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ロッキーが、人生を変えてくれた 1

高校時代、超がつくほどの落ちこぼれだった自分を変えたのはこの人、ロッキー・バルボアだ。

*古い本を探しあてると すごく嬉しい

映画の中から飛び出した架空の人物だが、自分の中ではリアルな兄貴分だと思っている。もちろん一番すごいのは、この架空の人物を世の中に送り出した、シルベスター・スタローンという人物だ。ただ、本人と同じくらいその名は一人歩きしていて、スタローン自身でもある。どちらを追いかけても同じこと。

何度か話している通り、本当に成績が悪かった。理数は特に苦手だったから文系に偏ったけど、英語も国語も成績が良かったわけじゃない。なんで入学できたのか、今でも不思議なくらいだ。

両親は海外にいて高2から下宿暮らしをしていたから、ますます羽を伸ばしていた。テレビを見過ぎて視力もガタ落ち、外見が真面目そうなだけの何の取り柄もない高校生。

そんな頃だ、高3の夏休みの直前、ロッキー憑りつかれた

https://youtu.be/QWzisvDtA-k
*ロッキーⅠ~Ⅲ このトレーニングに憧れた

正直言って、何もかもが衝撃的だった。

親がテレビを見過ぎることに厳しかったから、テレビで映画を見ることもあまりなかった。中学の時はオフコースに目覚めて音楽の方に夢中、テレビもアニメの方が好きだった。

だから高2で一人暮らしが始まって、勉強そっちのけで映画を見まくっていたわけ。木金土日の映画タイム深夜映画。「猿の惑星」に衝撃を受けたのもこの頃。

そんな時に、偶然ロッキーにぶち当たったわけ。小学校の頃には映画が上映されていたから、7年遅れぐらいだったのかな。小学校の鼓笛隊でロッキーのテーマを演奏していながら、映画を知らなかったってことになる。今思えば笑い話にもなる。

*フィラデルフィアのこのシーン その気になった

その日から、さらに勉強そっちのけになった。親がそばにいたらあり得ない姿だったろう。ダンベルなんか買うお金はない。漫画雑誌にスタローンが宣伝する、筋トレマシンの写真が載ってた。それを見るだけで満足して、映画で一番印象深かった腕立て伏せだけをやることにした。

学校に行く以外は、ひたすら腕立て伏せ。夏休みもそう。予備校に通いながら予習復習もせず、毎日腕立て伏せ。1セット100回を朝昼晩2セットずつ。途中から、片腕でもやるようになった。録画してあったロッキーを見直し、さらに励む。腕立て伏せだけがトレーニングであり、自分のすべてだと思った。

*ロッキーⅡで とうとうチャンピオンに!

受験勉強をやるはずだった夏休みが明けて、頭の中のロッキーへの思いが、胸筋に乗り移っていた。9月の体育祭の時、Tシャツ越しに盛り上がった自分の胸を目にして、クラスの仲間がはいた言葉がこれ。

それはいったい何なんだ???

2に、つづく🔜

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最初の仕事は、セイノー体操という儀式

西濃運輸に入社してから3ヶ月間の研修を終えた。7月1日付けで配属された先は、岐阜県大垣市にある本社の中。所属先は、労務部労務課人事関係賃金計算の仕事をする部署だった。

研修中に希望を聞く機会を与えられて、研修してきた結果から考えたのは、人事労務関係の部署。ぜひ働きたいと希望したことが見事に通った。嬉しかった反面、がっかりしたのは場所が店所ではなくて本社だったこと。店所を強く希望したので残念だった。

研修最終日の決意表明の時、残念を思いっきり前面に出して嘆き叫んだら、上司になった部長から言われた言葉がこれ。あんなに強く希望していたのに残念だよ、いじめてやるぞ。前途多難。

*この動画をみつけて 懐かしくなった

だが、嘆いている時間などなかった。同期3人が一緒に労務課に配属され、まずやらされたことは、このセイノー体操を覚えるということ。体操を覚えて、1日に2回10時と15時に行われる本社での体操時間に、社員の前に出てかけ声をかけるんだ。

それが労務課に所属なった、男の新入社員がやるべき最初の仕事。言うなれば、新人のための儀式

1ヶ月間かけて練習することになっていた。いきなり軍隊に近いようなイメージをもった。音は自分の声だけ。しかも、扉のない社長室の前にマイクを置いてかけ声をかける。社長の姿が曇りガラスの向こうに見えるような、本社2階のど真ん中。

