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ワクワクがあれば、仕事にも花が咲く。

仕事にワクワクできるって、大切なことだよね。

どんな仕事だっていいんだ、自分がやりたくてやっている仕事なら、可能な限りたくさんのワクワクをもちたい。たくさんのワクワクをもって楽しく仕事をしたい。淡々と惰性に任せた仕事を続けていても、楽しい気持ちは生まれない。楽しい気持ちがあるからこそ新しい発見も生まれ、仕事自体が進化していく。

岐阜の大垣で仕事を始めた頃、たくさんのワクワクがあった。これから始まろうとしている仕事に、ワクワクを持ていないはずがない。3ヶ月の新入社員研修を終えたばかりなんだ、研修は新人にを持たせてくれるもの、ワクワクはピークに達していた。最初の挨拶をした時、それはそれはやる気がこぼれていた。

*入社前に渡されて 入社前に読み込んだ

そんな自分の最初の仕事は、従業員カードを書くことだった。

令和3年の今年は平成にすれば33年、入社した平成5年は28年前の話になる。西暦で話した方が世紀を超えて、時間の流れを感じられてわかりやすいかな。平成5年は20世紀の1993年で、今年は21世紀の2021年、随分と時間が流れたものだ。
だが、28年前でも、従業員カードのシステムは古臭かった。

そのカードというのは、A5サイズで見開きA4サイズの紙製。裏表に記入欄があり、すべて手書きで記入していく。しかも入社だとか退職だとかは、ゴム印を押していくことになっていた。平成5年にあって、昭和会社設立当時の頃のような雰囲気が残っていた。でも、自分にとってはただの仕事に過ぎなかった。

配属初日からまず3日間、朝から夕方まで毎日、カードの記入を続けていた。電話をとることと先輩社員から頼まれること以外、ひたすら記入だけ続けた。全国にある全店所の従業員のカードが本社で集中管理されている。店所では連日、運転手の入社と退職が繰り返されていたから、記入する数も半端じゃなかった。

でも、それはただの仕事に過ぎない。そもそも、配属されたばかりの新入社員に、どんな仕事が大切だとか必要だとか理解できるはずもない。目の前に与えられたものはただの仕事記入とゴム印を押すことだけが自分がやるべきことだった。古臭いなどと考える時間も、考える必要もなかった。こなすしかない。

*どんなことでも 自分の手で始めなくては

その仕事そのものは、3日間で終わるものじゃない。入社と退職が繰り返されるかぎり、当時は半永久的に続いて行くように思えた。それでも、処理していけば数が増える。そんなことにさえワクワクを感じていた。数をこなすことが楽しく、右手はインクで黒くなり、擦れてツルツルしていたように思う。

たぶん、今の時代の新卒者がそれを見たら、驚くどころか入社する会社を間違えたと思うだろうね。自分が入社した年から4年ぐらい後の社員でさえ、その古臭さに嫌気がさしていたみたいだったから。自分でもよくやったと思うよ。配属初日から3日間、初日から残業してカードの記入とゴム印を押し続けていたんだ。

処理した数が増えることに、ワクワクを感じることができた。

もし今でも、その仕事が残っていたとしたら、当時は仕事と思っていた自分も仕事として肯定しないだろう。ペーパーレスの時代だ、それを仕事として残しているのなら、そういう会社の未来には疑問符をつけるだろう。それがたとえ、自分がお世話になった会社だったとしてもだ。さすがに今、カードはないかな。

*こんな気持ちになるように働きたい

ただ、忘れてはいけないこともあると思っている。

たとえ時代遅れでも、それが仕事であるかぎりは仕事である理由が存在し、誰かがそれをこなす必要がある。まずはやり遂げる必要がある。古臭いなどと考えるのは後のことだ。ワクワクを持てないなら、ワクワクを持てるような仕事の方法を考えればいい。自分自身が一番ワクワクできれば、仕事自体にも花が咲く

古臭いものを古臭いと思ってやれば、ますます古臭くなるだけ。やっている自分まで古臭く見えて、自分自身まで腐っていく。少しでもワクワクをもって仕事に向き合いたい。時には気持ちが萎えることもある。でもワクワクがあるかぎり、仕事から楽しさは失われない。自分自身の気持ちの持ち方がすべてを変えていく。

仮に今でも、従業員カードを記入する仕事があるのなら、もう一度やってみたい気持ちがある。紙に記入していく仕事は案外心が落ち着き、そして温かいものがある。それが毎日、日記を書いている理由であるのかもしれない。

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映画 阪急電車を見て、挨拶のことを考えてた。

映画「阪急電車」を見ていたら、なぜか挨拶のことを考えた。

朝の「おはようございます」、昼の「こんにちは」、夜の「こんばんは」。初対面の「はじめまして」、お礼の「ありがとうございました」、お願いの「よろしくおねがいします」。謝る時の「ごめんなさい」「すみません」「もうしわけありません」など。社会には、様々な場面で必要な挨拶が用意されている。

新型コロナウィルスの感染対策のため、在宅勤務も多くなった。お互いに顔を合わせての生の挨拶に代わり、PCやスマホの映像に向かって挨拶をすることも多い。それでも、挨拶をすることに変わりはない。仕事は、必ず挨拶から始めるのが常識だ。この常識が、時の流れとともに変わるとは思えない。

