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ロッキーの復活劇に、自分を重ねて鍛えなおす

映画「ロッキー」は長くシリーズ化された。学生時代に映画館で見た「ロッキーⅤ/ 最後のドラマ」が最後かなと思っていたら、それから約16年後に「ロッキー・ザ・ファイナル」が製作された。「ロッキーⅤ」がシリーズ最低の興行成績だったので、そのリベンジも兼ねてのファイナルだったのかもしれない。

*ハングリー精神を持つ人間は迫力が違う

ロッキーⅢ」の中で、チャンピオンベルトを手に入れたロッキーは、世界ヘビー級チャンピオンとして快進撃を続けて防衛に成功していた。だが、ハングリー精神を失い、ハングリーの塊のようなクラバー・ラングにベルトを奪われる。その際に往年の名トレーナーだったミッキーが死に、失意のどん底に落ちる。

世間一般的にも、よくあること。ベルトを獲得したまでは良かったが、その後は少しずつ普通の人間に向かい、獲物を狩るのような目を失っていく。ミッキーのロッキーへの思いが弱い相手との防衛戦を組ませた。10度の防衛に成功したことが、自分は強いと勘違いさせる。ハングリー精神は失われ、リングに沈んだ。

かつての宿敵アポロをトレーナーとして迎えたものの、ロッキー自身の士気が上がらない。クラバーとのリターンマッチを前に、自分の弱さを認められない。また負けるかもしれないという、怖さを認められない。怖いという現実から目をそらす。様々な言い訳をする。言い訳ばかりで、かつての強さを戻すことできない。

*このアポロとのトレーニングは名シーンのひとつだ

近頃ずっと、自分自身に置き換えて考える毎日だった。

昨夏に手術をしてから、可能な限り完治に近い状態にもっていくために、長い休業をしているが、休業のための保険もいずれ切れる。6月の初めにMRI検査を行い、先生の診断をいただく予定になっている。おそらく経過は良好だと思うが、肉体労働をほのめかしたりすれば、先生はいい顏をすることはないだろう。

でも、やり方が変えるにしても、やはり自分は体を動かして働くのが好きなんだ。汗を流すことが好きなんだ。どんなにエクササイズをして達成感を得ても、仕事を終えて汗を流した時の快感を得ることはできない。腕に浮かび上がる血管と汗、体重計に乗った時の体重の減りぐあい、すべて体を動かして得られる快感だ。

5年越しで両肩を手術しているから、次に手術することになれば面倒なことになる。内部を縫うために穴を開ける部分が限られてくるからだ。腕立て伏せは、1セットあたり元通りの回数のところまで来ているが、痛みだってある。でも、こんなことを言っていると、何にも出来なくなる。悶々としていたよ。

https://youtu.be/ERT_7u5L0dc
*この曲と 動画があれば自分を鍛えられる!

こういう時は、「ロッキー」を見なおすに限る。かの有名な主題歌「Eye of The Tiger」や「ロッキーのテーマ」を聴いて、エクササイズをする。フィットネスバイクで汗を流し、小型ダンベルも再開し、自主的なリハビリにも精を出す。

それでも、病院でリハビリをするたびに、リハビリの先生が無理をするなと言う。本当に、葛藤の毎日だ。世の中には他にいくらでも、苦労して頑張って生きている人がたくさんいるのに、こんな肩ぐらいと思いながらも、又手術したらとも考える情けなさ

でも、やるしかない。所詮ひとりで仕事をするタイプ。自分でやりたいと決めたことなら、いくらでも無理がきくし、同時に無理が過ぎると思えばスピードのコントロールすればいい。100%肩に頼るような仕事をしなければいいだけ。その流れを作るために、ブログに記事を100本UPするって目標を立てたんだ。

*ロッキーは見事 チャンピオンに返り咲いた

ロッキーは、再びベルトを勝ち取った。今までの戦術を変えて。

先日お会いした紳士の言葉じゃないが、まだ3つも4つも何かができる歳だ。ドローンを操作するように、自分自身を自由に操作してみたい。もう少しの我慢だと信じたい。

生きるための戦術は、いくらでも変えられる。

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バカができるのって、大切なことだよね。

映画「釣りバカ日誌」を見ていると、西田敏行が演じるハマちゃんこと浜崎伝助が、様々な場面でバカをやっている。上半身はだかになったり、コスプレをしたりメイクをしたり、それはそれは見ている方は楽しくなる。西田敏行という俳優の魅力でもあるんだろうけど、バカが出来ることの大切さを思い知らされる。

*高木ブーとのハワイアン 上手いんだ

当たり前だけど、全編を通してバカをやっているわけじゃない。必要な場面で踊るなどしてバカをやっている。営業マンとして宴会でお客さん達を前にしている時や、盛り上げることが必要な場面で率先して踊る。こういうことをやらせると、西田敏行は本当に上手い。同じ遊び人風に見えても、寅さんの対極にいる感じ。