同期3人が互いにライバルだ。誰が一番早く覚えて、誰が最初にデビューするか。先輩たちが見ている。しかもワンフロアの中に、経理や営業や運行など他部署の社員が全員集まっているわけで、新人のデビューについては、皆が一大イベントとして注視している。失敗すれば、すぐに社長からクレームがはいる。

負けてはいられないって気持ちと、絶対に失敗できないという気持ち。必死に覚えた。寮に帰ってからも練習したと思う。1人は同部屋だったから、一緒に復習した気もする。

ちなみ当時はまだ相部屋。本社横の独身寮は、元々4人部屋。当時は2人か3人になっていたが、それでもほとんどの社員が相部屋だった。

教えてくれた先輩の確認をパスした1ヶ月後、いよいよデビューする日が来た。1日2回ずつこなしていく。デビューの順番は話し合いで決めた。自分は3番目で最後。先にやった2人が無事にデビューを果たしたのを見て、3日目の朝を迎える。

10分前にフロアにマイクを立て、10時の体操に備える。席に戻り緊張する気持ちを抑え込み、頭の中で順番を復習する。時間が来た。席を立ってフロアに立つ。右から左まで約100mの中で社員がこちらを見ている。やるしかないという気持ちで武者震い

*こんな状態で箱根の山を越えていた

セイノー体操を始めます!と声を出し、1234とかけ声をかけていく。マイクの前で体操をしながら声を出すわけ。かけ声のテンポを乱せない上、体操を間違えるわけにもいかない。これが仕事をする上での緊張感ってやつか!

約3分ぐらいだったかな。無事に終えて部署に戻った。教えてくれた先輩の表情に安堵が見られた。午後にもう一度行い、その日の新入社員としての儀式を終えた。

今思い出せば、自分がかわいくも思えるが、新人というのはそんなものかもしれない。脇目も振らずに夢中になる。同じように夢中のつもりでも、20代の頃の夢中を再び経験することはない。

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深夜食堂では、人の肩書はいらない。

ドラマ「深夜食堂」が好きだ。原作よりも先にテレビで見てしまったので、特に原作は読まない。とにかく内容にがあっていいんだ。深夜に開店するというのがいいし、何よりも、人が肩書を必要とされない憩いの場所なんだ。

*祖父がよく ボンボン時計のネジを巻いていた

オープニングの歌「思ひで」とこの映像、ああ今から始まるんだって期待が高まっていく。新宿の歌舞伎町付近の靖国通り、運輸業をしていた頃は昼夜を問わず、本当によく通ったんだよね。毎日通っている人からすれば、大したことではないんだろうけど、毎日ではなかったからこそ感慨深いものもあるんだよ。

*この曲が流れると 店が開店したことを知る

自分の生活は、昼間は動いて夜は眠るのが基本。運輸業をしていた頃は、昼夜の時間のバランスが、かなり崩れていたけどね。まあ、深夜遅くに寝ることがあっても、朝は早い時間から体が勝手に動き出す。夜中の1時過ぎまで起きていても、太陽が昇れば体が反応して起きてしまうって感じだ。

*メニュー以外でも できるものは何でも注文可

この食堂は、深夜12時に開店してから朝の7時くらいまで営業している。深夜に仕事をしている人だけが常連かと思いきや、昼間に仕事をしている人も集まってくる。ここに来る人達は皆、何か心が温まるものを求めてくるんだろうね。喜怒哀楽があふれているんだ。小林薫が演じるマスターの生き方に憧れも抱く。

このお店に行く時は、肩書を捨てていく方がいい。入ってしまえばみな同じ、ただの飲み友達、そして友人名刺は必要ない。お酒は3本までと決まっている。メニューはお酒と豚汁定食だけ。できるものなら注文すれば何でも作ってくれる。

*小林薫が本物の店主に思えてくる

ドラマだから、漫画だからってわけじゃない。今となっては、人が集まって語り合うには理想的なお店だと思う。昭和や平成の初め頃なら、この手のお店もけっこう残っていたんだけどね。

今だってあるかもしれないけど、かなり数が減ったような気もするよ。この旧城下町佐倉だって、赤ちょうちん個人店はほとんど見られない。あるのはチェーン店ばかりだ。今のコロナ下の状況では、シャッターを下ろしたままの店も多くなった。