*とてもハートフルな映画だった

小中学校の近くで仕事があったりすると、朝の通学時間帯の生徒たちが挨拶をしてくれる。もちろん面識など持ち合わせていない。小学生がその場でとまって、ヘルメットをかぶった中学生は自転車の上から、おはようございます!これは、とても気持ちがいい。仕事開始への弾みにもなり、何より元気をもらえる。

彼らから先に挨拶されることの方が多い。子供の頃から長い間、挨拶は先にした者が勝ちだって教わったけど、それなら子供には負けてばかりだ。やはり先に挨拶できた方が気持ちがいいと思う。なんだか主導権をとれたみたいでね。子供の姿を見ても、少し気後れしていることも。子供というのは真っすぐだよね。

*人に優しくされて 自分も強く優しくなれる
*イジメは当事者にならないとわからない

30代の第一次現場時代、良くしてくれた工務店社長さんが話していた。朝まず現場に着いたら、大きな声でハッキリと挨拶をする。それだけでいい。それができていれば、多少のミスがあったとしても、お客さんは案外許してくれるものだと。極論にも聞こえるでしょう。でも、あながち間違っているとは思わない。

僕は話をするのが好きだ。一日かぎりの現場がほとんどだったけど、休憩時間になれば現場の大工さんや他の職人お客さんとよく話し込んでいた。たとえ慎重に事を進めていても、失敗をすることだってある。そんな時に、うまくかわせるんだよね。謝罪はするよ。でも、相手は不思議と理解してくれるものなんだ。

*自分をしばってはいけないんだな
*このカップルの話も素敵だった

挨拶が出来ていなかったり意思疎通ができていないと、相手も心を曇らせる。ある方と組んで仕事をしていた頃、その方が帰った後、お客さんが自分に言ったことがある、あの人なんとかならないのって。元々が口下手なんだけど、それをカバーするだけの意思疎通ができていない上、表情が暗い、これでは印象が落ちる。

その方の腕は悪くなかったし、自分との意思疎通はしっかりと出来ていた。自分が考えてきた計画と、その方の現場を見た上での考え方、毎朝しっかりと練り合わせて計画よりも早く仕事を終わらせていた。それでも初対面の相手には、たとえお客様相手でも苦手意識が出ていたようで、無愛想に見えていたんだろうね。

*おばあちゃんの大人としての姿勢が好きだ
*この笑顔のためなら きっと誰でも頑張れるね

人の性格はそれぞれだけど、できることなら明るく元気に仕事をしたい。そのためにも、挨拶、特に朝イチの元気な挨拶は1日の状況を左右する。出来ることなら、たとえ1日だけのおつき合いだとしても、意思疎通もしっかりとしたい。画面ばかり見ていると、コミュニケーションの仕方を忘れるから注意も必要だ。

阪急電車を通して進んで行く人間模様、原作は大ヒットしたのかな、とても素敵な映画だ。この映画のように、人と人との関係が結ばれていくのなら、みんな幸せになれるだろうね。お婆さんの最後のお説教がとてもいい。こんな素敵な笑顔を見せてくれる孫のためなら、きっとみんな頑張れるだろう。

挨拶を超えるような笑顔を、一度でいいから見てみたい。

*映画の最後のシーンがとても素敵だ
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本物の友情を、考えさせられた日。

今の学生さん達も、大学に入学すると同時にサークル活動に入るのだろうか?スポーツや芸術関係の類で入学した人達などは、入学前から活動が始まっているようなものかな。

でも一般の新入生達は、入学と同時に勧誘などを通して活動先をみつけて入部し、銘々に楽しい学生生活を求めていくのだろう。入部するしないは本人達の自由だからね、要は楽しめればいい。

*STAND BY MEと言えば 自分にはこれ

自分も2つくらい入部してみた、1年の時だけ。体育会系のレスリング部と文科系の文章書きみたいなところ。レスリングはもっと体を鍛えたくて、文章書きは興味があったから。

案の定、3ヶ月くらいずつしか続かなかった。体は筋トレやバイトで鍛えていたし、毎日往復4時間の通学自体がいい運動になっていた。文章書きの部は考え方にズレを感じ始めたからやめた。

結局、みんなで仲良く一緒にが駄目なタイプなんだな。それが出来ていれば、今だって組織にいたかもしれない。要は一匹狼、学びたいことやりたいことは、自由に時を選ばずにやりたいんだ。

*なんど見たかわからないぐらい

それゆえ、会社に勤め始めた頃は特に、人とぶつかることも多かった。3年4年と経ってもズケズケと発言をすることが当たり前。それなりに支持者もいたけれど、物わかりのいい後輩達が増えて来ると、本社での勤務に限界を感じて煮詰まり始めていた。

自分は、なかなか組織に慣れなかった。若さゆえの高飛車なところもあったんだろうね、仕事は真面目に頑張っているつもりだったけど、敵も多かった。頑張っているんだけど、素直にハイそうですねとは言えるタイプじゃなかった。言われ過ぎだとも思ったけど、東京風吹かせやがってなんて、言われたりもしたもんだ。

*ひとつひとつのシーンを思い出せる

こんな自分を、心配してくれる同期がいた。同じように本社勤務になって、マラソン好きの彼を応援するために、日曜に岐阜の奥地まで行ったりとかもした。大切な友人だと思っていたよ。

彼は、彼自身で見て感じていたり人づてに聞いたりして、心配してくれていたんだろう。1年目が終わった時に突然、福岡への転勤が決まり、同期で送別会をすることになった。

*子供たちのこういう姿は とても素敵だ

宴が盛り上がり、酒が進めば人はハイになる。自分と彼が何かを話していた。何かが彼を怒らせたんだろう。赤くなった顔をさらに赤くさせながら、彼が自分を殴って来た。

お前のためを思って言っているんだぞ!