自分が寅さんを、「男はつらいよ」の世界を好きなことは何度も話したけれど、「釣りバカ日誌」の世界というのも本当に好きなんだよね。過去に酒の席などでかなりバカをやっては来たけれど、ハマちゃんのように、ここまで徹底したバカをしたことはない。どちらかと言えば、見て楽しむ側になってしまう。

*こういうのを見せられたら 吹き出すよ

大垣にいた頃の後輩の仲間には、面白い人間がたくさんいた。「変体の会」という酒飲みの会をつくって、個性が豊かに思える人間だけを集めて飲んでいた。女装して踊るやつもいたし、眠りこけてお尻に割り箸を立てられているやつもいた。床に吐いて女将に叱られても、他人事のように眺めているやつもいた。

でも、こういう仲間が偏差値だけなら、自分よりもずっと有名な大学を出ていたりする。東北大学だったり一橋大学だったり早稲田大学だったり。器がでかいから有名な大学に入れたのか、入れたから器を鍛えられたのか。とにかく、その時思ったのは、厳しい受験戦争に勝った人間は何かが違うってことだったな。

*シナリオを考えた人間も すごいよね

課長 島耕作」という漫画の中でも、仕事上の失敗に対して頭を下げに行ったお客たちの前で、部長裸踊りをする場面がある。それが出来なかった島耕作に、部長は言う。

新卒で会社に入った頃、お客の前でふんどしを締めて裸踊りをさせられた。大学で学んだことは吹っ飛び、仕事とはこういうものだって思い知らされた。脆弱な知識プライドは関係ない。わかってしまえば怖いものはなくなり、仕事にも自信がわいてパワーもついた、と。これを読んだ時、大いに納得できた。

*バカをやるたび ハマちゃんの人気はUP

ただ、ハマちゃんはただ者じゃない。釣りバカというタイトル通り釣りが大好きで、釣りとおなじくらい裸踊りは営業の武器になる。しかも営業しているという姿勢は微塵にも見せず、あくまでも自分自身が楽しんだ上で、結果的に武器になっているだけ。出世はしないが家族を愛し家族に愛され、そして皆に愛される。

寅さんについても同じことが言えるけれど、真似しようとしたところで、まず真似しきれないね。ある意味で、こういう人たちには天性のものが備わっているとも思う。だからこそ共感もしてしまう。こういうバカができることに憧れもする。

バカができるというのは、大切なことだと思う。

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ビデオをレンタル、ダビングに学んだ日々。

YouTubeを見ていると、小中高を過ごした1980年代や学生や新入社員だった1990年代の世界に、簡単に戻ることができる。その幅はかなり広くて飽きることがない。動画を作っている人達には心から感謝したくなる。自分は動画を作るほどには時間が追いつかないので、しばらくは見る側で過ごしそうだ。

*ビデオデッキ本体だけで 重量が11㎏ある

80年代や90年代は、まだテレビが主流でビデオで録画して見ることも多かった。ミュージックビデオ等も高かったから、レンタルして見ることがほとんど。80年代のビデオは、発売当時は1本あたり12,000円なんてザラだったからね。高価すぎて手が出ない。だからレンタルする時は、仲間で集まってダビング大会

ただ、SONY松下のビデオの規格戦争の結果、ベータよりもVHSを使う人が多くなっていた。自分のようにベータを使う人間はダビングにも苦労した。画質はベータの方が良かったし、全体の出来も良かったと今でも思っている。ただ、テープにかかるコスト面などを考えると、VHSの勝ちだったのかもしれない。

*ダビングするための操作スイッチ

ダビングをするためには、互いにデッキを持ち寄らなければならない。自分のデッキは重さが11㎏あるから、自転車に乗せて運ぶにしても、バランスが問題だった。そこで、どちらかと言えば重さが軽い相手が来ることが多かった。ネットで動画を飛ばしあえる現在からすれば、遠い昔のできごとになったのかな。

でも、本当に楽しかった。その当時に興味を持っている人でなければ、ネット社会なんて想像もできなかったはず。ダビングするという方法でしか、コピーする方法は無かった。だから苦労してるなんて感覚は全くなかったし、とにかく考えぬいた。どうしたら少しでも画質を維持したまま、コピーをできるかなって。

*まだ たくさんのケーブルが残っている

デッキとデッキをつなぐケーブルを、可能なかぎり短くすれば画質が綺麗なままコピーできるんじゃないか。端子は金メッキの方がいいんじゃないか。ケーブルは太い方が画像が圧縮されないんじゃないか。こんな感じで、とにかく考えて工夫することを自ら学んでいった。ベータは音だけのハイファイ録音も出来たんだ。

でも、ベータとVHSの2種類をレンタルしたら、お金がかかる。そこでベータだけを借りて、①ベータ⇒VHS ②VHS⇒VHSの順番でダビングをする。②は既に孫ダビングになるから画質は多少落ちる。それでも、ダビングして自分が所有することにもこだわった。レンタル代金は高くて、10本借りるなんて夢の世界だ。