*この豚汁が 意味深いものに思える

こういう心が温まりそうな場所に集まって、飲みながら語り合って同じ鍋の中で一緒に煮込まれてしまえば、肩書なんて見えなくなるんだ。そこにいる人達は皆、胸の内を語り吐き出し、そして自分自身をさらけ出す同じ具にすぎないんだよ。

社会で生きる上で、肩書は必要だろう。

でも肩書にとらわれ過ぎると、狭い世界に生きることにもなる。必要以上に自分をしばるよりも、自分をさらけ出す時間をもつことは大切だと思う。

自分をさらけ出せる場所としての深夜食堂、これからも欠かすことなく通い続けるつもりだ。

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メガマフィン、パティが飛び出した!

マクドナルド朝マックメニューから、久しぶりにメガマフィンを選んだ。安価でシンプルで美味しい、定番のソーセージマフィンと合わせて買ってきた。ストック分として、ソーセージマフィンは多めに買う性分だ。

*マフィンに ソーセージパティが2枚

実際に買ったのは昨日。写真を撮りながら、野原の真ん中で食べるつもりだった。が、紳士との美味しい話に夢中になり過ぎた。食べる時間を見失ったから、保存のために冷蔵庫へ。一日寝かせてしまっても、チンして食べれば十分に美味しい。

近頃はマック自体、食べる回数が減った、20代の頃が一番多かったかな。日曜の夜はほとんどマック。1人で1,200円ぐらいのコースが定番だったな。今でも同じように食べたら、コレステロールや中性脂肪の塊になるかもしれない。新陳代謝が激しかったからこそ、多めに食べても体が許してくれたんだろうな。

*イングリッシュマフィンの焦げた感じがいい

メガマフィンは、ベーコンエッグマックサンドに、ソーセージパティを2枚はさみこんだようなイメージだ。けっこう高さがあってボリュームがある。エッグもけっこう厚さがあるから、パティの存在感の方が薄くて、パティ自体が小さくも見える。

久しぶりだからこそ気持ちのままにかじりついてみたら、パティとたまごがすっぽんって感じで押し出された。あれ?って感じ。

マフィンが小さく感じるわりには硬くて強いんだ。1日経ったからって、その硬くなったことが理由じゃない。チンすれば、全体が適度に柔らかくなるからね。

*マックは朝でも晩でも 定番の美味さがある

元々、朝のマフィン硬めのイメージ。ソーセージマフィンなら上から下までサクッと噛みきれるような、ちょうどいい厚さなんだろうな。

メガマフィンをかじると、歯がマフィンを噛みきる前に、ベーコンの油とチーズを潤滑油にして、パティとたまごが押し出されてくるような感じだった。回転させながら上手く食べてみた。

それにしても、1個だけでかなりおなかがいっぱい。たまに食べるとなおさらのこと、やっぱりマックは美味しいね。

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字が綺麗ですね、と言われることが多い。

字が綺麗ですね、こういわれることが少なくない。自分の字だからね、綺麗だとか汚いだとか、あまり意識したことはない。

ただ自分自身としても、独特な字だとは思っている。字は人間の数だけ存在すると思うが、それを読みやすいと思うか思わないかのとらえ方も、人それぞれだと思う。

手紙好きの母親は確かに綺麗な字を書く。反対に、仕事に生きた父はあまり綺麗ではない。綺麗の基準をどこに置くべきかはわからないが、あえて言えば、読めるか読めないかだけの違いかな。

*ある計画書からの抜粋 自分の字だ

だが、小さい頃からこんな字を書いてきたわけじゃない。人はすぐに、習字をやっていたでしょ?と聞いてくる。確かに、小学校3年の頃、字が綺麗だった祖母の勧めもあって、習字教室に通っていた。正直言って、その時は普通の字だった。

普通の字?説明しづらいけれども、小学生にみあったレベルの字で、普通に読むことができるものだったはずだ。読めないとは言われたことがないし、ましてや汚いとも言われたことがない。

ただ、書いた本人である自分が、その字をあまり好きではなかった。なに故に、そう思ったのかはわからない。なにかしら気に食わなかったんだろうね。そういうことってないかな?