殴られっぱなしではいられない。自分よりも15㎝は背が低かった彼に大き目の自分が向かって行く。酒の席がまるでドラマ、いやもっと昔なら当たり前のような光景だったはず。周りが2人を引き離し、それ以上は事なきをえた。

福岡に行った彼は1年ぐらい後に退職し、大学院に入りなおして勉強していた。特に連絡をとったわけじゃない。正直に言えば、仕事が忙しくも楽しくなっていたし、彼のことは忘れていた。

*この歌は 一度聴くと忘れられない

4年目を過ぎたぐらいの頃か、ひょっこりと彼が本社に現れた。大学院を卒業して再就職をするためだったのか、必要な書類を受け取りに来たという。彼に会った課の先輩が、自分に彼の言付けを伝えてくれた。彼はこう話していたらしい。

○○くんは元気でやってますか?頑張れと伝えてください。

短い言付けだったけれども、心から嬉しいって思えるのはこういう時なのかもしれない。彼はそれだけ言って去ったとか。あんなことがあったにもかかわらず、自分のことを忘れずに心配してくれていた。それを聞いた時、さすがに胸にくるものがあったね。

*こんな友情があったら最高だと思う

友情の形というのは、人それぞれだろう。型にはまった友情などは存在しない。同じ言葉を聞いたとしても、受け止め方や感じ方は個々に差がある。励まされたと感じる人もいれば、侮辱されたと感じる人もいる。その人のためになると思っていても、ありがた迷惑で終わることも少なくない。

だが、機械的にくりかえされる軽い言葉ほど、友情から遠いものはない。大丈夫?なんて言葉を繰り返し聞くよりも、いざとなった時に黙って手を貸してくれる方がいい。今その時なんだと思えるなら殴ってくれた方がいい。たくさんの言葉を並べられるよりも、たった1発のこぶしが、頑なな心に光を射すこともある。

とかく人は甘い言葉に流される傾向にある。気持ち良く感じられる言葉には心もなびく。優しさが続けば友情だと勘違いもする。でも、本物の友情というのは、あちらこちらに転がっているものじゃない。心から相手を思っての行動は、その瞬間にさえも心に響き、目を覚まさせる力だってもっている。

本物の友情は、そんなところにあるんじゃないだろうか。

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阪神淡路大震災、あの時をふりかえる 2

両親からの電話を受け取ったのは、臨時に設置された公衆電話の1台から。当時はまだ、携帯電話は普及していなかった。2年ぐらい後に初めての携帯を買ったが、名古屋で買って岐阜に戻ったら圏外になるような感じだった。メーカーはKENWOODでデザインはカッコ良かった。今となっては捨てたことが悔やまれる。

両親の無事を知り、仲間と週末まで撤去や移動の作業を続けていたが、風邪をひきっぱなしのままだったので、夜はただ眠るだけだった。土曜まで頑張り大垣に戻ることになったが、おまけがついていた。業務命令で、月曜からまた一週間現場で作業しろとのことだった。日曜はしっかりと休み、月曜にまた戻った。

*こんな光景は 見たことがなかった

2回目は1年目の後輩が一緒で、自分と同じく個性的な人物だった。2人で組んで作業をしていたと思う。2週間目ということもあって、作業自体には慣れていたし、その場所での作業は順調だった。順調だったせいか3日目の水曜の朝、労務課から戻って来いとの連絡を受けた。後輩と2人で当日中に戻れと言うんだ。

あの時はすでに、新幹線が動いていた。岐阜羽島駅で降りる予定だったから、こだまに乗っていたのかな。自分の気持ちは、マグマが噴出する直前ぐらいの状態だった。3日で戻すくらいだったら、なぜ行かせたんだって感じで怒り心頭。車内で缶ビールを買って、後輩と2人で酔っぱらうまで飲みまくった。

*この設計が通ったことが不思議なくらい

駅に着いて、そのまま帰宅するだけなら良かったけど、一度出社しなくてはならない。それをわかっていながら酒を飲んで酔っ払っていた。本社にタクシーで乗りつけた。下はジーンズで上だけ社服。廊下ですれ違う人たちにニコニコしながら挨拶を交わし、酒の匂いをもらしながら、直属の労務課長の前に立った。

『なんで俺だけ戻すんだ!行けと言われたから頑張ってやろうと思って行って来たのに、なんで3日目で戻すんだよ!』

課長を課長と思わないような感じで怒鳴りつけた。怖いものなんてない、相手は現場を知らないんだから。締め切り作業も終わる寸前、その時は現場が優先されるべきだと信じていた。酒の勢いもあったけど、顔に出ないタイプ。しかもジーンズ姿。目立っていたね。怒鳴ってスッキリして、失礼しますと言って帰宅した。