*背面にケーブルをつないでダビング

だけど、高校の頃とかの話だからね、ダビングしている間に同じ作品を2度見ることになるわけだ。よほど興味がないかぎりは、2度見るなんてことは時間の無駄だった。だから仕事はビデオに任せて、一旦外出したりもした。当時から、デッキに高速ダビングの機能でもついていれば良かったんだけど。

結果的に、素人でもいろいろと知識が身についたし、何よりも自分で考えて工夫することを覚えたね。ベータと違ってVHSには3倍の録音モードがあって、120分テープなら360分の録画が可能だった。多少は画質も落ちたが、画質が落ちるにしてもテープに空白部分が残らないよう、時間を徹底的に計算していたんだ。

*ジョグダイヤルを使って 編集者気分

サブスクリプションが全盛の今、AmazonにBANDAI CHANNELにNetflix、そして当然YouTubeがあればレンタルを使わない。テレビで映画を見ることもほとんどないし、すでに5年以上録画して見ることもなくなった。見たいものは、時間が許すかぎりネットで何度も見直す。寅さん49話分は、何巡したかも忘れた。

ただ提供する側は常に脳内が満たされているが、楽な方法に甘んじている提供される側の自分は、どんどん脳内が退化していくような感じだ。文章を考えて書いていくのと同じように、自分で考えて動画を制作していくような気持ちが、やはり大切だと思う。

考えていたら、またワクワクしてきた。

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クラッチ板を破損させ、ダブルクラッチへ。

西濃運輸という業界最大手の一角を担う運輸会社に入社したが、マニュアルの運転はすごく下手だった。新卒の時に店所配属から始まっていたら、マニュアル車に乗る機会も多かっただろう。でも本社勤務では、マニュアル車に乗る機会はほとんどなく。あってもカローラバンぐらいで、トラックなどはまずなかった。

*真ん中が クラッチ板と言われるもの

そんな自分が借り物とは言え、2㌧のマニュアルのトラックで仕事を始めた。初日に横浜から佐倉まで、いきなり一般道90㌔走ってトラックをひっぱって来た。この時はさすがに緊張した。免許を取ってから既に10年近く経っていたが、初めて本格的にマニュアルを運転、しかもトラックを。よく走れたものだ。

既に退路を断っていたから、走るしかなかった。下手クソなクラッチ操作を繰り返しながら、なんとか佐倉に到着。着いた時点で、かなりクラッチ板をすり減らしていたと思う。翌日から少しずつ仕事を始めたが、同時に少しずつクラッチ板をすり減らしていった。要はクラッチ操作の典型的な初心者だったわけだ。

*クラッチ操作の仕組みがわかりやすい

時間が経つにつれて、走行中に燃えるような臭いがし始めていた。クラッチ板が摩擦を起こしていたんだ。火が出るわけじゃない。クラッチ板が必要以上に踏み過ぎていたってこと。その時は理由がわからない。仕事も増え始めていた頃で、毎日休む暇もない。ある日とうとう、都内の国道で操作不能になった。

横浜への配達の帰り道、異変に気づいて片側3車線の道をすぐに一番左側へ。とりあえずそれが良かった。道の真ん中での故障は免れた。路駐の見回り隊もいない頃で、左わきに停めてレッカーを頼む。レッカー車の助手席に座り、いすゞの工場へ。代車のトラックを借りて佐倉まで。工場を出た時は恥ずかしかった。

初心者がよくやる失敗だと、先輩格の仲間が話していた。借り物のトラックの上、資金もない。修理代を肩代わりして頂いた。前回にクラッチ板を交換してから、日も浅かったらしい。修理代を肩代わりしてもらったことが、猛烈に悔しかった。日常点検を個人的にお願いしていた、修理のプロ的な先生に指示を仰いだ。

*マニュアルは慣れると職人気質でかっこいい

1速発進をして、ダブルクラッチにしろ。先生はこう言った。

トラックは2速発進が日常的。でもそれが正しいわけじゃない。何のために1速あるんだという話になる。坂道発進や、重量物を積んでいる時に使う。後はひたすら2速発進。先生が言うには、過去に40万㌔以上走行して、初めてクラッチ板を交換した人がいたとか。それなら自分もと、さっそく修行が始まった。

そもそもダブルクラッチとは何か。シフトを上げる時、クラッチを半クラで操作、クラッチを踏みっぱなしになる。だから操作が下手だと、長い時間クラッチ板が操作されて、クラッチ板のすり減り方が早くなる。そこで、一旦クラッチから足を離し、ニュートラルの状態にして瞬時にクラッチを踏み直す

普通ならシフトを1つ上げるごとに1回クラッチを踏むところ、2回踏むことになる。1速から5速までなら4回踏むところを、倍の8回踏むことになる。これを口だけで説明するのは難しい。慣れるまで練習するしかない。体に覚えさせるしかない。足首のスナップをきかせる訓練もしてみた。慣れてくると楽しくなるんだ。

*大型トラックの近未来のコンセプトカー

2年後に排気ガス規制に対応するため、新車でトラックを買っても1速発進ダブルクラッチを続けた。その後、トラックを手放すまで30万㌔近く走っていたが、クラッチ板は半分しかすり減っていなかった。先生に、クラッチの心配はしなくて大丈夫だと言われた。操作が上手いと言われた。嬉しかったね、あの時は。

性格のこともあるとは思っている。ただ人間は、特にお金がからんでくると、真剣さが増してくるものらしい。

*トランスフォーマーならトラックも友人?

