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人生経験 俺の考え 健康 入院日記 2016年冬 日常生活

健康であるために、考えてみた8つの心得。

2016年に、右肩の手術で入院した時は、スマホに頼らない生活をしていた。というよりも、SNSとのつきあいはまだ浅く、ツイッターにも登録していなかった。自宅でのネットの使い道も、音楽鑑賞や映画鑑賞、それと通販ぐらいだった。

41日間もの入院期間中、何をしていたのか。思い出されるのは、と話をしていたことと、を読んでいたことの2つかな。そして、健康であるために考えた心得がある。

*仲が良かったトラック修理屋さんから

去年の夏の入院時は新病棟で生活したが、前回は旧病棟集団部屋で生活をした。隣のベッドとの間隔は少し狭く、けっこう気を使っていた気がする。その分、患者同士の距離も近く感じられ、いろいろな人と話をすることができた。

新型コロナウィルスの影響みたいなものはなかったし、口を大きく開けて語り合えたね。今回の入院時のように、気を遣って話すなんてことはほとんどなかった。話をしたい人間は見晴らしのいいところに集まり、誰かしらと話をしていた。

*旧病棟からは真正面に日の出を見られた

その中に、80歳の奥さんがいらした。元気すぎて仕方ないって感じの。自分より1週間以上は後に手術したのに、早く退院したいが口癖だった。スポーツ好きで、肉食むきだし。他の奥さんたちも交えての話は、朝昼晩と続いていたと思う。

41日間の入院中に、その方も含めて41人と話をしていたと言ってもいいぐらいかな。看護師さんやヘルパーさんを含めればそれ以上になる。院内の生活に、それほど充実感を味わっていた。人との生のふれあいは、今回とは比較にならない。

*退院前に仲の良かった方達から

自分は人見知りをしないから、誰とでも話をする。話をして相性が合わないと思えば、距離を取ればいいだけの話。とにかく、人の関係は話すことから始まると思っている。まず話をすることから始まる。

ただ患者さんは、大体の人がを持て余している。話しかけられて、真っ向からいやな気持になることはないかもね。

そんな毎日のまとめとして、自分のために「元気なための8つの心得」を作ってみた。話をした皆さんから自分が感じたことを、簡単にまとめてみたらこうなったわけだ。

*当時 手元にあった名刺に速攻で書いた

1.適度な筋肉をもつ
2.好奇心をもつ
3.前向きな気持ちをもつ
4.数字と向き合う
5.何かを生み出す
6.やりたいことをやる
7.他人と比較しない
8.生涯、現役の精神


順番に意味があったのかは思い出せない。

でも、5年近くたって読み直してみても、何かしら役に立ちそうな気はしている。言葉にして残すことは、大切だと思う。

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俺の考え 日常生活 食事

やきとり缶で、炊き込みご飯を作る!

新入社員の頃、同期の仲間に教えてもらった炊き込みご飯。用意する材料は、お米2合とやきとり缶を1つだけ。楽ちんだよ!

1.HOTEIやきとり缶たれ味を用意する。HOTEIの缶詰とは長いつきあいをしている。

2.たれ味を選ぶのは、濃さがちょうどいいからだ。ふたを開けた時の香りに食欲がUP。

3.具を少しこまかく刻んでおく。スプーンなどでおおざっぱにやっておけば十分だ。

4.缶詰1缶に対して、お米は2合がちょうどいい。はちょっと少なめに思えるぐらいがいい。

5.やきとり缶の中味をすべて入れる。具は量はそんなに多くないので使い切る。

6.缶の中に水を少しだけ入れてかき混ぜる。缶の中にたれが残らないように使う。

7.やきとり缶の中味とお米が、よく混じりあうようにしっかりとかき混ぜる。

8.白米と同じように普通に炊きあげる。シンプルなお釜だから余計なボタンは無い。

9.よくかき混ぜてほぐす。かき混ぜると全体の色がうっすらと茶色になればいい。

10.お茶碗にもって、いただきます!少し薄口なので、醤油をたらしするのもいい。

HOTEIのやきとり缶種類が多いので、他に試してみるのもいいかもしれない。

終・わ・り。

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俺の考え 日常生活 食事

街の肉屋さんで、コロッケにホクホク。

今年になって、京成佐倉駅の近くにある肉屋さんに、よく行くようになった。店名は武田肉店さん。歩いて行ってもいいし、車で行っても大丈夫。目の前の道路は、駅に向かって下り坂の一方通行、かなり広く、短い時間なら停車も問題なし。