*この光景だけは忘れられない

後日、別の仕事をしていた時、その課長が冗談まじりに言っていた。また、○○に怒られちゃうからよって。自分が会社を辞めた後も、仕事大好きのその課長は順調に出世し、取締役まで務めて退職したらしい。大学だけが東京、後は大垣だけで終わったみたいな方だったが、上司にも人間臭さが残っていた時代だったね。

結局その後、2度と手伝いに出されることはなかった。3年目に入る年だったし、仕事も忙しくなっていたからね。仕事で神戸まで行くことはなかったが、実家が神戸だったから倒れた阪神高速の横を通ることはあった。今でもよく覚えている。撮影された写真の通りの状態。あんな細い足で、よく支えていたもんだよ。

*店の車輛も荷物ごと こんな感じでつぶされた

それ以来、自分で仕事をするようになってからは特に、首都高速でも古い所を通る時は早く抜けたくなったね。渋滞ではまるなんてとんでもないよ。首都高の3号線なんか、ジグザグ構造の1本足で立っていて、渋滞になると揺れているからね。ここで地震が起こったらと思うと気が気じゃなかった。3階建て構造だしね。

人は、自然には勝てない。勝とうとしたり手綱を引こうとしたり、その時点で間違っているんだ。人は自然の一部に過ぎない。他の動植物と同じように、生かされているに過ぎないんだ。いかに自然の上に自分たちを乗せていけるか、それを考えることの方が大切だと思う。そうすれば、自然が語りかけてくれると思う。

忘れた頃に天災はやって来る。あれから各地で多くの地震があったけれど、自分は直接的な被害を受けたことがない。だからこそ人の経験は大切にしたいし、そうなった時に自分がしっかりと行動できるように、普段から準備しておきたいと思っている。

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阪神淡路大震災、あの時をふりかえる1

あの日の明け方、岐阜県大垣市の独身寮で揺れを感じた。

築30年以上で老朽化が進んでいて、コンクリートガチガチの5階建ての建物。ガチガチに固まり過ぎていて、地震でも揺れないようなイメージもあったが、あの日は違った。ドーンと突き上げられるような感覚があった。すぐに収まった気もしたが、その後また、小さくドンドンが繰り返された。後日、震度4と知った。

日本で地震は何処にいても起こり得る。ちょっと大き目の地震だったのかなと考え、いつも通り会社に向かう。自分の出社時間はいつも早かった。本社は8時の朝礼で仕事が始まるが、自分はいつも6時半に出社。毎朝の雑巾がけがあったからね。それについては話をしたと思う。守衛さんに挨拶して、2階に上がる。

いつもと雰囲気が違う感じがした。普段なら6時半に出社しているのは、運行管理の部署だけ。やけに人が多くて、みんなが騒いでいる。長い中央廊下に集まっている。部署を仕切るパーテーションがいくつも倒れていた。長いもので20mはある。それが一気に流れるように波打つように倒れていた。みんなで起こした。

*当日の朝のニュースは ごく普通に始まった…

ただ事ではなかった。どこかで大きな地震が起きたのは間違いがない。どうも関西の方らしい。テレビが設置され情報が入り始める。神戸の方で大地震が起きたようだ。大きな火災も発生している。現在のようにネットも普及していなかったから、テレビの報道とラジオの情報だけが頼り。関西の店所にも被害が出ていた。

数千人規模で被害者が出ているとわかり始めた午後、若い社員が集められて出発の準備をしてくるように言われた。本社フロア全体の社員が対象。もちろん自分も選出され、夕方には1台の大型バスに押し込められて出発、行先は大阪の豊中崩れた店所撤去作業をするらしかった。大垣インターから高速にのった。

だが、すぐにバスが動かなくなった。当然だ。関西方面に向かう高速はすでに麻痺していた。15㎞ぐらい先にある隣の関ケ原インターでバスは一般道へ。ここからが長かった。運転手は先生と呼ばれていたベテランの本社運転手。大変だったろうな、今思うと、ほとんど動かなかったからね。自分たちは寝ていたのに。

*テレビの映像だけが現実を知る手段だった

前日の17時頃に大垣を出発して、豊中支店に到着したのは明け方少し前。途中で寄った餃子の王将、あの時のご飯はを忘れることはできないね。とにかく腹が減ってはなんとやら。みんな黙々と食べていたよ。食べ終わったら出発、渋滞はますます激しくなっていた。

豊中支店は豊中インターの近くにあって、神戸から離れていた。だが、トラックの駐車場になっていた1階部分に2階より上の建物が5階まで丸ごと落ちていて、荷物を積んだトラックはすべて箱ごとつぶれ、神戸から離れていたにもかかわらず、支店の状態がひどかったので周囲一体が危険区域にされた。

とりあえず毎日、ひたすら撤去作業。コンビニの棚には何も無かったが、3日ぐらいしてから銭湯での入浴はできた。5人ぐらいで川の字になって雑魚寝。夜だけは休み、馬鹿話をすることを活力にしていた。体調を崩したが休んではいられない。崩壊した建物からの荷物出しを続ける。高所恐怖症にも目をつぶった。