ちなみに現在は大型トラックも、オートマの時代だと思う。オートマの方が燃費もよくなっている。何よりも運転手が高齢化していく時代にあって、自動運転のトラック開発は急がれるべきだ。

職人気質的な運転には魅力が溢れているが、いい意味で人は、楽になっていくべきだ。すでに数年前から、高速道路での自動縦列走行の実験は始まっている。やがてトラックそのものが意思を持つのかもしれない。まさに、トランスフォーマーの世界だ。

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人生経験 俺の考え 健康 入院日記 2020年夏 日常生活

限度額適用認定証、再申請時に受けた恩。

入院前に用意しておく必要があるのが、限度額適用認定証

高額療養費制度というもので、手術や入院をした患者が、所得に応じて支払うべき費用を定めたもの。例えば、70歳未満で基礎控除後の所得が210万円以下であれば自己負担額は57,600円までになり、100万円の請求がきたとしても支払いは57,600円になる。そのために病院に掲示するのが、限度額適用認定証だ。

*入院前に 市役所等で必ず申請をする

でも、限度額の対象はあくまでも医療費。食事代の標準負担額や差額ベッド代、病衣代やテレビ代なでゃ対象外になる。それは当然だよね。保険代を支払っている人が対象になると言っても、差額分は国がもつわけで、そこまで支払っていたら財政は圧迫されてしまう。医療費だけでも十分にありがたいと思うよ。

5年前の手術の時もこの制度を使っているから、今回も入院前に申請して準備しておいた。7月6日から入院して、8日に手術を終えて8月22日まで入院生活を送った。手術した7月の医療費の請求額だけで120万円以上。独身としてはかなり厚く保険を掛けているが、限度額があることで負担額は相当下がることになる。

*所得ごとに 決められている限度額

前回の手術時にも感じたが、入院生活を送るとこの制度のありがたさが身に染みる。多少の蓄え保険さえあれば、特に問題なく入院生活を送ることができる。今回の手術は、右肩が左肩に変わっただけだから、過去のファイルから請求額などは事前に計算してあったし、病室には電卓をおいて費用の計算を怠らなかった。

この限度額適用認定証、有効期限が1年間だ。保険証は7月に更新されるから、それに合わせるように更新しなくてはならない。前回のように入院するのが正月明けとかなら、更新時期に重ならないので特に問題はない。今回は7月に入院して8月末頃に退院する予定でいたから、月をまたぐので更新の申請が必要になる。

身内が近くにいれば問題ないが、横浜に住む高齢の両親に頼むわけにはいかない。手術後で固定装具をつけている自分が、市役所まで外出もできない。6月の申請時に、その時の担当者に更新時の手続きの仕方を相談してみたんだ。その方の対応の仕方が的確で大変に親切なものだった。

*愛用する Canonの電卓きょうだい

手術したのは7月8日。今回は左肩だったので、申請のためにペンをとる利き腕は通常通り動く。さらに、入院前に申請書の記入も大方終わっていたから、9日には申請書を市役所に向けて郵送した。6月の申請時に、その担当者の宛名入りの封筒も頂いてあった。ヘルパーさんにポストへの投函をお願いした。

驚いたのは、14日には新しい認定証が手元に届いたということだ。1週間もかからなかった。しかも郵送で届いたわけじゃない。担当者が自ら病院まで持参して下さった。自宅には誰もいないということを6月に話してあって、それを覚えていて下さったわけだ。手術したばかりだったから、なおさら嬉しかったよ。

嬉しいと喜んでいるだけでは、人の道にはずれる。すぐに市役所に電話して、その担当者を呼んで頂いたが、あいにく外出中だった。保険証更新などの忙しい時期でもあったから、電話で言付けをお願いした。その電話口の方も丁寧な方だった。わざわざご丁寧にありがとうございます、ごく普通の言葉でも嬉しかったね。

*7月の保険証更新時に 再申請の必要がある

正直に話すと、20年前の市役所のイメージは非常に悪かった。窓口はいつも暗いイメージがあったし、職員の対応も上から目線で、お役所仕事の王道を行っていた。ここ数年の間に、イメージはかなり変わっていたが、今回の件は格別だった。入院する者に対する細かい気配りが、実に見事だったと思う。

小さく些細なことだと思うかもしれない。

だが人は案外、派手なことよりも、小さく些細なことの方を覚えているもの。派手なことは誰の目にもつくけれど、小さく些細なことは後になって心によみがえってくる。派手なことには心もときめくが、地味なことは時間をかけて人の心を支配する。