目印は馬のマークと店名。わかりやすい場所にある。肉屋さんなんだけど、今なら旬のタケノコもおいてある。馬のマークからもわかるが、馬刺しも売りのようだ。実はまだ食べていない。次回は買ってみる予定だ。どうも揚げ物ばかりに目がいってね。

*すっかり常連の一人になった感じだ

通常は、年配のご夫婦だけがいらっしゃる。ご主人は温厚そうな感じの方で、奥さんは日舞をやるような気品のある方だ。お二人とも、いつもニコニコして迎えて下さる。

*自宅で開けた時に 型崩れしていたことがない

まず、このお店で気に入っていることは、包み方だ。スーパーのお惣菜売り場とは違って、その場で包んでくれる昔ながらのやり方。この包み方に長年にわたる、経験の積み重ねを感じる。自宅に戻って開いた時に、まず型崩れしていることがない。

*店主がお薦めする 栗コロッケ

一番のお薦めは、栗コロッケらしい。値段は他の揚げ物よりも少しだけ高め。薄く紫がかった中心に、が入っている感じ。甘い味がさっぱりしていて何とも美味しい。

*メンチカツも手作り感があって美味しい

メンチカツは少し薄く感じるけど、熟練の昔気質な味だね。適度に柔らかくて、口の中でとけるような感じかな。油は多過ぎず、上手く揚げられている。

*ハムカツはかなりぶ厚く 直径が13㎝くらい

このハムカツ、直径が13㎝くらいあって、けっこう大きい方じゃないかな。ハムは噛みごたえがあって、フォークとナイフを使って食べても似合いそうな感じだ。

*自分としては やっぱり牛肉コロッケが好きだ

でも一番好きなのは、やはり牛肉コロッケ。牛肉というよりもジャガイモコロッケって感じもするが、細かいことは気にしない。食べた瞬間に自分のイメージするコロッケそのもの。口の中に広がるホクホクしてくる感じが好きだ。

キテレツ大百科の「お料理行進曲」を思い出してしまったよ。

帰り際に奥さんが笑顔で言う、「いつもありがとうね」。コロッケのホクホク感を感じるような嬉しい一言。この一言だけでも十分に満足。いつまでも元気に商売を続けて欲しい。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

新人研修の仕上げは、お寺の中で。

1993年4月1日、西濃運輸株式会社に入社した。

入社式は、岐阜県大垣市にある本社で。実際には、垂井町にある研修センターで行った。のどかな場所にあったよ。

父が転勤族だったこともあり、引越が多かった自分。母方の実家は東京の世田谷区にあったが、都会すぎて故郷というには遠い場所だった。今思えば岐阜は、自分が初めて経験した、故郷と感じられるような場所だった。赴任当時は気づかなかったけどね。

*西濃運輸のカンガルー便 夜の高速を彩った

研修は4月から6月末までの3ヶ月間だった。細かい内容は省いて、最後のお寺での研修について話したい。

当時はまだバブル経済が崩壊したばかりで、企業は新人研修にお金もかけた。その代表が、お寺自衛隊での研修だ。高校時代の親友が、卒業と同時に海上自衛隊の幹部の道に進み、自分が社会人になった頃には、自衛隊研修の教官をやっていたぐらいだ。

西濃運輸はお寺研修を行った。先輩いわく、この先味わえないかもしれないぞと。確かにそうだった。この歳になっても、2度目の経験をしてないからね。俗な話だけど、2泊3日の研修に会社は80数万円支払うとか。同期40人弱の研修代金としてね。

*ボンネットトラックのチョロQと独身寮の鍵

初めての経験とは言え、驚くことばかり。時間を知る必要はないからと時計は取り上げられた。起床時間も就寝時間も謎。音も出してはいけないから、おしゃべりも禁止。朝から晩まで座禅の繰り返し。肩を叩かれたら首を傾けて強く打ってもらう。

音を出してはいけないからシェーバーも使えない。カミソリを持ち合わせていなかったから、研修が終わった時にはまるで別人。お風呂はグループごとで一人平均5分だけ。どこを洗っていたのか記憶もない。もちろんドライヤーなんか使えない。短髪万歳!

