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人生経験 俺の考え 日常生活

日経電子版にして、早くも1年が経った。

昨年の正月を境に、新聞を紙面から電子版に切り替えた。

紙面との併用も考えたが、中途半端になるのはいやだったので思い切った。新しい一歩を踏み出せた気がしてワクワクしていた。

*日本経済新聞の電子版はよくできている

大学3年の頃から日本経済新聞を愛読している。就職活動のこともあったから読み始めたんだけど、あれから今日まで、30年近く読み続けていることになるのかな。

一度だけ浮気したことがあった。あまりにも宣伝広告が多いような気がして、一般大衆紙に変えてみたんだ。でも駄目、3ヶ月も我慢できなかったね。日経の記事が体が染みついているんだ。全部理解するのは難しいけれど、役に立つ記事が多いしね。

*内容が日々進化している 面白味が増している

電子版と言っても、基本的なレイアウトは紙面と同じ。右から左に向かって読んでいく。マウスひとつでページをめくり、拡大したければそれもできる。内容は日々進化しているし、面白さも増していると思う。

保存したい記事があれば、範囲を指定して保存できる。一日だけで保存したい記事がいっぱいになることもあるが、クラウドの中にため込んでくれるから全く問題がない。読み返したくなる時もあるわけで、そんな時はクリックだけで引き出せるから嬉しい。

*紙面を読んでいた時は 記事を切り抜いていた

それでも時として、以前切り抜いて保管してある記事を読みたくもなる。紙の手ざわり感には、温かいものさえ感じられたりするんだ。クリアーファイルに入れて、直射日光にさらさないように保管してあるけれど、経年劣化で黄ばんでいるのには味がある。

もっと前は、スクラップブックに貼り付けたりもしていた。いつからか、それはやめてしまっているけれど、ファイルに残されているものについては、いずれ貼り付けておくつもりだ。ブックに貼っておくと、アルバムみたいで思い出深く読めるんだよね。

*スクラップブックには 綺麗に貼っておきたい

引越の多い自分だけど、機械ものは古くても常に一緒に移動して来た。それに対して、書籍や服などはけっこう捨ててしまう。めったに読まない紙系のものって、邪魔に思えたりもしてね。だけど後悔することも多いんだ、取っておけばよかったって。

今となっては、ノスタルジアに過ぎないのかな。電子版に変えるということは、そういうものを捨てるってことでもある。だからこそ、手元に残るブックについては、これからも大切に保管しておきたいんだよね。

この先はずっと電子版を読むだろう。SNSの中ではタイムリーに情報が流れるから、新聞は無駄かなと思ったりもする。

でも、自分が求めているものは経済の記事よりも、人間について語られているコラムの方だったりする。日経のコラムは内容が熟しているから興味深い。切り抜りぬかれてきたものも、ほとんどが人間について語られたものなんだ、実際のところ…。

*この記事は 生涯を通してのの宝物かもしれない

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活

感染対策の中で、変わってみたい!

みなさんは、感染対策の中で変われたことがありますか?

自分は昨年の入院生活もはさんで、長い休業をしているから、世の中を冷静に見つめる時間がたくさんあった。テレビラジオから流れる情報、新聞のコラム。現在も感染拡大が収まらないんだから、その情報の流れもとまることを知らない

*市役所で売られていた手作りマスク かなり大き目

ああした方がいい、こうした方がいい、ありがたい情報をたくさん得ることができて感謝している。特に入院していた身だから、感染対策は徹底してやってやるみたいなね。その気持ちは今だって衰えることはない。

でも、ウィルスの感染が再拡大しているのに、人の動きは対策から離れている感じ。1年前と比べると、危機感が薄れているんだろうね。何をやっても駄目だ、感染する時は感染する、自分がかかることはないよみたいな開き直り、そして無力感

*落花生屋さんでも 手作りマスクが売られていた

街頭のインタビューを受ける人達が、マニュアルを読むように答えてる。感染拡大がこわいです、気をつけたいと思います、密を避けたいと思います。昔で言えば、エンドレステープみたいなものだね。マスクの上の目が笑っていたら、真剣さも感じないよ。