ご担当者のご厚意もあり、退院まで無事に過ごすことができた。

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あの日、彼の死は、突然やってきた。

2019年10月のある日、1本の電話が入った。第2次運輸業時代に、一緒に仕事をしていた仲間からだった。

15年以上前に、資格を取って運転手から通関士になった古い仲間が死んだって言うんだ。40歳半ばくらいだったかな、歳は詳しくは覚えていない。自分よりは若くて、通関士としても夫としても親としても頑張っていた。いや、頑張っていたらしいと言った方がいい。仕事を替えてから、つき合いは途絶えていたから。

それにしても、あまりに突然のことで驚く暇なんてなかったよ。仲間から必要なことを聞き、お通夜だけは出席することができた。亡くなった方の顔を見た時、いつも同じことを思う。本当に死んでしまったの?って。寝ているだけじゃないの?って。死化粧がそう見せるんだろうね。安らかに美しく見えるように。

*成田空港の貨物地区の仕事が好きだった

亡くなった彼とは、約20年前に出会った。先だって話をした佐倉市の地元の運送会社さん、そこに所属していた運転手。平ボディのトラックに乗り、建材を運んで現場に荷を下ろす毎日だったかな。トラックが入って行けない時など、木材を担いで現場まで歩き荷を下ろしていた。そのわりには、線が細い人だった。

自分が1人で仕事を始めて、ちょうど5年目ぐらいの頃だった。彼はその会社の運転手から事務職に変わり、成田空港の事務所で配車担当者になっていた。空港の輸出入の貨物や佐川急便の仕事を運転手に割りふるわけ。傭車扱いでよく仕事をもらった。一番思い出深いのは、東京から愛媛の松山まで走りぬけたこと。

佐川急便の貸し切りの仕事。東京は港区で、午後から2か所で絵画を70枚ほど積み、翌日の8時までに松山に運ぶ。当日は雨で、走り始めたら東名で西から向かってきた台風に突っ込み、そのまま中心を抜けて関西を横切り瀬戸大橋をわたる。さらに走り続けて6時くらいには松山着。荷下ろしは昼まで待ちぼうけしたが。

*つぎ足しだらけの空港施設 複雑になった

そんな彼が、ある時期からよく遅刻をしていた。なんでも深夜遅くまで勉強していたとか。離婚後におつき合いしていた相手の影響もあったのかな、資格を取って通関の仕事をしたかったとか。明け方近くまで勉強をして、空港近くに住んでいたから油断もあったのか、9時の出社にも間に合わないぐらい頑張っていた。

自分が辞めた時もそうだったけど、社長さんは去る者を追わないタイプで、そんな彼を応援していた。後日、彼が働く会社から、かなり仕事を依頼されていたようだから、人間関係はやはり、持ちつ持たれつだよね。彼は見事に、通関士に一発で合格、半年だったから最短コースだ。まもなく5,000人規模の会社に移った。

もうひとつ彼について印象深かったのは、トランペットが大好きだったってこと。運転手をやっていた頃にひとつのトランペットを見つけた。お金はないが欲しくてたまらない。社長さんに借金をしてまで手に入れていた。市内の楽団に入り、再婚した奥さんと知り合った。棺の中の彼は、トランペットを抱いていた。

*青い屋根の部分が当時の貨物地区

亡くなった原因は特に聞いていない。ただ、通関士の仕事をこなし、奥さんと子供3人を育てながら親の介護を行い、大好きなトランペットの練習にも励んでいた、これだけは仲間から聞いた。

40歳半ばと言えば、西濃運輸を辞めた1年後、お世話になったリーダー格の方が亡くなっている。前日に上司とお酒を飲み、朝のお風呂に入っていた時に倒れたまま逝ってしまった。脳卒中心臓の両方に原因があって、倒れた時は既に遅かったとか。再会したのは荼毘に付された後だった。あの時も残念だった。

トランペットは主人を失った。奥さんは夫を失い、子供たちは父親を失った。会社は大切な社員を失い、楽団は熱心な仲間を失った。運送の仕事から離れていた自分は、長く会えていなかった分だけ思い出が駆けめぐった。

*この頃のJALの747が好きだった

何度も同じことを話すけれど、生身の体であるかぎり、人生100年なんて自分は信じていない。健康への努力が実るかもしれないけれど、長生きできるというのは偶然に過ぎないと思っている。

は案外、突然やってくる。それが歳の順番通りであれば納得もできるけれど、そうではないことも多々ある。それゆえに人は、今できること、今やりたいことに真剣に夢中になった方がいい。後悔できるのは生きている時だけ。亡くなった人間に対して悲しみをもてるのも、生きている人間だけだ。本人ではない。

きっと今頃、新しいトランペットを見つけていることだろう。

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51歳を受け入れ、さらに夢を描いてみる。

自分は昭和44年、すなわち1969年生まれだから、現在51歳。

実を言えば、本当かよ?って叫びたいぐらい。いや、心の中ではいつも叫んでいるんだ。実際のところ、51歳になっているという実感が全くない。気持ちはいつも前向きポジティブ好奇心も止まらない。新しい話題が生まれれば興味が尽きない。楽しいからね。興味をもつことで、新しい扉も開かれていくし。