時計を隠し持っている奴がいて、朝は3時から起こされて座禅を組んでいたらしい。食事は薄口。最後まで必ずたくあんを1枚残し、それをたわし替わりにして水をつけて茶碗を洗う。洗った水は飲み干す。夜中になると、多くの仲間が腹をこわした。

2日目の昼からは、闘犬みたいな犬を連れた、あたかも山伏のような坊さんと山登り。登り切った時は、さすがに気分良かった。3日目の昼までで研修は終了。その日の午前中に、住職の御母堂さまの指導で書経を行う。もう終わりだってわかっていたせいかな、筆先への集中力が高まって、文字も踊っていた感じ。

*ここまでやるとは 研修時には思わなかった

まあ終わってみれば、楽しかったって思えた。本当に二度と経験しないんじゃないか、そうも思えた。寮までの帰りのバス、盛り上がったね。戻って2日ぶりにひげを剃った時は、この世の天国を感じた。その晩に仲間と飲んだお酒は、本当に美味かった。

お寺の研修は、今もあるんだろうね。企業も余裕がない時代だから、研修に組み込んだりはしないかもね。

*映画「ファンシイダンス」を思い出した

でも、経験できる時があるなら、経験した方が自分のためになると思う。あの時ほど、俗世間から切り離されたことはなかった。どんなに綺麗ごとを並べても、日常生活は邪念に囲まれている。研修に限らず、時には日常から自分を切り離し、客観的に自分を見つめ直すことは大切だと思う。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

労働の帰り道、電車の席に座れなくて…

大学1年と2年の頃は、肉体労働のバイトをしていた。

2年間は教育課程にあって授業も多かったから、週末の土日だけ働いていた。通常は渋谷の本校で授業を受けていたが、週に一度だけ体育の授業があったので、その際には東急田園都市線のたまプラーザ駅まで行って、新校舎で終日過ごした。

父母と妹は高校2年の時からアメリカにいたので、浪人が決まった時、2年間過ごした下宿を出ることになった。落ちついた先は、千葉県船橋市にあった父の会社の寮。今はその寮もなくなっているが、ホテルみたいな所だった。その話はまた別の機会に。

*映画「息子」から 車内が暑い 団扇であおぐ

その寮を起点に、週末だけ、日払いや日給月給の肉体労働をこなしていた。その頃はまだバブル経済まっただ中で、学生でも仕事はいくらでも入った。ただ今と比べれば安かったな。実質労働8時間で1日6,000円、時給にして750円だった。

自分の高校はバイト禁止だったから、バイトをしてお金がはいることは嬉しかったね。だから、週末は夢中で体を動かした。離れた場所でも仕事もしたな。日曜とかに、電車で往復4時間かけて船橋から横浜まで仕事に行ったりね。深く考えなかったな。

言うなれば、10代の若さってやつだろうね。月曜から金曜まで授業はしっかりと出て、土日はみっちりとバイト。でも、佐賀県から出てきて新聞屋さんに住み込み、朝晩の配達をこなす立派な仲間もいた。それに比べると、恵まれた環境にあったと思う。

*映画「息子」から バイトはこんなイメージ

日払いの仕事なんかでは、ロッカーは使いまわし。前日に誰が使ったかもわからない。ひどい匂いがした時もあったね。路上生活者もバイトに来ていて、風呂に入らない人間も多かった。夏なんかは大変、戻ってきたら荷物に匂いが移っていたりしてね。

それでも、お金がもらえることが嬉しかったから、季節に関係なく大汗をかきながら働いていた。

夏のある日、渋谷から山手線に乗って品川まで行き、大井のコンテナ埠頭へ。そこからコンテナトラックに乗って、引越作業の助手をした。このコンテナの中が暑い。鉄板の箱がまともに陽を吸収するから、中での作業は体が燃える。汗を流しクーラーで乾かしての繰り返し。夕方、埠頭に戻った時は、作業着は真っ黒になる。大雨もあったりで、すべての汚れを吸収したような感じ。