*社員が 裂け目に突っ込んで亡くなった

実はこの時、肝心なことを忘れていた。目の前の作業に集中するあまり、神戸の六甲アイランドに両親がいることをすっかり忘れていたんだ。携帯も無い時代だったし、お互いに連絡できる手段は固定電話だけ。両親は無事だったが、電話を受けたのは4日後のこと。ある意味では、これもまた若さだったのかもしれない。

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最初にもらった仕事は、雑巾がけだった。

1993年7月1日、大垣本社の労務部労務課に配属された。3ヶ月に及んだ研修もあっという間、やっと仕事を始められる、そんな気持ちで溢れていた。同期の大卒の女性は2人いたが、同じ総合職でも4月に先に配属されている。短大卒も含めた同期の女性達は、1年目から野球部の応援団をやるのが慣例だったからだ。

*当時の机はこんなのもザラ 釣りバカ日誌より

初めに覚えたセイノー体操のことは、先に話をした。今回は、仕事のようで仕事じゃないような仕事について話をしたい。

当時の労務課は、人事の深いところに踏み込んで仕事をする上層部の賃金班1つと、全国を東部・中部・西部にわけて賃金計算をする3つの計班に分かれていた。自分は東部班に入れられ、東北と関東及び甲信越の店所の賃金計算をすることになっていた。

おもしろいもんでね、この3つの班は性格がクッキリと分かれていた。西部班は柔らかいイメージ、東部班は堅いイメージ、そして中部班はその真ん中。案外よくあることだ。自分は当然のごとく東部班に入ったわけだが、西部班と中部班に入れられた同期の2人も、各班に性格が一致していた。上はよく人を見ている。

*PC周りを綺麗にしてくれる 小道具たち

さて、東部班のチーフは自分より5年先輩だったかな。近江出身のお堅い方だった。当時は自分も堅かったから、その班にいたわけだけど。そこで自分が最初に引き継いだことは、班のメンバーと部長の机の雑巾がけをするというもの。8時の始業前までに、確実に終わらせる。ただの慣習に過ぎなかったのだけれど。

翌日から、休み以外は毎日が雑巾がけで始まった。来る日も来る日も雑巾がけ。時間にすれば、どんなにゆっくりやっても15分ぐらいのこと、特に苦にもならなかった。毎朝7時には出社していたかな、合計9つの机を拭いていたね。時には他の班の机まで拭くこともあった。ついでだからっていう気持ちだけで。

ちなみにだけど、他の班の同期は雑巾がけはやらない。東部班だけの、いや東部班のチーフが単独で始めたことで、業務と言われるものではなかった。昔の映画やドラマだったら、よく女子社員がやっていたでしょう。始業前の雑巾がけとかお茶くみとかいろいろ。その雑巾がけを自分がやっていたようなもの。

*深夜でも 電源を切る前に埃を落とす

慣れてくると楽しくなる。元々、掃除が好きな人間だ。もっと早い時間に、ほとんど人が来ない時間に出社して雑巾がけをしたくなった。やがて6時半には会社に行って雑巾がけを済ませ、本社前の弁当屋で買ってあるおにぎりを頬張り、新聞を読んで8時を待つ、そんなパターンが定着した。5年3ヶ月、それは続いた。

当然、後輩も入社してくるわけだが、特に自分は引継ぎをしなかった。でも思っていた。自分の姿を見て、後輩が自分からやりましょうかって言ってこないのかなと。今思えば身勝手な考え方だよね。自分だって先輩に、ごく自然に押しつけられたようなものなんだから。ただ自分は好きだから、続けていただけのこと。

それでも、なんかしっくりこなかったな。それで、昨年20年ぶりに再会を果たした、半年限定で大阪から来ていた課長に聞いてみた。課長は、同じ独身寮を仮住まいにしていた。後輩たちが誰も、私が雑巾がけをやりましょうか?って言ってこないんですけどって。矛盾したような話だったんだけどね。

課長は言った。そんなもんは気づいた奴がやればいいんやって。聞き慣れた大阪弁で。目から鱗が落ちたような気持ちだったな。

*白いと汚れが目立つから 掃除が習慣づく

自分から始めたことではないけれど、すでに自分の仕事にしていて、自分がやらなくてならない、そんな義務感さえあった。人にお願いする気持ちなどなかったんだ。自分は上下関係とかは、あまり好きじゃない。先輩後輩よりも、自分が率先してやるタイプだ。気づくとかよりも、自分がいいと思えば続けていくだけ。

何よりも、自分の机を綺麗にするのは、やはり自分自身であるべきだ。人にやってもらうよりも、自分で綺麗にした机で仕事をする、その方がずっと気分もいいし仕事に弾みがつくと思うんだ。自分でやるということは、仕事をさせてもらう机に感謝することにもなる。綺麗にしておけば、机も気持ちに応えてくれる。

精神論的だと言う方もいるかもしれないけど、雑巾がけって難しい。松下幸之助氏もおっしゃっているけれど、適度な水分を残して雑巾をしぼるのは、難しいことなんだ。しぼり過ぎれば拭きとれないし、水分が多過ぎれば汚れを広げる。適度に残して綺麗にする、その微妙な感覚を覚えるにしても根気が必要なんだ。