大体さ、インタビュー受けているその場所って、密じゃないの?不要不急の外出を避けて下さい、そう言われても難しいよね。人間は最も欲望の多い生き物だもの。楽しく遊びたい、美味しいものを食べたい、あれもしたいこれもしたい、我慢は良くないか。

https://youtu.be/OTqX9qT19js
*ブルーハーツが 夢をストレートに歌う

日常生活あるいは経済活動に、これだけ我慢を強いられれば、その気持ちもわからなくもない。いろいろな意味で、追い込まれている人も多い。自分だって、休業明けはどうしようかって考えたりもするよ。不安がないと言えば嘘にもなる。

生活に追われていれば、仕事をしないわけにはいかない。生活のために働くのは当たり前。どんな状況の下にあっても、経済活動は回さなくちゃならない。お金も循環されなくては、国自体も危うくなる。大いに働いて、個人も国も潤いたい。

でも、今は仕事をすることと遊ぶことを、しっかりと分けて考えた方がいいと思う。

感染が広がる前に、外出での楽しみが100だったとする。外出での楽しみを50に落とし、残り50を家で楽しんでみるとか、仮の話だよ。70と30でもいい。頑張って、0と100の比率だったら優等生だね。それが出来れば、こんなに苦労しないだろうけど。

*このマスクはサイズが合わなかったので保管

とにかく、これを機会に何かを方向転換させる気持ちは、大切だと思うんだ。同じようにやっていても、きっと何も変わらない。感染対策をうながす言葉がみんな、絵に描いた餅になる。真実味をもたなくなるよね。

苦しい時って、やはりチャンスの時なんだ。個人でも会社でも、立場は変わらない。その最たる例が、戦後の日本人の姿だよ。

こんな言い方はよくないけれど、コロナの感染対策の中で、儲かっている会社もあるわけでしょ。それは別に悪いことじゃないよね。その会社が、社会の役に立ってるってことなんだから。方向転換して儲けを出してる会社もある。立派だと思うんだよね。

ライブ会場なんかもそうでしょ。直接行くことをためらう人には、配信って重要だよ。早い時期に配信にも踏みきって、1年間考え抜いて来た会社は、もうそのノウハウがたまってるわけだ。配信される映像のレベルもUP、プロ並みの会場もあるものね。

自分は5年の間に2回、両肩に穴を開けて内側をいじってるわけだ。生まれながらに持っていたもの以外に、体内に別のパーツがあるわけ。同じことをこれからやっても、面倒なことになるとわかってる。だから今、変わるしかない、そう思うんだよね。

変わるということは、頭で考えているほどには易しくない。変化を受け入れるのが、辛いこともある。でも変わっていかないと、良くなるもの良くならないことが多い。執着心をもち過ぎることは、人生の時間を無駄にもする。

今は自分が、最も変わっていける時だと思っている。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

山形県天童市まで、走り続けた!

平成16年9月の話。山形県の天童市まで走った。

茨城県の下館市から荷物を積み、当日中に天童市まで走るという引越の仕事だった。元請けの会社から個人で仕事をいただき、仲のいい運転手を助手につけて走った。8万円ぐらいの仕事。

*佐倉市を朝4時に出発 下館市で8時まで待機した

千葉県の佐倉市を朝の4時に出発。余裕はたっぷり取るのがやり方。現地近くには1時間前に待機、これが基本。

助手につけた彼はすごい運転手だった。秋田まで毎週トラックで3往復、今では考えられない仕事の仕方だった。一番信用できる相手で、時間が合えば、自宅で語り合う仲だった。

8時から積込みを始めた。引越というからには、既に用意ができていると思っていたが、なかなか仕事が進まない。手伝いの方は多くても、積む予定のものを当日に考えていた感じ。2㌧積載のトラックに天井まで満載にして、終わったのは昼の12時