*映画「息子」の設定は 当時の状況と同じ

帰りの山手線の中、あまりに自分が汚かったから、座席に座るのに気が引けた。座っちゃいけない気がしたんだ。対面の席だから特に嫌だった。立ちんぼで渋谷まで行く。渋谷から事務所の代々木まではバスだ。もう疲れに耐えられなかった。席は前向きだったし、空いていたから座ることにした…。

悪いことをしてるはずなんかないんだ。しっかりと働いて来たんだから、恥ずかしいことなんて何もない。そもそも作業着についた汚れは誇るべきものなんだ。でも、その汚れが座席にしみつくような気がして、電車の中では座れなかったんだ。

汗して働くというのは尊い。まだ、よく世の中を知らない学生だったが、おかしなところで社会人ぶっていたのかな。

その尊さを自己主張できるほどには、自分は大人になり切れていなかった。今となっては、純粋な思い出のひとつだ。

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人生経験 俺の考え 日常生活 映画 読書

歴史に学び、経験にも学ぶ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。ドイツの鉄血宰相、オットー・フォン・ビスマルクの言葉だ。見事だと思う。

こんな言葉も残している。

「青年に勧めたいことは、ただ3語に尽きる。すなわち『働け、もっと働け、あくまで働け』だ」。こちらは、今の時代なら否定されるのかな?

*ビスマルク体制と呼ばれる国際関係を築いた

ともかく歴史上の大人物たちは皆、後世に立派な言葉を残している。ビスマルクの言葉通り、人間が歴史に学ぶことは極めて大切なことだ。歴史に学びきれないから、人間はいつまでも同じ過ちを繰り返している。過ちがエンドレスに思えるね。

だけど、やはり経験だって大切だ。誰もが等しく地球上の歴史を学びきれるなら、この世はいつだって春を感じているはず。それができないでいるから、主義主張を認め合うこともせずに、地球上のどこかで毎日戦争を続けている。

歴史は学び続けるものとして、やはり経験からもしっかりと学びたい。なにも自分だけの経験に限る必要はない。他人の経験から学ぶのだってありだ。映画の中の主人公から学んでもいい。経験はどんなところからだって学べるはずだ。

*映画「ROCKY THE FINAL」の小説版

例えば、映画「ロッキー」からもたくさん学んだ。

このロッキーシリーズの最終作「ROCKY THE FINAL」。ロッキーが共に歩んできた愛妻を亡くしている。経営するレストランは順調だが、妻を亡くした後の心の穴を埋められずにいる。もう一度、リングに立とうとする。60という歳で。

焼きが回ったなと笑う世間に耐えられず、息子がロッキーに試合の中止を進言するわけだ。その時、息子に吐いたロッキーの言葉が深い。

*映画のセリフに感動し 小説のこの部分に感銘を受けた

人生は晴れの日ばかりじゃない。リングの上でたくさんのパンチを受けてきたが、人生というパンチほど重いものはない。どんなに打ちのめされても、自分の価値を信じて前に進め。パンチを恐れるな。自分の弱さを他人のせいにするな。卑怯者になるな。

自分はロッキーの言葉をこんな感じでまとめ、大切にすることにした。丁度その頃は、特に歯を食いしばって仕事をしていた時期で、冬でも半袖1枚で十分だったくらいに頑張れた。その時のあだ名は鉄人だ。ポンコツの今とは比較にならない。

映画の中の主人公さえも、その経験の中からたくさんの大切なことを教えてくれる。ましてや命ある人間からなら、もっと学べるかもしれない。常に謙虚な自分であるかぎり、経験は向こうから扉を開いてくれるはずだ。

*人生で受けるパンチは リング上で受けるよりも重い

歴史に学び、経験にも学ぼう。人間ひとりの人生などは、たかが知れている。人の経験を聴くこと自体が、また自分の経験に組み込まれていく。経験の連鎖はエンドレスだ。経験の積み重ねがやがて、ひとつの大きな歴史になる。

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人生経験 俺の考え 日常生活

父親にとってのJAL、日本航空。

父は今年の夏、82歳を迎える。

心臓の手術をしてから早くも12年が経った。心臓の機能をいったん止めて弁を人工弁に変えた。見た目は普通だが、障害者手帳を携帯して暮らしている。先生は15年はもつと話していたから計算上は残り3年。今では、すっかり小さくなった気がする。