それがある時、とうとう爆発した。この字が嫌い!そう思った。

その日から、自己修正の毎日が始まる。

https://youtu.be/v0kFiGL5EM4
*字を書くことが 人生のマーチのような感じに

1字書いて、気に食わなければ消して書きなおす。3字目が気に食わなければ、また消して3字目を書きなおす。毎日毎日、飽きることなく書いては消しての繰り返し。

ちょうど、水前寺清子さんが歌う「三百六十五歩のマーチ」のようなイメージ。「一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる」こんな感じだったね。進み始めたようですぐに足踏み。今この歌を聴きなおしてみると、味がある歌だなって思えるけど。

やがて、消す回数が減って来た。それがいつ頃だったかは覚えていない。ただ気づいた時には、字が綺麗だと言われ始めていた。他人に汚いと言われて修正をかけたのではなく、自ら修正をかけたってことは、子供の頃の方が優秀だったのかもしれない。

*5年前の日記の一部 なんだか暗号みたいだね

自分の字は今でも進化を続けている。毎日つけている日記手書きだ。字が気分に左右されないように気をつけてはいるが、人の心は正直だ、字にブレが生じることも少なくない。

そんな時こそ、また消しては修正の繰り返し。ボールペンで書いているから、修正ペンが活躍してしまう。これはコストの面から無駄だと思うので、一発で収まる字を書けるように努力したい。

書は体を表す」という。人が書く文字には、その人の人となりがそこに表れるというものだ。たかが字、されど字。自分は字にみあった生き方が出来ているだろうか?

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血圧上昇、キーを思うように打てない!

大学を卒業した頃は、まだワープロを使っていた。何かをまとめる時には、ワープロに感熱紙をさしこんでは印刷をしまくった。ワープロの開発に、メーカーがしのぎを削っていた。

まだ、「Windows 95」が発売される前の話だ。

当時の自分は、ひらがな入力で文章を作成していた。ローマ字入力が良いとか悪いとか、そんなことは特に考えなかった。ただ流れで、ひらがな入力をすることが当たり前にしていた。

*3年近く使用した 無線キーボード 最近引退

入社して2年後の1995年、「Windows 95」が発売され、PCの世界が身近なものになった。会社にもすぐに導入され、様々なソフトに夢中になった。インストールされているゲームにも夢中になったね。

その頃、先輩に提案されたことは、ローマ字での入力。ひらがなで入力するよりも効率がいいって。アルファベットの位置さえ把握しておけば、日本語にも英語にも対処し易い、そう言われた。

*自宅でのスマホ入力に使用 入院中も活躍した3代目

一理あったので、タイピングソフトを使って練習を始めた。まだ自分のPCを持っていなかったので、会社のPCを使う。当然のことだが、仕事中に練習はできない。本社勤務の頃だから、昼休みはきっちりと60分取れた。食事は15分以内、残りの45分間、毎日PCを使って練習することにした。

こういう時になると、自分は燃えるタイプだ。「」一字だけを入力するにしても、ローマ字入力だと「あ」にあたる「A」の位置が2段下になる。慣れるまでは毎日が格闘。格闘ゲームなんかいらない、タイピングソフトそのものがだったんだから。

*iPadに取り付けたキーボードつきカバー

大体の社員が、ゆっくりと昼ご飯を食べてから一息。ゲームを楽しむ先輩以外はいない。とことん使わせてもらった。その内だんだんと、ローマ字入力が身近になってきた。そうなると楽しい。

個人的にも、PCが必要だと考え、当時最新だった東芝のデスクトップ「BREZZA」を借金して30万円で購入した。信じられないかもしれないが、HDDは10GBもなかったと思う。今使っているノートPCのSSDは1TB。進歩のすごさを感じるよ。

*自宅のキーボードは 2台ともこのタイプに変更

こうして、会社でも自宅でもローマ字入力に慣れ親しむことができた。確かに入力は効率よくなって時間は短縮された。特に仕事をする上では楽になったと思う。

2000年から個人で仕事をするようになってから、検索中心の生活になり、入力スキルガタ落ちした。前回の手術後に3年間事務職に戻った時、そのレベルダウンが悔しくて、また自宅で練習し直した。思うようにいかず、時の早さを恨めしく思いもした。

*ノートPCのキーボードは予備扱いで

最近、先代の無線キーボードに寿命を感じ、キーストロークの浅い新型にしたら、浅さに対して指先が慣れていかない。キーボードを前にしながら、独りごとで「くそ!」を繰り返す毎日だ。