よく紹介する「攻殻機動隊」の世界を見ていると、100歳でも200歳でも生きられるような気がして、夢を見てしまうんだよ。この世界は、自分の意識さえハッキリとしていれば、サイボーグのボディを換えていけばいい。意識の中で経験が生き続けて、ボディからボディへと意識のバトンがつなげられていく。

この技術がさらに進歩する中で、自分の経験も次から次へと積み重ねられて、半永久的に生きられるかもしれない。ただし、ボディを換える作業を他人やロボットが行った時に、故意にその意識を消されてしまう可能性もある。そうなれば、自分の命はそこで一巻の終わり。半永久的であるはずが、お粗末な結果にもなる。

*溺れるように見えるこの姿 自分の姿かも

まあ、それはいい。要は、命の有限を受け入れながら、51歳の先にある夢の可能性も信じている。同じ世代からすれば、いまだに浮足立っていて、ほらを吹いているだけの人間にしか見えないかも。実際にそうかもね。昔なら、家庭があって子供も独立していて、年金暮らしまで地道にね、なんて考えていた歳でもある。

でも、自分にはまだ道の終わりが見えないし、終わりを意識して生きようって気になれないんだ。90歳とか80歳とかで現役バリバリの人達からすれが、まだまだヒヨッコだって言われる歳。終わりが見えないんですよ、なんて自慢気に言ってみたらいい。人生を馬鹿にするんじゃない!なんて言われるのがオチだ。

*川はいつも 悠々と流れているだけ

ただ、体力のことについては、しっかりと自覚しなくちゃいけないと考えている。生身の体であるかぎり、こればかりはどうしようもない。どうしようもないことに、確実に落ちている。確実に若さが吸い取られている。頭の中で、いくら若いんだと言い聞かせても、20代の頃のように傷跡が綺麗に消えていかないんだ。

昨年の夏に手術した左肩、手術してから既に10ヶ月が経とうとしてる。肩の筋肉は複雑にからみあっているとかで、腱板が完全に断裂したともなると、やはり完治には時間がかかるんだ。先日リハビリも兼ねて、一眼レフを2時間もっただけでも、肩に疲労を感じてしまった。長い時間、左腕を固定させられない。

2月にアキレス腱を傷つけて、左足のMRI検査までして養生しても、ふくらはぎにまで後遺症が残る。新しい靴のかかとですりむけた右足首に、2ヶ月経っても傷跡が残る。数年前から季節に関係なく両手の指の皮がむけるようになり、ステロイドの世話になっている。20代では経験しなかったことが増すばかり。

*こういう道を歩くと 気持ちが晴れてくる

これが生身の体の現実なんだ。それゆえに思う。

51という歳をしっかりと受け入れた上で、新たに夢を描いていかなくてはいけない。自分に51歳なんだと言い聞かせて実感した上で、夢の形を整えていかなくてはいけないと。

若い気持ちでいることは大切だ。

でも、肉体は確実に衰えていく。衰えていくからアニメの世界が実現することも願う。願いはするけれども、それが実現されていないかぎり、現実をしっかりと見据える必要がある。その上で、腕立て伏せやスクワット、ウォーキングやダンベルなどで体力調整を続ける。続けながら気持ちの若さを維持していきたい。

リハビリ前に見た川の流れ。悠々と流れるその姿を前に、51という歳を、しっかりと受け入れようと思った。

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活 食事

お酒の写真を前に、飲み続けた過去を思う。

ちょうど1年ぐらい前まで撮っていた、お酒とお菓子の記念写真を整理していた。お気に入りのグラスは、冷凍庫でギンギンに冷やしてある。350ml1本で丁度いい。注いだら、泡が立っている内に一気に飲む。真面目な話、一気に飲めるような美味しさだ。

*黒系の甘い感じの味がかなり好きだ

このグラスで飲み始めたのは、5年半くらい前だった。1年前まで住んでいた街の一角に、手術した病院の目の前かな、こじんまりしているけれど、趣のあるリサイクル屋さんがあった。そこの店主に薦められて購入したもの。ドイツ製を500円でね。

*最近は度数が高いお酒が多くなってる

店主が薦めた通り、なかなか出来がいいものだった。前日から冷凍庫に入れておけば、翌日の晩酌の時間にはいい具合に冷えている。まあ1杯目を飲む間ぐらいしか、その冷え冷え感を味わえないんだけど、が膨らんでいる内に一気に飲むのがいいんだ。

*第3のビールも RICH感が増したようだ

それにしても断酒をしている現在と比べると、休肝日をとるこのともなく飲み続ける毎日だった。暑い夏だからとか、寒い冬だからとか関係ない。ただ夜になれば飲むという、勝手に思い込んでいた習慣だったのかな。まるで、パブロフの犬的な飲む習慣。

*キャラメルコーンはお酒に合うと思ってる

350ml缶1本ぐらいなら、このグラスに注いでしまえば5分とかからずに胃の中へ。グラスの冷えが残る内に、2本目を注いで少しペースを落として飲む。は2本目あたりでブレーキがかかることも多い。汗をかかないから飲む意欲も落ちるのかもね。