*若き日の父と自分 どこだったかな…

そんな父の誇りは、JAL、すなわち日本航空(以下 日航で)だ。

兄弟が何人いるかも知らず、里子に出された貧乏からのたたき上げ、商業高校卒で日航に入社できたのは幸いだった。何と言っても当時の日航は、東京六大学卒の社員がひしめいている時代で、さらに半官半民、伸び盛りの会社でもしがらみは多かったはず。

だが父は、日航にすべてをかけるつもりで働いた。東京六大学卒の社員をしり目に、50歳の中頃には取締役になっていた。町内名簿などには在籍中は平社員で通したが、人事権さえ有する立場だった。会社の肩書よりも、会社で働くことを愛していた。

お蔭で自分も妹も、苦労することなく大学まで卒業することができた。逆に社会に出てからその反動は大きく、甘えを断ち切るまでは苦労することになった。とは言っても、何度も話すように、必要な時に父は、容赦なくその手をあげた。痛かったね…。

*貴婦人と呼ばれた ダグラスDC-8

父は国際線の地上部門の総合的な事務職だった。羽田・成田・福岡・関空、海外ならコペンハーゲンとアトランタ。インドでの研修に出かけたりもしていた。日航は、父のすべてだった。

だから、あの日、日航が消えた2010年は辛かったと思う。

63歳まで5年間勤め上げた子会社も退職して、年金暮らしに入っていた時だ。年金が減額された上、日航に未来が見えない。父はその身を、半分持っていかれたようなものだったと思う。

そもそも日航は、JASを吸収合併して鶴丸のマークを捨てた時、先行きが危ないように思えた。時代に合わないような拡大路線は、戦時の大艦巨砲主義そのもの。フットワークもまるでなくなっていた。その結果、数年で身を持ち崩したわけだ。

同じ年金暮らしの人間の多くが愚痴をもらす中、父はこう言っていた。若い社員もみんな頑張ってるんだから、と…。

2012年、日航は再び上場を果たす。その後、鶴丸のマークも現代的にアレンジされて復活した。正直言ってあの時は、父よりも自分の方が嬉しかった。子供の頃から見ていたんだ。どこに行っても、鶴丸さえあれば安心できたんだから。

*映画「男はつらいよ」にも よく出演した

この鶴丸のマーク、正面から見た鶴じゃないよね。鶴が少しだけ体をひねっているん感じなんだ。そこがまた素晴らしいんだ。このデザインを考えた方たちは、本当にいい仕事をしたと思う。このままずっと、変わらずにいて欲しいと思っている。

日航は復活したが、新型コロナウィルスの影響下、その営業はまた厳しい中に置かれている。一度あることは二度あると言う。父が人生の半分をあずけ、愛し、そして誇りにしてきた会社が倒れる姿は二度と見たくない。

いつか先に旅立つだろう父が、その古き良き思い出を、思い出のまま連れて行けるように、日航、いや、JALの方々には頑張ってほしいと思っている。

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活 趣味

痴呆症だった祖父が、残した教訓。

20年前に祖父は亡くなった。87歳だった。

亡くなる直前に会うことができたが、それまでの数年は仕事が忙しく、ほとんど会えずじまいだった。

祖父は、最後の4年間ぐらいだったかな、痴呆症で晩年を過ごしていた。6歳下の祖母が、ほとんど一人で世話をしていたことになる。時には自宅を抜け出し街中をさ迷い、道につまずいて倒れ、血を流していたこともあったらしい。

*在りし日の 祖父と祖母…

自分は岐阜県の大垣で仕事漬け、あるいは佐倉で新しい店所の開設委員だったりと、忙しい毎日を過ごしていた。会社を退職して会えた時、すでに最後を迎えていたわけだ。あれだけ世話になっておきながら、義理に外れていたかもしれない。

だが祖父は、大切な教訓を残してくれた。言い方が悪いかもしれないが、痴呆症に対する大切な教訓だ。自ら考えて何かを生み出すことが大切だということ。受け身だけの生活では痴呆症になりやすいこと、それを祖父は身をもって教えてくれた。

そもそも祖父は、幅広く趣味をもっていた。

小学2年の頃、祖父母の家に預けられて暮らしていた。毎週日曜日になると、祖父と2人で渋谷新宿に出かける。目的は絵画鑑賞が中心。渋谷なら東急本店、新宿なら小田急デパートなど。出かけるたびに、美味しいものにありつけるので楽しみにしてた。