いずれ、音声だけで完璧に近い入力をできる日もくるだろうけど、脳の活性化のためにも大切、今は指先に力をこめる。

ドローン操作のための、リモコンをいじる指の方が慣れてきた。休業中にもかかわらず、室内で血圧が上がる毎日だ。

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人生経験 健康 日常生活

欲しがりません、勝つまでは。という標語

戦前の公募で生まれた標語、娘の名で応募したある父親の作品。あまりにも有名な標語だ。昨年、新型コロナウィルスの感染が騒がれ始めた頃、再び世に出回った。句読点を入れて読んでみる。

戦争当時と今の状況下での我慢とを、単純に比較はできないが、我慢が必要なことには変わりがない。感染が始まって緊急事態宣言が出された昨年から既に1年、状況は好転していないようだ。

好転するどころか、第4波がきた上、もっと始末の悪い変異ウィルスなるものが、世の中を脅かし始めている。正月明けに始まった2度目の緊急事態宣言を、いとも簡単に解除した理由をしっかりと聞いてみたい。

*鴨はひょうひょうと泳いでいるが…

1年間かけて、いったい何を学んでるんだろうか。決断すべき立場にいる人間が、厳しさを前面に出すのは一体いつなんだ。必要な時に親が子をたたけない時代、その結果がこの優柔不断さなのか。

まん延防止って何なんだ。緊急事態宣言を早々に解除してしまった責任逃れ、そのために言葉遊びをしているようにしか思えない。テレビや新聞で毎日繰り返される、頭への刷り込みのようなニュース。自分たちはいったい、どうすればいいんだ。

長い休業中とは言っても、先週は7日間の内5日間を自宅で過ごした。体を動かさないわけには行かないから、自分なりにリハビリも兼ねたエクササイズもしている。できる範囲で。お世話になっている先生や若いリハビリの先生たちを、感染などでがっかりさせるわけにもいかない。可能な限りの自己防衛をしているよ。

*餌をとる時は 溺れているようにも見える

でも、世の中は違って見える。仕事は必要だ、当たり前。

ただ、週末になれば人が多く出るとわかっている場所に、なぜ人が集まるんだ。インタビューを受けて気をつけますって、そこは密集している場所だからインタビュー受けているんだろう。おかしいと思わないのか。矛盾だらけの答えを口にするなら、インタビューなんか受けない方がいいと思うよ。

何も学んでいないんだよね、1年かかっても。日本という国自体がコロナのことで、いかにDXに出遅れた国であるか明確になったんだ、個人のことなら仕方がないとあきらめるべきか。でも個人が集まったのが国家なんだ。やはり、同じことのくりかえし?

*水を浴びられる瞬間は 天国なんだろうな

何度も話すけど、昨年の長い入院生活の時もずっと看護師の方達の苦労を見てきた。通院正面玄関を通るたびに、隙のない防護服を来た係員の方が、検温をお願いします、消毒をお願いしますって口が乾いてしまうぐらいに繰り返している。

例えそれが、今は仕事であったとしても、同じ場所に立ち続けて首を前後に振り続ける姿は、まるでロボット。でも彼等も人間だ。疲れだって覚えるよ。余計な感染者を増やして、首を振る回数が増えたらと思うと、やはり感染対策には我慢も必要だよね。

我慢が長引けば生活にも支障が出る。子供たちはエネルギーの置き所がなくなる。精神的負担も増す。いいことはない。でも感染を広げるわけにはいかない。

DXも含めた、仕事や生活トランスフォームを断行するしかないだろうね。感染が収まったと思えた時に元通りでは、意味がないと思うんだよ。

*我慢せずに羽を伸ばせるなら それが一番だ

欲しがりません勝つまではの結果、日本は戦争に負けた東京焼け野原になり、広島と長崎には原爆が落ちた。その敗戦の先にはさらに我慢の時代が続く。その結果として今の日本がある。

自分が出来る我慢は、当時の我慢とは比較にもならないが、少なくとも屋根があるところで、ご飯を食べることはできている。

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俺の考え 健康 日常生活

本佐倉城の中で、老紳士と語り合う。

週に1度の肩のリハビリを終えてから、酒々井町本佐倉城へ。

目的はいつもと同じ、自然を感じながら歩き回り、陽の光を浴びながら写真を撮ること。「続日本100名城」のひとつに選ばれているにもかかわらず、特に平日は人が少ないということで、自分にとっての憩いの場になっている。