*抹茶系のお菓子は またお酒に合うんだな

だがは違う。初めから500ml缶で始まり、グラスにつぎ足しをしながら、350ml缶と同じペースで飲む。当然1本で済むわけがない。すぐに2本目に手が出る。少しペースを落としてまた飲んでいく。さらに350mlが1本加わることも多かったな。

*たまに発泡酒も飲む ほぼ第3のビール

これで休肝日でもあれば、体のためには良かったかもしれない。でも365日、飲まない日がほとんどなかった。本数が多くなればもっと昔のようにビール中心とは行かない。30代の頃は発泡酒が中心、40代の頃からはほぼ第3のビールだけ。実際、旨い!

*ポテトチップスの開発力は本当にすごい

正真正銘のビール、アサヒのスーパードライ、麒麟の一番搾りラガー、サッポロの黒ラベル。サントリーが開発した発泡酒のホップスは神からのお恵み。そして第3のビールと呼ばれるビール系飲料。味へのこだわり、日本人の開発力は本当にすごいよね。

*本麒麟があれば 一番搾りはいらない

まるで水分を摂るかのように、毎日毎日飲んでいた自分が、入院期間中は飲もうという気を失った。これは病院がなせる業なのかもしれない。お酒の存在そのものを疑うくらいになる。5年前の手術の時も同じだった。入院中とは言っても不思議な話だよ。

*枝豆はやはり お酒に合っている

退院してから8ヶ月が経った。高血圧対策の一環として、1月5日から今日までお酒を断っている。飲めないストレスもあるのかもしれないけど、アルコールへの執着はなくなった。晩酌が豆乳の今は、味の開発競争が激しいノンアルコールでも十分かな。

*限定というふれこみに弱いかも

飲酒高血圧の原因になる全てじゃない。でも休肝日を入れない飲み方はいけない。やはり行き過ぎは体に良くない。飲み屋さんで語りながら飲む機会が、いつ来るのかはわからないけれど、たまに飲むお酒ならば、美味しさは倍増するのかもしれないね。

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小倉昌男さんは、イノベーターだった。

宅急便ヤマト運輸商標だ。ヤマト運輸と似たような業務形態をもつ他社は、宅急便を扱っているとは言わない。あくまでも、宅配便を扱っているということになる。個人で出す荷物があった時、まず宅急便に出せばいいと考えることも多い。それだけ宅急便が、社会のインフラとして認められている証拠だろう。

*何でも 疑いをもてなくなったら終わりか

宅急便が生まれたのは、小倉昌男氏が社長の時代。当時のヤマト運輸は大和運輸の時代で、現在では想像も出来ないことだけど、長距離輸送に参入してくる他者の後塵を拝し、オイルショックも重なり、経営危機が噂されるほど業績が低迷していた。そこで、2代目の社長になっていた氏が、若手社員を中心に構想を練る。

当時の常識であった、大口の荷物を一度に運んだ方が合理的で得であると言う考え方に疑問を投げた。要するに、小口の荷物の方が1㎏あたりの単価が高いのだから、小口の荷物をたくさん運んだ方が収入も多くなると言う考え方だ。今でこそ常識的に思えるけれど、当時は西濃運輸も含めて路線便が中心の時代だった。

*何でも やってみないとわからない

当然のごとく、社内では反対者が出てくる。どんな世界においても、新しい発想が生まれた時には、必ず反対する意見が生まれるもの。成功に溺れて現状が見えていなかったり、既得権益を手放すことができなかったり、その理由は様々だろう。社内でも成功するはずがないとの意見が大多数だったとか。

何よりも、ヤマト運輸も当時は路線会社。長距離輸送を担う運転手たちも小口の配送に戸惑ったらしい。西濃運輸も同じだったけれど、運転手にとり、長距離運転手は目指すべき目標だった。小型の車輛から大型の車輛に乗り換えることは、誇りでもあったんだね。家庭向けの荷物を扱うというのは、まったく勝手が違う。

*何でも ロマンがるから楽しくなる

西濃運輸は1代目の時代。その勢いはすごかった。宅配の発想自体も、ヤマト運輸よりも早かったと聞いたことがある。宅急便が始まった時、小倉氏は西濃運輸が宅配便でもすぐに追い上げてくることを一番恐れていたという。だが、路線便のトップを走る西濃運輸は路線便にこだわり、それ以降の明暗が分かれた。

初めは戸惑いを見せていた長距離運転手たちも、だんだん宅急便を理解し始める。それまでは深夜に走りつづける運転手、お客様の顔をみることはなかった。それが一転、配達するたびに、家庭の奥様方からありがとうご苦労様感謝の言葉を頂く。そのことが配達する喜びを生み、士気も上がっていくことになった。