*天童市までは 東北道と山形道を使った

これから天童市まで走り、荷物を降ろし終えなくてはならない。若さも十分、根性も十分の2人だったけど、不安もあった。とにかく走るしかない。コンビニで食糧を買いこみトイレを済ませ、最も近い入り口から高速道路に進入した。

トラックにはアルパインのデッキがつけてあり、今となっては化石のようなCDチェンジャーもつなげてある。助手の彼にCDを入れ替えてもらいながら、ひたすらアクセルを踏む。天気は上々、東北道の走りはなんとも爽快な気分になれた。

*東北道から山形道へと舵をきる

村田JCTから山形道に入り、さらに走り続ける。やがて左手に、蔵王の山々が見えはじめる。晴れていたから特に綺麗だった。

ただ、トラックが急な坂に耐えられなかったね。走らないんじゃなくて、重さに負けて加速できなかった。そんなにエンジンが強い車輛じゃない。左側の登板車線に移り、ハザードランプをつけながら低速で走った。時速20㌔ぐらいだったと思う。

天童市内の目的地に着いたのは17時半ノンストップで、トイレ休憩もなし、燃料補給もなし。さっそく荷物を降ろし始める。

すべてが終わったのは、19時すぎ。

*天童でおりて天童市内に向かった

実を言うと、この引越は訳ありだった。事故で旦那さんを亡くされた奥さんが、実家に戻るために荷物を先発させたんだ。天童市のご自宅には、お婆さんらしき方と幼い兄妹の3人が、自分たちを待っていて下さった。

お茶をいただき、幼い兄妹たちと別れた。彼等の父親が亡くなったことを感じさせないぐらい、明るく話しかけてくれた。今でも思い出す。だから、その時を忘れないように、いただいたお礼で記念の時計を買った。時計は今でも元気でいる。

7時間半ぶりにトイレに行った。すべてを終えて、健康センターで汗を流した。コンビニにトラックをとめ、荷台で宴会をした。彼は荷台で毛布にくるまって眠り、自分はキャビンで鍵をかけて眠った。今思えば薄情なことだったが、彼は熟睡したらしい。

*いただいたお礼で 記念に時計を買った

翌日は5時に起床、佐倉市に向けて走り始めた。高速は使わない。一般道をひたすら南に向かって、ただ走り続けた。

今となっては、忘れられない素敵な思い出だ。でも、同じことは二度とできない。

あの時手伝ってくれた彼は、何年か前に消息が不明になってしまった。どこかで元気でいてくれればと、それだけを願っている…。

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俺の考え 健康 日常生活

リハビリにも、好奇心と探求心を。

リハビリも、好奇心探求心が必要だと思っている。

昨年の夏、左肩の手術をしたんだけど、退院後のリハビリは続いている。週に1度のペースで手術した病院に通い、肩甲骨を中心にほぐす。その期間はすでに8ヶ月目にはいっている。6月に予定しているMRI検査の結果しだいでは、リハビリの今後も決まる。

ただ、病院のリハビリだけではよくならない。週に1回行くということは、1週間の結果をリハビリの先生が診て確かめるにすぎない。時間は毎回35分程度。

*いぼつきのフォームローラーを愛用している

そうなると、無理しない範囲で、自主的にリハビリをする必要性もでてくる。それは5年前の手術の後も同じこと。ノウハウはしっかりと身についている。右肩が左肩に変わっただけ。毎日、教えられた方法と自分で考えた方法で、体をほぐしている。

今使っている道具は1つだけ。以前も使ったフォームローラー。自分は健康ポールって呼んでいる。表面がプレーンのタイプではなくて、いぼつきのタイプ。写真で見ると、ガメラの背中みたいでしょう。ほどよい刺激を得られてお奨めだ。

*ポールの直径は約13㎝ 長さは33㎝ 中心は抜ける

このローラーを平らなところにおき、背中をのせ、あおむけの状態で右へ左へと体を揺らす。そうすると、肩甲骨の硬さがほぐせるという考え方。自分の体重をのっけるわけだから、いぼの部分が肩甲骨を押してくれる。けっこう効くんだな、これが。