*無料とは思えないぐらい しっかりした作り

4月からは案内所が開かれた。一年前から建物を建て始めて秋には完成。以前の簡易トイレは撤去され、新たに水洗のトイレが完備され、憩いの場としてもふさわしいイメージになった。

ただ、新型コロナウィルスの影響があったのか、案内所はなかなか開かれなかった。どこにでも置かれているような、観光客向けの記念スタンプだけがトイレの前に置かれていた。その案内所がようやく開かれたわけだ。観光案内のボランティアのような方たちが、5人ほどいた気がする。

*雑草がすっかり刈られて 少し興ざめな点も

驚いたのは、平日にもかかわらず、観光客が多かったということだ。団体客個人のお客さんが、係の方達に順路に沿って案内されていた。案内所にはコンパクトながらも壁一面に写真や説明文が貼られ、綺麗な冊子まで出来ている。今日は無料だったが、いずれ有料になるかもしれない。出来がいいので得した気分だ。

だが、ひとつ興ざめだったことがある。

雑草がすっかり刈られて、自然のゴルフ場みたいになっていたんだよ。これには、少々がっかりした。昨年も一昨年も、同じ時期にこんな光景を見たことは無い。

*虫たちは 花のある場所ならどこでもいい

日本全国の数多い城跡の中で、続日本100名城のひとつとして選ばれたわけだ。今後の訪問者の増加を見込んで整備したい、その気持ちを、理解できないわけでもない。

でも、自然がしっかりと残されていることにも、意義があったはずなんだ。これから住宅地にでもなるのかな、そんな気持ちにさえなりそうだった。花が咲く場所があるのかな、そう思ったりもした。案の定、春にもかかわらず、が集中的に咲いている場所は、ほぼ一ヶ所だけになっていた。菜の花は別だけどね。

*菜の花は 例年と同じ場所に咲いている

同じような思いで、写真を撮っていた紳士がいらした。が好きで、この場所で一度しか見たことがないという蝶を追っているらしい。71歳で、交響楽団の副団長をされていらっしゃるとか。一度声を交わして分かれたが、蝶がいそうな場所がひとつしかないとわかり、自分のところに戻っていらした。

こうなると、が始まってしまう。

およそ1時間以上、青空の下、草むらの中、二人で語り続けた。花と虫、政治と経済、コロナと自粛、田舎と都会、車と仕事など話題は多岐にわたった。自然のど真ん中で2人動くこともなく、話すことに夢中になった。

*とても美味しそうな感じがした キイチゴ?

マスク越しだけど、本当に楽しかった。人とまともに話をしたのは久しぶり。それも圧迫感がない青空の下。誰にも邪魔されることがない。他の観光客がいらしても、案内の方につづいて足早に去っていく。大きいと思えた声も、自然の中にとけていくよう。

自然っていうのは、つくづくありがたい存在だ。願わくば、商業的な根性が、丸出しになるような状況にだけはなってほしくない。自然があるゆえに、国の史跡にもなっていると思いたい。

紳士様から、樹が好きなら、風土記の丘にも行った方がいいと提案をいただいた。ぜひとも行ってみよう。

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忘却のサチコを見て、食べる幸せを感じる。

誰でも自分にとっての定番というものがあると思う。特に映画ドラマについて言えば、自分にとってはこれら。食べる時の幸せを感じられる内容のもの。

*高畑充希は とにかく演技の表情が豊かだ

映画なら「男はつらいよ」。ドラマなら「深夜食堂」と「孤独のグルメ」。そして、最近では「忘却のサチコ」が加わっている。

ちなみに「男はつらいよ」については、自分が求める人としてあるべき姿の方に主題があるけれど、食べることに関しても、とても大切なことを教えてくれる。食事となると、必ず見たくなる。

*こんな色をしたサバの味噌煮がでてくればね

さて、「忘却のサチコ」の主演女優、高畑充希さん、とにかく表現が豊かすぎる。ご飯を食べる時の表情がなんと言ってもうまい!「孤独のグルメ」の松重豊さんも本当にうまいとは思うんだけど、高畑さんの表情はまた違ったうまさがあるんだよね。