*何でも 志の高さしだいなのかな

サービス開始から3日間で、取扱個数は11個だったというが、その後の宅急便の取扱個数の伸び方や、他社がこぞって参入して来たことを見れば、氏には先見の明があったと言える。言ってみれば、運送業の世界における革命だったんだ。周りが路線拡大に熱を上げていた時代に、別世界を切り開いたんだからね。

現在は、佐川急便郵政などと、その取扱個数を争うだけでは済まなくなっている。ヤマト運輸の宅配便取扱いにおける独走態勢は、かなり前から脅かされ、次の革新を求められている。それがまた、昭和の時代とは違った難しさもあるから、イノベーターであったヤマト運輸も思うようには前に進めていない。

*宅急便とは違う道も 小倉さんならでは

だが、自分が個人で荷物を出すのはヤマト運輸だ。小倉氏の思いが基礎になっている配送のシステムは、レベルが違うと思っている。イノベーターがイノベーターであり続けるというのは、本当に難しいことだろう。特に現代のように情報があふれかえり、モノの進歩が早い時代にあってはなおさらのことだ。

それでも、運送業界において小倉氏が起こした革新以上の革新を自分は知らない。業界再編とかロボットを導入するとか、それは時代の流れに過ぎない。根底から覆したのは氏だけだと思う。

宅急便公共交通機関と同じ生活上のインフラ、さらに発展することだけが求められる。氏はきっと、次の時代もイノベーターであれるヤマト運輸を、天上の世界で楽しみにしているだろう。

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仕事を始めた頃は、ひたすら走りつづけた。

お世話になった社長さんから離れ、個人で仕事を始めた。内容は運送業。新卒で入社した西濃運輸から始まり、地元の運送会社で見たこと、自分の中にあった肉体労働への思い、合わせて考えていったら、やはり運送業に収まった。事務的な仕事ばかりだったから、本格的な肉体労働中心の仕事は初めて。

でも、勢いだけの無計画資金もなし。そこで知人からトラックを借りることにした。平成5年製の、距離数があまりのびていなかった状態のいいもの。荷台の箱は三和シャッター製で出来が良かったが、箱の中の装備は長距離を考慮していない簡単な装備。まず何が出来るのか?考えたのは建材を運ぶということ。

*ふくらんだ外装 肩にかついで運んだ

同じ形をした箱ものや袋状のもの、ほとんどが重量物個数をこなすことが中心。積載をオーバーしない範囲で積込み、千葉県内の現場を中心に運ぶことにした。自分で直接荷物を取れる立場ではなかったから、少し前からお世話になっていた老舗の運送会社さんを通して、毎日のように仕事を頂くことにした。

初めは重さも感じたけれど、慣れて来ると、この重さが快感になって来る。それとをこなす楽しさ。トラックの扉がシャッターだとガッチリしていた反面、開けて押し上げた分だけ荷台のスペースも取られる。天井まで満載で積むには工夫が必要だった。数をこなす必要があったから、とにかく頭をひねったよ。

*住宅の外壁と内壁の間に使用する断熱材

納品先は建設現場が中心で、工務店さんの倉庫に入れることもあった。現場ではヘルメットをかぶるのが基本。現場で頭をぶつけた大工さんが血を流しているのを見たこともあったので、頭を守ることの大切さはよくわかっていた。現場に着いたら、反射的にかぶるようにしていた。かぶるたびに、気が引き締まったね。

現場に組まれた足場の間をくぐり抜け、室内の指定された場所に十字に組んで積み上げる。現場内は基本的に土足厳禁。脱いだ後に靴に履き替える時間が惜しくて、靴下のまま歩いていたから裏はいつも汚れまくり。とにかく、商品の数と回る現場の数をこなすことが大切。運ぶ際にひねられた腹筋が硬く鍛えられていた。

ほぼ同時期に、納品をする人達がいた。内壁に使う石膏ボードを運ぶ運転手たちだ。彼らの仕事がまた、搬入技術を必要とされるものだった。たたみ一畳分ぐらいあるボードを、独特の持ち方で数枚同時に搬入。長さがあるから、足場をくぐるにも技術が必要。さらにボードは重い上に雨にも弱い。時間との勝負だね。

*石膏ボードを運ぶ運転手はたくましかった

良く鉢合わせする運転手も増え、仲良くなったりもする。狭い現場だったりすれば、トラックを停めるにしても気を遣いあう。持ちつ持たれつの世界。黙って手を貸しあうことも少なくない。仲良くなれば話もはずみ、情報を共有できる。ネットよりも、口で伝え合えることに味がある、生身の人間の世界だった。

一番燃えたのは、銚子駅横まで1日に2往復していた時。前日に積み込んだものを、7時半には降ろし始めて9時までに終了。75㎞戻って工場で積み直し、また同じ現場に戻って降ろす。高速道路は使わない。すべて一般道で夜には翌日分の積込みが待つ。休憩なしで走るか降ろすかだけ。走ることの楽しさを実感できた。

初めの2年間は、ひたすら走りつづけた。心身ともに解放されたのかもしれない。ちょうど30代に入った頃で、まだ未熟者ではあったけど、人の役に立つことが本当に楽しいと思えていた。