でも効きすぎて、背中自体が痛くなることもある。痛くならないように、少し背中を浮かすのもいいけど、余計な力を使うことにもなる。そうなるとリハビリの意味がない。

前回もここまでは考えて、床ではなく、壁と体の間にローラーをはさみ、右へ左へと動くことにした。これなら、力の加減も丁度よくなり、肩甲骨の硬くなっている部分をいい具合にほぐせる。ローラーが床に落ちないように、気持ちを集中させればいい。

*このいぼは 硬めにできていて快感

でも、今回はさらに考えてみた。体を動かすのではなく、壁と体の間にローラーをはさんだまま、両肩を回した方がいいんじゃないかって。この考え方は、自分としてはかなりヒット。

両肩を前から後ろに向けて回すでしょ、そうすると肩甲骨もいっしょに動くわけだ。痛くなり過ぎないように、肩甲骨をローラーの上にはわすようにしてほぐす。決めた数をこなし、終わった時にはホワ~ンとしたような幸福感を得られるんだ。

もともと筋肉質の体、腕立て伏せも再開してるから、いたちごっこにもなる。鍛えてほぐす、鍛えてほぐすの繰り返し。鍛えなおしたいという気持ちと、もっとほぐしたいという気持ち。

*以前は この類の本もけっこう読んだ

なかなか思い通りにはいかない。でも、毎日続けることで発想も豊かになってくる。どんなんことに対しても、好奇心と探求心をもつことが大切だと思うよ。

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人生経験 俺の考え 日常生活 映画 男はつらいよ

おおらかな時代だった。

映画「男はつらいよ」第8作、「寅次郎恋歌」の最後の場面。

おおらかな時代を感じない?

*旅の一座がトラックの荷台から宣伝活動を

寅さんが旅の途中で、以前会った旅の一座と再会するところだ。一座は、トラックの荷台に乗りこんで宣伝の途中。寅さんと、偶然に居合わせたって感じ。一座が勧めるままに、寅さんも荷台に乗り込んで、一座との楽しい時間を過ごすって寸法。

荷台に乗っていると言えば、映画「となりのトトロ」の冒頭、さつきとめいの2人が荷台にいた。三輪トラックの荷台の上、引越荷物の間にいるわけだ。警官がいると思ったさつきがめいに隠れてと言う。この頃でも、合法ではなかったってこと?

まあ兎に角、この荷台に乗るという場面があるってことは、実際にもやっていた人がいるってこと。100mとか200mとかの短い距離の話じゃない、長い距離の移動についてだよ。

*荷台にいる姿が はまっている感じ

実は、自分にもその経験があるんだ。もちろん、小さい頃のこと。小学2年生ぐらいの頃だったかな。

ある時、伯父夫婦が代沢の伯父の実家から、神奈川県の大船まで引っ越すことになった。伯父というのは、母親の兄にあたる人。距離にすれば片道で50㎞ぐらい。あの時、距離の感覚なんてあるはずがないけれど、けっこう長い時間乗っていた気がする。

さすがに高速なんかでは行かなかったよ。国道や県道だけ。荷台には祖父と2人だけ。荷台に乗っていこうか、祖父の一言で乗りこむことになった。自分の記憶が正しければ、はなかったと思う。が見えていたし、髪の毛がになびいていたからね。

*ひざ掛けまである 荷台乗車は当然?

都会じゃなければ、今もこんなことをやっているのかな?

引越のトラックには、引越主のお客様でさえも、助手席に乗せてもらえなくなったな。引越の仕事もしていたことがあるけれど、20年ぐらい前なら、まだ大丈夫だった。一緒に乗ることで、いろいろな話ができて、楽しかったのを覚えている。

お客様から差し入れをいただく前に、自分の方から、飲み物をいかがですか?なんて言って、クーラーボックスの中から選んでもらったりしてね。たった一日の関係でも楽しかったよ。

*さあ 楽しい時間のはじまりだ!