祖父は大正生まれのハイカラな人だった。晩酌は決まってワイン、つまみの甘納豆さえ渋谷まで買いに行く。味にこだわる人だったね。ちなみに最寄駅は下北沢、夕方になると、会社帰りの祖父をひとりで迎えに行く。改札から出てくる祖父を、ハチ公のように待っていたもんだよ。

*写真も脳を活性化させる 1年前の京成スカイライナー

絵画鑑賞以外にも、庭に灯篭をおいて眺めたり、文鳥を飼ってみたり、そうそう、掛け軸とかも好きだった感じ。本当に多趣味な人だったね。祖母が地味な人だったから、趣味のためにお金を使えたのかもしれない。73歳まで働いていたしね。

でも、ここで考えておきたいことがある。

それは、祖父の趣味は、ほとんどが受け身の形で、自ら考えて生み出しているものがなかったってこと。幅が広く多趣味ではあったけれど、亡くなった時に祖父の自作と言えるものが無かったに等しい。手に入れて眺め、感想をもって終わりだったんだな。

指先を器用に使っている人はボケない、そう言われる。指を一本ずつ動かすことで脳を活性化させるらしい。楽器を弾いたり絵を描いたり、あるいは文章を書いたりとかいろいろとある。それが非日常的なことで、ものを創造することにつながるのがいい。

*去年猫を亡くしてから 母はaiboを調教する

やったことのない新しいことを、可能な限り指先を使って行う。そんな時こそ脳が活性化し、ボケ防止につながるというわけだ。

自分としては、この考え方は正しいと思っている。

現実に、音楽家たちは音の追求を続け、もの書きをする方たちは言葉を著すことに貪欲だ。絵を描く方たちはより良い色を求めて長く描き続け、料理に生きる方たちも味の追求に余念がない。みんな、新しい創造をすることに努め、そこに終着点を感じない。

有名無名、業界人一般人とかは関係ないよね。自分がやってみようという気持ちになって続けること、それが大切だと思うんだ。

*母は絵を描くことに夢中で 実家の壁は絵でうまる

自分は今、本格的に書くことに目覚め、集中的に始めることで楽しむことを知った。77歳の母は絵を描くことに夢中だ。

互いに祖父の血を引き、互いに好奇心が強い。その好奇心が進むべきところは、自分で何かを生み出して行くという世界だ。

人生100年を意識するよりも、いかに健康充実した毎日を続けていけるか、それを追求する方がよほど大切だと思う。

いい意味で、祖父は教訓を残してくれたと思っている。

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日常生活 読書 趣味

読書は必ず役に立つ! その2

友人に薦められて、源氏物語を読んでいる。

田辺聖子さんの「新源氏物語」、新潮文庫で上中下の全3巻、合計で1,400ページ。さすがに大作だ。この作品が平安時代に書かれたなんて、紫式部という人のすごさには脱帽してしまう。

*平安時代の甘美な世界を味わえる

でも、急いで読んだりはしない。じっくりと味わいながら、他の本と並行して読み進めている。速読が似合うような内容じゃないよね。平安の悠久な時を感じながら、ゆっくりと進めていく。

高校の頃は国語の授業が嫌いだったから、教科書の掲載文にさえ興味がなかった。古典の授業なんて何がおもしろいのか、まったく理解できなかったね。現実の生活には何の役にも立たないような古くさい文章、読んでも意味がないような気がしたよ。

今だって古典の文章のままなら、読む気が失せたかもしれない。

やはり、田辺聖子さんの訳がうまいからだろうな。惹きこまれていってしまうんだ。読みやすいから、その気になれば一気に読めそうな気もする。だからこそ逆に、味わって読んでみたくもなるんだ。ゆっくりゆっくりと、源氏の足跡をたどっていってる。

ところで、読書するのに最も集中できる場所ってどこだろうか?