新入社員にとっては案外、一番の勉強になるかもしれない。

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目標はいつも、高いところにおきたい。

自分が子供の頃、SONYという会社は海外でも名が知られ始めていた。父親の仕事の都合で4歳から3年間、デンマークで暮らしたが、その時に家族ぐるみでおつき合いをした中で、SONYの駐在員の方がいらした。1970年代の初頭に海外で働いていたぐらいだ、その後かなり出世したと親から聞いている。

*盛田さんの志の高さがよくわかる

そんなおつき合いもあったからか、母はSONYが大好きだった。ラジオやテレビやラジカセやビデオ、実家に合った音響やAVに関わるものはすべてSONYの製品だった。今でも、その姿勢は変わっていない。自分は他社製品も使って来たが、今自宅にあるラジオやテレビはSONYだ。一度使うと中毒になるのかもね。

*初めからうまくいったわけじゃない

この盛田氏の本を読んだのは、学生から会社員になった頃。早い時期からアメリカで認められた氏だからね、読んでいてさすがだなって思ったよ。中でも、アメリカに出張するようになった頃の話が好きになった。ある日系アメリカ人の助言なんだけど、一生懸命な人間に対しては、誰でも親身になってくれるものだね。

*上手いことを考えるなって思った

当時は懐ぐあいが寂しかった盛田氏、一番安いホテルに泊まり自動販売の食堂を使っていた。それはいけないと言われる。自分のプライド会社の威厳を保つためには、何事もハイレベルにすべきだと。安いホテルの良い部屋に泊まるのではなく、良いホテル一番安い部屋に泊まる方がいいと。良い食事をして、料理の味やサービスの違いがわかるようにならなくてはいけない、とも言われたとか。素直にそうだなって納得できたね。

*まるで木造建ての学校のような感じだ

以前にも話をしたけれど、自分も同じようなことを父から言われていた。自分がどんなに小さい立場に思えても、自分自身を卑下してはいけないってことをね。

社会的な立場がどんなに小さかったとしても、自信をもって頑張っている姿は人の目を引く。逆に、自分なんて大したことないからと卑屈になっていると、声をかけてくれる人もいなくなる。それゆえに、ますます卑屈になってしまい、もっていた夢さえも縮こまっていく。自信をもち、胸を張って歩く方がいい。

*レーガン大統領をはじめ すごい面子

SONYという会社は自信をもっていたよね。社長であり技術者であった井深大氏と副社長の盛田氏。この2人だったからこそ、この会社を世界のSONYへと育てることができたんだ。電化製品の競争が激しかった1980年代、SONYはほとんど値引きしなかった。値引きをしないことが、SONYの自信の表れだったんだ。

だから、SONYの製品を持てることが、ステータスの時代もあったんだ。他社の携帯プレーヤーよりも、SONYのウォークマンを持てることがカッコよくもあった。何と言ってもSONYはデザインも良かった。好みもあるとは思うけれど、当時のデザインは令和の時代になっても通用する。を読んで作られているんだ。

*井深さんあっての盛田さんでもあった

SONYはアップルなどに押され、一時期低迷したが、近年のaiboの再開発などを見ていると、さすがにSONYだと思えてしまう。

そもそも、亡くなったスティーブ・ジョブズはSONYが好きだったし、何よりも盛田氏を慕っていた。アメリカを目指した氏の思いが、アメリカの人間を動かすことになったわけだ。高い目標や志をもった人間は、国境さえも超えて人の心を動かすってこと。

大した人間ではないけれどなんて枕詞をつけるよりも、自分にやりたいことがあるのなら、高い目標をもって進んで行きたい。

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人生経験 仕事 俺の考え 映画

バカができるのって、大切なことだよね。

映画「釣りバカ日誌」を見ていると、西田敏行が演じるハマちゃんこと浜崎伝助が、様々な場面でバカをやっている。上半身はだかになったり、コスプレをしたりメイクをしたり、それはそれは見ている方は楽しくなる。西田敏行という俳優の魅力でもあるんだろうけど、バカが出来ることの大切さを思い知らされる。

*高木ブーとのハワイアン 上手いんだ

当たり前だけど、全編を通してバカをやっているわけじゃない。必要な場面で踊るなどしてバカをやっている。営業マンとして宴会でお客さん達を前にしている時や、盛り上げることが必要な場面で率先して踊る。こういうことをやらせると、西田敏行は本当に上手い。同じ遊び人風に見えても、寅さんの対極にいる感じ。

自分が寅さんを、「男はつらいよ」の世界を好きなことは何度も話したけれど、「釣りバカ日誌」の世界というのも本当に好きなんだよね。過去に酒の席などでかなりバカをやっては来たけれど、ハマちゃんのように、ここまで徹底したバカをしたことはない。どちらかと言えば、見て楽しむ側になってしまう。

*こういうのを見せられたら 吹き出すよ

大垣にいた頃の後輩の仲間には、面白い人間がたくさんいた。「変体の会」という酒飲みの会をつくって、個性が豊かに思える人間だけを集めて飲んでいた。女装して踊るやつもいたし、眠りこけてお尻に割り箸を立てられているやつもいた。床に吐いて女将に叱られても、他人事のように眺めているやつもいた。