何でもかんでも、時代のせいにするつもりはない。当時と比較すれば、車の量も増えた。安全という点からすれば、荷台に乗り合う時代じゃない。ヘルメットでもすればいいかって、そんな冗談が通じる時代でもない。

仕事によっては乗り合うこともあるだろうけど、交通安全を守ることが一番大切だろう。

ただし、一つ言えることがある。「男はつらいよ」にしても「となりのトトロ」にしても、こういう荷台に乗るという場面がなかったら、映画の味も変わっていたってこと。

時代だけでは語れない、なにか温かいものがあったと思うんだ。

おおらかな時代だったよね。

*寅さんの笑顔 一座の笑顔 楽しいが一番大切

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俺の考え 健康 日常生活

アキレス腱を、まもれ。

アキレス腱をやってしまった!

切ったわけじゃないんだけど、痛めてしまった。炎症を起こさせてしまったようだ。

その原因になったのは、新しい靴で歩いたこと。まさかと思うかもしれないが、本当の話。かかとの部分がアキレス腱にあたって、歩いている内に食い込んでいたみたいだ。2日ぐらい経ってからのこと、急にかかとに違和感を覚えた。

*冬に履く ハイカットのトレッキングシューズ

冬はハイカットの靴でウォーキングをする。温かいうえに、くるぶしから上を守ってくれるので、とても歩きやすい。

でも、今年は暖冬だったので、早めに春用の靴を準備しようと考え、ローカットの靴を買っておいた。靴屋さんで試した時には、サイズの点では問題がなかった。これはラッキー、うまい具合に手に入ったと思った。それが2月初めのこと。

2月の中頃になって、いよいよ履いてみたくなった。写真を撮りながら歩けば3時間くらいの、新しいコース。試すとなればうれしい。いつもの出発地点、国立歴史民俗博物館から歩き始めた。

*ローカットのトレッキングシューズを選んだ

1時間くらい歩いた頃、右足のかかとに違和感を覚えた。違和感というか、よくある靴ずれをおこしたんだ。かかとの部分をすりむいている。紐を少しだけ緩めて、また歩き出す。

ゆっくり目に歩いた。肉屋さんによって惣菜を買う。この時買った串カツは美味しかった。歴史的建築物を見学。悠久の時を感じて気持ちが豊かになる。そんな楽しい時間を過ごして帰宅する。うまく歩いたつもりが、右足のかかとは、今でも傷跡が残るくらいにすりむいていた。

ところが、2日経ってから痛み出したのは、反対側の左足。かかとの上、アキレス腱の部分。初めは靭帯を痛めたのかなって思った。どちらにせよ痛い、歩きにくい。触れると内側がゴムのように伸びている感じ。かかりつけの外科に行った。

とりあえず、レントゲン撮影を行う。骨に異常はなかった。

だが、レントゲンに写るのは基本的に骨。左肩の時もそうだったけれど、細かく知りたいのであれば、やはりMRI検査が必要だと思う。

先生の診断結果は、アキレス腱の炎症。湿布を貼って様子をみましょうということに。昨年の左肩の時と同じような流れ。

*奥のハイカットと比べると かかと部分の角度に差が

結局のところ、原因になったのは何か?

トレッキングシューズっていうのは、作りが硬い。ハイカットのかかと部分は、上に向かって緩やかな曲線を描く。一方のローカットはかかと部分が短いから、曲線もきつくなる。思っている以上に、かかと部分がアキレス腱に食い込む形になる。

右足はすりむいただけで済んだが、すりむいた方が良かった。

1ケ月半経った今、ふくらはぎに影響が出始めている。かかとが着地した瞬間に、ふくらはぎが圧迫される。歩きにくい。ウォーキングにも影響が出始めている。感染対策を強化する中でも、ウォーキングはしたい。MRI検査をするべき時かもしれない。

新しい靴で歩き、少しでも合わないと感じたら、無理して歩くことはやめた方がいい。

後遺症が残るような感じもしている。左肩に続いて、悪い結果にならないことを願い、歩くことにも気を遣う毎日。アキレス腱を、まもられなければ。

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アニメ 俺の考え 日常生活 趣味

ガンダムは、スポ根の延長か?

