っている。
日航は復活したが、新型コロナウィルスの影響下、その営業はまた厳しい中に置かれている。一度あることは二度あると言う。父が人生の半分をあずけ、愛し、そして誇りにしてきた会社が倒れる姿は二度と見たくない。
いつか先に旅立つだろう父が、その古き良き思い出を、思い出のまま連れて行けるように、日航、いや、JALの方々には頑張ってほしいと思っている。