でも、こういう仲間が偏差値だけなら、自分よりもずっと有名な大学を出ていたりする。東北大学だったり一橋大学だったり早稲田大学だったり。器がでかいから有名な大学に入れたのか、入れたから器を鍛えられたのか。とにかく、その時思ったのは、厳しい受験戦争に勝った人間は何かが違うってことだったな。

*シナリオを考えた人間も すごいよね

課長 島耕作」という漫画の中でも、仕事上の失敗に対して頭を下げに行ったお客たちの前で、部長裸踊りをする場面がある。それが出来なかった島耕作に、部長は言う。

新卒で会社に入った頃、お客の前でふんどしを締めて裸踊りをさせられた。大学で学んだことは吹っ飛び、仕事とはこういうものだって思い知らされた。脆弱な知識プライドは関係ない。わかってしまえば怖いものはなくなり、仕事にも自信がわいてパワーもついた、と。これを読んだ時、大いに納得できた。

*バカをやるたび ハマちゃんの人気はUP

ただ、ハマちゃんはただ者じゃない。釣りバカというタイトル通り釣りが大好きで、釣りとおなじくらい裸踊りは営業の武器になる。しかも営業しているという姿勢は微塵にも見せず、あくまでも自分自身が楽しんだ上で、結果的に武器になっているだけ。出世はしないが家族を愛し家族に愛され、そして皆に愛される。

寅さんについても同じことが言えるけれど、真似しようとしたところで、まず真似しきれないね。ある意味で、こういう人たちには天性のものが備わっているとも思う。だからこそ共感もしてしまう。こういうバカができることに憧れもする。

バカができるというのは、大切なことだと思う。

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クラッチ板を破損させ、ダブルクラッチへ。

西濃運輸という業界最大手の一角を担う運輸会社に入社したが、マニュアルの運転はすごく下手だった。新卒の時に店所配属から始まっていたら、マニュアル車に乗る機会も多かっただろう。でも本社勤務では、マニュアル車に乗る機会はほとんどなく。あってもカローラバンぐらいで、トラックなどはまずなかった。

*真ん中が クラッチ板と言われるもの

そんな自分が借り物とは言え、2㌧のマニュアルのトラックで仕事を始めた。初日に横浜から佐倉まで、いきなり一般道90㌔走ってトラックをひっぱって来た。この時はさすがに緊張した。免許を取ってから既に10年近く経っていたが、初めて本格的にマニュアルを運転、しかもトラックを。よく走れたものだ。

既に退路を断っていたから、走るしかなかった。下手クソなクラッチ操作を繰り返しながら、なんとか佐倉に到着。着いた時点で、かなりクラッチ板をすり減らしていたと思う。翌日から少しずつ仕事を始めたが、同時に少しずつクラッチ板をすり減らしていった。要はクラッチ操作の典型的な初心者だったわけだ。

*クラッチ操作の仕組みがわかりやすい

時間が経つにつれて、走行中に燃えるような臭いがし始めていた。クラッチ板が摩擦を起こしていたんだ。火が出るわけじゃない。クラッチ板が必要以上に踏み過ぎていたってこと。その時は理由がわからない。仕事も増え始めていた頃で、毎日休む暇もない。ある日とうとう、都内の国道で操作不能になった。

横浜への配達の帰り道、異変に気づいて片側3車線の道をすぐに一番左側へ。とりあえずそれが良かった。道の真ん中での故障は免れた。路駐の見回り隊もいない頃で、左わきに停めてレッカーを頼む。レッカー車の助手席に座り、いすゞの工場へ。代車のトラックを借りて佐倉まで。工場を出た時は恥ずかしかった。

初心者がよくやる失敗だと、先輩格の仲間が話していた。借り物のトラックの上、資金もない。修理代を肩代わりして頂いた。前回にクラッチ板を交換してから、日も浅かったらしい。修理代を肩代わりしてもらったことが、猛烈に悔しかった。日常点検を個人的にお願いしていた、修理のプロ的な先生に指示を仰いだ。

*マニュアルは慣れると職人気質でかっこいい

1速発進をして、ダブルクラッチにしろ。先生はこう言った。

トラックは2速発進が日常的。でもそれが正しいわけじゃない。何のために1速あるんだという話になる。坂道発進や、重量物を積んでいる時に使う。後はひたすら2速発進。先生が言うには、過去に40万㌔以上走行して、初めてクラッチ板を交換した人がいたとか。それなら自分もと、さっそく修行が始まった。

そもそもダブルクラッチとは何か。シフトを上げる時、クラッチを半クラで操作、クラッチを踏みっぱなしになる。だから操作が下手だと、長い時間クラッチ板が操作されて、クラッチ板のすり減り方が早くなる。そこで、一旦クラッチから足を離し、ニュートラルの状態にして瞬時にクラッチを踏み直す

普通ならシフトを1つ上げるごとに1回クラッチを踏むところ、2回踏むことになる。1速から5速までなら4回踏むところを、倍の8回踏むことになる。これを口だけで説明するのは難しい。慣れるまで練習するしかない。体に覚えさせるしかない。足首のスナップをきかせる訓練もしてみた。慣れてくると楽しくなるんだ。

*大型トラックの近未来のコンセプトカー

2年後に排気ガス規制に対応するため、新車でトラックを買っても1速発進ダブルクラッチを続けた。その後、トラックを手放すまで30万㌔近く走っていたが、クラッチ板は半分しかすり減っていなかった。先生に、クラッチの心配はしなくて大丈夫だと言われた。操作が上手いと言われた。嬉しかったね、あの時は。

性格のこともあるとは思っている。ただ人間は、特にお金がからんでくると、真剣さが増してくるものらしい。

*トランスフォーマーならトラックも友人?