*ガンダムに関する書籍は数限りない

機動戦士ガンダム。

これは、巨大ロボット隆盛の時代に、彗星のごとく現れた新しいロボットアニメの形だった。そして、劇中の人間関係は人間味があふれている。巨人の星やアタックNo.1のような、スポ根の延長にあったような気もする。

ガンダムはこの国で、あるいは世界で、最も有名なロボットではないかと思う。その機動力については、言うに及ばない。戦闘マシーンとしては劇中で常に進化を遂げ、その豊富なデザインはガンプラを常に進化させている。

子供の頃のガンダムブームはすごかった。映画3部作が上映された頃から、ガンプラを求めてモデルセンターは列ができた。並んだってその場で買えるわけがない。みんな、予約するためにも並んでいた気がする。

どちらかと言えば、自分はあまり興味がなかった。天邪鬼というわけではないけれど、宇宙戦艦ヤマトの方が好きだったのかもしれない。かえって大人になってからの方が、深く興味が湧いた。

ガンダムシリーズはかなり派生している。その時代に合った作品になっているのも魅力だ。

だが、自分にとっての一番をつけるとしたら、やはり、ファーストガンダムだろう。アムロとシャアが中心の世界だ。これに続くZガンダムガンダムZZ、そして映画「逆襲のシャア」。ファーストの流れが一番好きだ。

そもそもガンダムの世界観は、子供が簡単に理解できるとは思えない。富野由悠季監督の考えていたことは、かなり深いと思う。

*この時アムロは15歳 人生で初めての平手打ち

現代版のガンダムの中では、大人が子供を叱るのに手を上げることがあまり、いやほとんどない。アムロがブライトに殴られるこのシーン、間をおいて2回平手打ちされている。

タイムリーにガンダムを見ていた時、このシーンを否定する人はいなかったと思う。殴られるシーンは、ごく自然に劇中におりこまれていた。見る側もそれを普通に見ていた。

たくましい女性陣もたくさん出演するけれど、連邦軍に身を寄せるシャアの妹のセイラは、第1話でカイを殴って説教をする。そのシーンも、自然な形で受け入れていた。

結局、スポ根って言うか、大人が子供を叱る時には、殴るという過程が当たり前だったんだ。殴ることで気づかせ、殴られることで気づいたんだ。それが、大人にも子供にもできたんだ。

殴るっていうのは暴力とは違う。そこを間違えてはいけない。

自分の父親にしてもそうだけど、大人たちはきちんと殴る加減を知っていた。殴るべき時も知っていたんだ。子供にすれば、その時は?であっても、後日大人になって、理解し感謝すらできた。

ブライトはアムロに言う。殴られもせずに一人前になった奴がどこにいるものか、と。

この時のアムロは15歳でブライトは19歳、セイラは16歳でカイは17歳だった気がする。未成年が未成年を殴って、生き延びようと戦っていたわけだ。すごいよね。平和な今では考えにくい。でもこのシーンがないと、ファーストの世界観は成り立たない。

*幼馴染のフラウの方が ずっと大人に思えた

殴るということを肯定しているわけじゃない。時と場合によっては必要だということ。この後のアムロは、戦闘で目覚ましい活躍をした。でもまだ甘える。その後も殴られ、先輩の死によって本当の成長を遂げていく。逆襲のシャアの頃は、ブライトとの信頼関係は絶対的なものになっていた。

ガンダムがスポ根の延長にあったと思うのは自分の考え。

ただ殴られることによって、殴られる痛みを知る。殴られる痛みを知れば、簡単に人を殴ることはできない。殴られることによって、気づきを得ることも多い。気づきを得れば、人は成長する。

頭ごなしに殴るという行為を否定せず、ガンダムでも見て学んでほしい。ガンダムを見るだけでも、人は成長すると思っている。

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俺の考え 日常生活 趣味

ホームセンターの工夫。

これ、わかります?