*食べた瞬間の 昇天したような表情がうまい

もちろんカメラワークだってうまいし、女性だから可愛く見えるってことも否定はしない。

でも、うまそうに食べるという点で、食べている瞬間を見ていると一緒に食べたくなってくるんだな。劇中で繰り返される幸せ~って言葉、それはこっちのセリフだよ、こう言いたくなってくる。食べることが、本当に楽しいんだってことを教えられる。

*こういったシーンに 特にうまさを感じる

食べることに限らないかもしれない。高畑さんはコミカルな演技もうまい。多部未華子さんの演技なんかも好きなんだけど、似たものがあるのかな。隙がない性格のヒロインだからこそ、そのコミカルな感じとその表現の豊かさに楽しさが爆発する。

*作家先生の思わぬ趣味を前にしても

作家先生に叱られた後、その先生の思わぬ趣味を前にした時の姿と表情。自分もこんな気持ちになるんじゃないかって、確信にもなりそうな演技のうまさ。その後の本人の姿は、脚本を褒めるべきところなのに、脚本も演技力しだいだと思えるんだよね。

*挙句の果てに 主人公みずからこの姿

高畑さんの表現の豊かさに圧倒されながら、食べる幸せを思い出させてもらえる「忘却のサチコ」。何度でも見てしまう。

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祖父が亡くなったのは、離れた30分の間。

祖父があぶないと聞いた20年前のあの日、東京の病院の中にいた。ちょうど会社を辞めた頃で、暑さが残る9月の日だったかな。準備もそこそこに駆けつけていた。

祖母と伯父の奥さんであるおば、そして自分の3人だけ。もう最後かもしれないって時だったのに、人が集まっていなかった。各地に散らばる親戚への連絡が、遅れていたせいかもしれない。

幼いころから、親戚が一堂に集まるなんて経験は、ほとんどなかった。お盆の季節や正月だからって、親戚の訪問があったわけじゃない。正月元旦を、祖父母の自宅で過ごしていた記憶が、何回あったのかも覚えていない。

*祖父はよく手紙を書いてくれた

当時、両親は兵庫県の神戸市、伯父夫婦は山形県の鶴岡市、叔母夫婦は愛知県の名古屋市。みんな転勤や引越だらけの生活だったから、日本の各地でバラバラに暮らしていたね。

自分は千葉県の佐倉市にいたから、車で行ける距離。すぐに準備して東京まで走った。

祖父は数年前から痴呆症になっていたから、自分のことを、わかっていなかったかもしれない。でも、お爺さん!って呼んだ時、一瞬だけ自分の方を見てうなずいた気がした。目だけが、自分のことを追っていた気がしたんだよね。

呼吸器をつけていたし、言葉を出そうにも、すでに出す力も残ってなかったのかな。それでも、自分を見て名前を呼ぼうとしていた感じ。口元の呼吸器の中が、曇ったり曇らなかったりを繰り返していた。

*祖父が買ってくれたタイマー 現役稼働中

おばが、ご飯だけ食べてきなよと言ったので、じゃあ急いで行って来るってそこを離れた。おそらく30分ぐらいだったと思う。とにかく急いで戻ってきたから、もっと早かったかもしれない。

だが、祖父はすでに息を引き取った後だった。命の儚さってやつを思い知らされた瞬間だったね。

ほんの少しばかり席をはずしただけ。でも、命に休憩は許されなかった。あまりにも一瞬のことだったから、その場では涙を流すこともできなかった。

事後処理をすすめる看護師たちが、すでに忙しく動き回っている。亡くなったことが確認されれば、後は機械的に処理が進んで行くだけ。葬式が終わるまで、あっという間に時間も流れた。

ただ胸にグッとにきた瞬間が一度だけあったよ。火葬される直前だったな。祖父の姿をこの世で二度と見ることができない、そう思った時、本当のお別れに思えたんだ。命が尽きたことはわかっていたけど、体が目の前に存在する限り、まだ生きているように感じていたのかもしれない。

後日、が言うんだ。お兄さん偉いと思ったわ、あの時、お兄さんだけが泣いていなかったもの、って。たとえ血を分けた妹であっても、わからないこともあるんだよ。兄妹であっても別々の人格、それが当たり前だとも思っている。

あの30分を離れることがなかったなら、思いきり泣いていたのかもしれない…。