ちなみに現在は大型トラックも、オートマの時代だと思う。オートマの方が燃費もよくなっている。何よりも運転手が高齢化していく時代にあって、自動運転のトラック開発は急がれるべきだ。

職人気質的な運転には魅力が溢れているが、いい意味で人は、楽になっていくべきだ。すでに数年前から、高速道路での自動縦列走行の実験は始まっている。やがてトラックそのものが意思を持つのかもしれない。まさに、トランスフォーマーの世界だ。

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小倉昌男さんは、イノベーターだった。

宅急便ヤマト運輸商標だ。ヤマト運輸と似たような業務形態をもつ他社は、宅急便を扱っているとは言わない。あくまでも、宅配便を扱っているということになる。個人で出す荷物があった時、まず宅急便に出せばいいと考えることも多い。それだけ宅急便が、社会のインフラとして認められている証拠だろう。

*何でも 疑いをもてなくなったら終わりか

宅急便が生まれたのは、小倉昌男氏が社長の時代。当時のヤマト運輸は大和運輸の時代で、現在では想像も出来ないことだけど、長距離輸送に参入してくる他者の後塵を拝し、オイルショックも重なり、経営危機が噂されるほど業績が低迷していた。そこで、2代目の社長になっていた氏が、若手社員を中心に構想を練る。

当時の常識であった、大口の荷物を一度に運んだ方が合理的で得であると言う考え方に疑問を投げた。要するに、小口の荷物の方が1㎏あたりの単価が高いのだから、小口の荷物をたくさん運んだ方が収入も多くなると言う考え方だ。今でこそ常識的に思えるけれど、当時は西濃運輸も含めて路線便が中心の時代だった。

*何でも やってみないとわからない

当然のごとく、社内では反対者が出てくる。どんな世界においても、新しい発想が生まれた時には、必ず反対する意見が生まれるもの。成功に溺れて現状が見えていなかったり、既得権益を手放すことができなかったり、その理由は様々だろう。社内でも成功するはずがないとの意見が大多数だったとか。

何よりも、ヤマト運輸も当時は路線会社。長距離輸送を担う運転手たちも小口の配送に戸惑ったらしい。西濃運輸も同じだったけれど、運転手にとり、長距離運転手は目指すべき目標だった。小型の車輛から大型の車輛に乗り換えることは、誇りでもあったんだね。家庭向けの荷物を扱うというのは、まったく勝手が違う。

*何でも ロマンがるから楽しくなる

西濃運輸は1代目の時代。その勢いはすごかった。宅配の発想自体も、ヤマト運輸よりも早かったと聞いたことがある。宅急便が始まった時、小倉氏は西濃運輸が宅配便でもすぐに追い上げてくることを一番恐れていたという。だが、路線便のトップを走る西濃運輸は路線便にこだわり、それ以降の明暗が分かれた。

初めは戸惑いを見せていた長距離運転手たちも、だんだん宅急便を理解し始める。それまでは深夜に走りつづける運転手、お客様の顔をみることはなかった。それが一転、配達するたびに、家庭の奥様方からありがとうご苦労様感謝の言葉を頂く。そのことが配達する喜びを生み、士気も上がっていくことになった。

*何でも 志の高さしだいなのかな

サービス開始から3日間で、取扱個数は11個だったというが、その後の宅急便の取扱個数の伸び方や、他社がこぞって参入して来たことを見れば、氏には先見の明があったと言える。言ってみれば、運送業の世界における革命だったんだ。周りが路線拡大に熱を上げていた時代に、別世界を切り開いたんだからね。

現在は、佐川急便郵政などと、その取扱個数を争うだけでは済まなくなっている。ヤマト運輸の宅配便取扱いにおける独走態勢は、かなり前から脅かされ、次の革新を求められている。それがまた、昭和の時代とは違った難しさもあるから、イノベーターであったヤマト運輸も思うようには前に進めていない。

*宅急便とは違う道も 小倉さんならでは

だが、自分が個人で荷物を出すのはヤマト運輸だ。小倉氏の思いが基礎になっている配送のシステムは、レベルが違うと思っている。イノベーターがイノベーターであり続けるというのは、本当に難しいことだろう。特に現代のように情報があふれかえり、モノの進歩が早い時代にあってはなおさらのことだ。

それでも、運送業界において小倉氏が起こした革新以上の革新を自分は知らない。業界再編とかロボットを導入するとか、それは時代の流れに過ぎない。根底から覆したのは氏だけだと思う。

宅急便公共交通機関と同じ生活上のインフラ、さらに発展することだけが求められる。氏はきっと、次の時代もイノベーターであれるヤマト運輸を、天上の世界で楽しみにしているだろう。