ペダルを踏みこむと、液体が出るようになっているんだ。

*ペダルを踏みこむと プッシュされて液体が出る

ホームセンターの方が制作したのかどうか、そこまで聞いたりはしなかった。入り口ですぐに目にはいってきた。ペダルを踏んで液体を手にのせて思ったことは、良くできてるってことだ。

自分は特にDIY、すなわち Do it Yourself 、趣味的な大工さんをしているわけじゃない。でも、いろいろと工夫して作ることは大好きだ。部屋のデスクも実は、過去の引越作業の時に、お客さんが捨てるのをいただいてきた。

仲間に聞いたら、元の値段はかなり高いっていうもんだから、じゃいただいちゃおうって感じでね。ガッチリしていて出来がいいし、背中側に細工をして長く愛用することにもなっている。

*この右側の机 いまだに愛用している元廃棄物

話が飛んだ。まあそんなわけで、ゴミからでも工夫をしようって考え方、工夫に対する好奇心をもちあわせているつもり。

この手作りのプッシュマシン、簡単に作れるようだけど難しい。特に細かい調整ができるわけではなさそう。となれば、この大きさのボトルのためだけに作られたと見ていい。

強く踏まないでくださいって、注意書きがあった。頑丈そうに見えても、適度な力でってこと。ただ一番のポイントは、液体の出る量だ。ワンプッシュで適当な量が必要。

大人の手にも子供の手にも、ちょうどいいぐらいの量って、案外難しい。少なすぎればワンモア、多すぎれば手に余る。

*素直に よくできているなって感心した

手にのった量は多すぎず少なすぎず、まさに適量だった。子供の手なら多すぎるかもしれないが、子供は手でもむことを楽しむかもしれないから、これでいいと思えた。

プッシュ部分を上部の木が下げる間隔を、良く計算してあるんだ。ホームセンターならではだね。この手のお店には、DIYが好きな人も多いんだろうな。

手作りの醍醐味があった。機械が計算して、3Dプリンターで作られているとは思えない。それも時代の流れではあるけど、手作りの良さってあるよね、やっぱり。

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俺の考え 健康 日常生活

新型コロナウィルス、感染対策に思う。

世の中に、新型コロナウィルスの感染が広がり始めて、既に1年弱が経った。もう1年だ、あっという間。時間というのは、本当に早い。光陰矢の如しとは、よく言ったもの。良い意味でも悪い意味でも、時間の早さに抵抗することはできない。

*昨年の春には 国が支給したマスクもあった

そもそも感染について騒ぎ始めたのは、いつ頃からだったかな?
豪華客船が、日本の港に着いた頃だったかな?自分の中ではそのように覚えている。

正直に話すと、初めはそんなに重く考えていなかった。新種のインフルエンザなのかなって、その程度だったんだ。現場仕事の身、春とはいっても新陳代謝が激しく、吐く息も多い自分、マスクが邪魔なものに思えた。

昨年の3月中旬頃、ドコモショップさんにおじゃました際、周りの人達がほとんどマスクをしていた。仕事帰りの自分は、何も考えずに事務手続きを進めていたんだけど、担当の方にしてもマスクをしているわけで、やはり気まずさがあったよね。

注意をされることはなかった。まだ、感染対策には緩さがあったのかな。

でも、その翌日から早速マスクをつけた。自分に甘さがあることを実感したからね。以来、人前でマスクをつけない日はない。ゴミ捨てだけでも、誰に会うかわからないからマスクをつける。

1年が過ぎ、今年もまた春がやってきた。街頭でテレビ局のインタビューを受けた大人達が答える。政府が市町村が誰々が、もっと感染対策をしてくれなくちゃ困るって内容で。

こういうのを他力本願っていうのかな?

*好奇心もあっていろいろなマスクを試した

確かに自分だって、そう思わないこともない。トップがもっとしっかりと指針を示してくれたら、こんなことにはならなかった。そう思わずにいられないことは、たくさんあるよ。

これは、感染対策に限ったことじゃない。昭和の政治家を引き合いに出せばきりがないけど、やはり器がでかかった。現代の指導者=国の指揮者たちは、決断力が弱いしスピードも遅いと思う。

ただ、ひとつ聞いてみたい。感染が再拡大している中で、誰もがみな、個人でできる感染対策を徹底できているのかって?