源氏物語に限らない、どんな本を読むにしても、自分にはトイレが一番いい。ドアを閉めれば読書のための個室だ。窓はないから、外の音からも遮断される。こんなに集中できる場所はないと思う。文字を追い続ける瞬きの音しか聞こえない、そう言っても差しつかえないだろう。

第一次建設業の時代には、出発前の5時から5時半までが、トイレで読書する時間だった。この毎日30分の繰り返しが、今の集中力を鍛え上げたかもしれない。もちろん、仕事を終えて帰宅してからも読書は欠かさなかった。

*昨年の引越の際にかなりの本を処分した

当時はね、こんなことを真面目に考えていた。

この先死ぬまで何冊読めるかな。60歳を一つの目標として、1年に100冊読んだとしたら、20年あるから2,000冊読める。単純に考えて80歳までなら4,000冊。やれるかもしれない。

とにかく、読みまくることにしたんだね。

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俺の考え 日常生活

少子高齢化を考える。

出生率が低いと言われている日本。ずいぶん前から聞いているような気もする。今は、少子高齢化の時代にあるってことだ。

確かに出生率は低いんだろうね。昭和のベビーブームの時代と比べれば、その数字は明らかだ。2019年の出生数は90万人を切っている。これは、数字的に見れば少ない?

戦後の第一次ベビーブームでは、年間の出生数が平均250万人以上。1970年からの75年までの第二次ベビーブームでは、平均200万人以上。第二次の時と比べても110万人以上、現在は出生数が落ちているわけだ。やはり少ないのか。

*少子高齢化対策には攻殻機動隊の世界がいい?

まあ、考え方はいろいろあると思うんだけどね。

高度経済成長期のモデルをベースにして、すべてを考えるとすれば、現在の状況は間違いなく人口減少へと向かっている。人口が増えていくことを前提に、年金や社会保険のモデルもできているんだから、現状のまま進めば、やがて立ち行かなくなる。

出生率を上げるために、子供を育てる環境を整備しようとか、あるいは助成金を増やそうとか、いろいろと議論されている。

でも、それは過去のモデルを前提にしていると思うんだよ。あくまでも、人口が増えていくことを前提にしているんだ。

だけど人口は、望むように増えないと思う。何よりも、出生率がピークだった頃に比べて、各個人の価値観が変わって来ているんだから。結婚して子供をつくって下さいって言われても、それは現在では、ひとつの考え方に過ぎない思うんだ。

*意思だけ残して 体を交換すれば半永久的な命

人口を増やすことを前提に議論するのではなく、人口が減っていくことを前提に議論した方がいいんじゃないのかな?

出生数が減って高齢者だけが増えていけば、将来の社会福祉にも大きな影響を及ぼすだろうね。子供が増えて働き手が増えて、そして高齢者が社会から支えられる、簡単に言えば今のモデルはこの形。働き手の数が右肩上がりなら、ごく自然にも感じられる。

でも今の時代は、結婚しない人もいるわけだ。事情は各個人によって違うと思うけれど、結婚することよりも他のことに価値観を見出す人もいるわけだよね。働き方だって昔とは違う。そう考えていくと、人口が減っていくのは自然の流れのように思う。

それに日本って、みなが思っているほど豊かじゃないんだよね。
最近のニュースの中で、貧困って言葉を聞かない日ってあるの?毎日聞いている気がするよ。14%前後の子供たちが貧困に直面してるっていうんだよ。統計とか見ると驚いてしまうよね。

*サイボーグなら AIロボットと話もできるかも

結局、この国は、自国の足元が見えていないんじゃないのかな。

自分は学者でも役人でもないし、ただの一選挙人に過ぎないけれど、国のことは真面目に心配している。大きなことはできないけれど、政治というものにしっかりと目を向けているつもりだ。

人口が増えることを前提に考えて、付け焼刃的な政策に頭をひねらせるよりも、人口が減っていくことを前提にして、政策を転換させていく方が、新しい考え方も浮かんでくると思うんだよね。

その過程では、必ず軋轢も生じると思うけど、どんなことでも方向転換していく上では、必ずは現れるものだよ。今までのモデルを前提に考えるってことは、変えるのを面倒くさがっているようにも思える。あるいは、しがらみが変化を許さないのかな。

*サイボーグなら記憶の中から正しい道も?

政治や政策は、今を生かし続けるためにあるんだろうか?

それとも、未来を輝かすためにあるんだろうか?

未婚で子供のいない自分でも、少子高齢化について真剣に考える毎日だ。