を避けてなんて、昨年から何度聞いただろう。マスクの徹底、うがいと手洗いの徹底、人と人の距離の徹底。1年も聞き続けていれば条件反射で出来ていいぐらいだよね。

でも街中を歩いていると、それが徹底されているとは思えないんだ。先日、子供たちが4人ぐらいいて、誰もマスクをつけていなかった。放課後の小学校のそば。大人としての親たちは何も言わないのかなって、真剣に考えてしまったよ。

*10ケ月以上かけて このマスクに落ち着いた

これだけ毎日毎日、感染の情報が流れている上、入院患者も減らない。医療従事者は疲れているよね。プライベートの時間を我慢してでも、医療に従事している人も多い。余計な仕事を増やさないためにも、一人一人ができることってあるはずだ。

それが限界まで出来ていないのに、ただお願いします、しっかりして下さいって言うのはどうなんだろうか?

言うは易く行うは難しだ。

夏に2ヶ月近く入院していた自分だって、まだ徹底できていないこともある。完璧は存在しないけれど、自分でできる感染対策は、可能な限り確実にやっていきたい。

感染者がまた増え始め、変異ウィルスも力を増してきた。

子供の見本であれるように、大人としてあるべき姿を、今一度見つめなおしてみたい。

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俺の考え 日常生活 趣味

車の個性が、見えない。

ホームセンターに買い物に行ったら、懐かしい車が目にはいった。バブル経済崩壊前後、1990年代の初めの頃にデビューした、トヨタの車。両側に、ガルウィングを備えたセラだ。

*上に向かって跳ね上がるドア

ガルウィングっていうと、子供の頃に憧れたスーパーカー、ランボルギーニー・カウンタックを思い出す。もちろん、ガルウィングを備えた車は、他にもいくつかある。

だが、スーパーカーブームの時代だ、カウンタックの存在は大きかった。平べったいフォルムのボディから、ドアが空に向かって跳ね上がる。カッコ良かった!

それをトヨタが採用して、一般大衆車として世に送り出してきた。いろいろな形の車がデビューした時代だ、新しい車種には興奮したね。スバルのアルシオーネSVX、三菱のGTOなど様々。

バブル経済が許していたのかもしれない、メーカーが様々な車に挑戦することを。車の話題に尽きない時代だったし、雑誌やカタログを見ているだけで興奮していた。F1も大盛況の時代だ。

*スバルのアルシオーネSVX ジウジアーロのデザイン
*三菱のGTO 横幅があってデカかった!

とにかく、車1台1台に個性があった。車の名前の数だけ、個性が存在した。だから、新車が出る日が待ち遠しかった。ネット検索なんて存在しない時代、車雑誌が情報源。後はショールームで見るか、街中で見かけるまで待つか、そのどちらかだった。

そんな時に、このセラがデビューしたんだ。

*この頃 丸みをおびたデザインが出始めていた

久しぶりに見かけて興奮した。持ち主さんに頼んで、写真を撮らせて頂いた。買ったばかりの植物用の肥料を積んでる最中でね、開けていた左側は手で支えていないと落ちて来るとか。

作業中にもかかわらず、わざわざ運転席側を跳ね上げてくれた。時間をとりすぎてはいけないから、急いで3枚ほど撮ってお別れした。持ち主さんと車の両者と。

*かわいくて個性的だった

写真を撮っている時の、嬉しそうな笑い方がとても気持ち良かった。ものを大切にする人達の愛着は、どんなものに対してでも深いものがある。この車のように、2度と生み出されないような個性をもつものに対してなら、なおいっそうのことだろう。

車の形が好きだから乗ってみたい。その車に乗りたいから免許が欲しい。そんな興奮をもたせてくれる車を、見つけられない。

今、車の個性が見えなくなっている。