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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

仕事を始めた頃は、ひたすら走りつづけた。

お世話になった社長さんから離れ、個人で仕事を始めた。内容は運送業。新卒で入社した西濃運輸から始まり、地元の運送会社で見たこと、自分の中にあった肉体労働への思い、合わせて考えていったら、やはり運送業に収まった。事務的な仕事ばかりだったから、本格的な肉体労働中心の仕事は初めて。

でも、勢いだけの無計画資金もなし。そこで知人からトラックを借りることにした。平成5年製の、距離数があまりのびていなかった状態のいいもの。荷台の箱は三和シャッター製で出来が良かったが、箱の中の装備は長距離を考慮していない簡単な装備。まず何が出来るのか?考えたのは建材を運ぶということ。

*ふくらんだ外装 肩にかついで運んだ

同じ形をした箱ものや袋状のもの、ほとんどが重量物個数をこなすことが中心。積載をオーバーしない範囲で積込み、千葉県内の現場を中心に運ぶことにした。自分で直接荷物を取れる立場ではなかったから、少し前からお世話になっていた老舗の運送会社さんを通して、毎日のように仕事を頂くことにした。

初めは重さも感じたけれど、慣れて来ると、この重さが快感になって来る。それとをこなす楽しさ。トラックの扉がシャッターだとガッチリしていた反面、開けて押し上げた分だけ荷台のスペースも取られる。天井まで満載で積むには工夫が必要だった。数をこなす必要があったから、とにかく頭をひねったよ。

*住宅の外壁と内壁の間に使用する断熱材

納品先は建設現場が中心で、工務店さんの倉庫に入れることもあった。現場ではヘルメットをかぶるのが基本。現場で頭をぶつけた大工さんが血を流しているのを見たこともあったので、頭を守ることの大切さはよくわかっていた。現場に着いたら、反射的にかぶるようにしていた。かぶるたびに、気が引き締まったね。

現場に組まれた足場の間をくぐり抜け、室内の指定された場所に十字に組んで積み上げる。現場内は基本的に土足厳禁。脱いだ後に靴に履き替える時間が惜しくて、靴下のまま歩いていたから裏はいつも汚れまくり。とにかく、商品の数と回る現場の数をこなすことが大切。運ぶ際にひねられた腹筋が硬く鍛えられていた。

ほぼ同時期に、納品をする人達がいた。内壁に使う石膏ボードを運ぶ運転手たちだ。彼らの仕事がまた、搬入技術を必要とされるものだった。たたみ一畳分ぐらいあるボードを、独特の持ち方で数枚同時に搬入。長さがあるから、足場をくぐるにも技術が必要。さらにボードは重い上に雨にも弱い。時間との勝負だね。

*石膏ボードを運ぶ運転手はたくましかった

良く鉢合わせする運転手も増え、仲良くなったりもする。狭い現場だったりすれば、トラックを停めるにしても気を遣いあう。持ちつ持たれつの世界。黙って手を貸しあうことも少なくない。仲良くなれば話もはずみ、情報を共有できる。ネットよりも、口で伝え合えることに味がある、生身の人間の世界だった。

一番燃えたのは、銚子駅横まで1日に2往復していた時。前日に積み込んだものを、7時半には降ろし始めて9時までに終了。75㎞戻って工場で積み直し、また同じ現場に戻って降ろす。高速道路は使わない。すべて一般道で夜には翌日分の積込みが待つ。休憩なしで走るか降ろすかだけ。走ることの楽しさを実感できた。

初めの2年間は、ひたすら走りつづけた。心身ともに解放されたのかもしれない。ちょうど30代に入った頃で、まだ未熟者ではあったけど、人の役に立つことが本当に楽しいと思えていた。

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お世話になった社長は、リゲインのCMの如く。

西濃運輸を退職した2000年の7月、自分はこの佐倉市に住んでいた。その時から1年9ヶ月くらい前に、会社が佐倉にトラックターミナルを開設、それに合わせて総務担当として赴任していた。その年の11月、昨年の夏に手術を受けた病院がある街で、地元の運送屋さんに就職した。

今日まで、大体11年ぐらいお世話になったと思う。その会社の社長は出会った時は40歳、やる気があふれおちてくるようなイメージをもった。バブル期佐川急便出身で、社長賞も獲得したことがあるとか。他の企業に在籍中には、名を知られた宗教法人の複写機を、全国規模で乗り換えさせたこともあったらしい。

https://youtu.be/_PoZk8rGfNQ
*この歌を聞いても疑問を感じなかった

そもそも佐川急便に入った理由が、借金の返済のためだったらしい。最初の独立をした時に事業に失敗、家族を養うための一番の近道が佐川急便だったとか。バブル期だったから、頑張った分だけ金が入ったみたいだ。寝不足の毎日、信号待ちの間に寝て、鳴らされたクラクションで起きて又走るの毎日だったとか。

その時は、佐川急便の協力会社の仕事を獲得したばかりで、意気揚々としていた。佐川急便の出身者であるとかは一切関係なし。協力会社として登録されるまでに、かなりの時間を必要としたらしい。だから、依頼の電話が3度来て、すべて対応できなかったら2度と依頼は来ないからと説明を受けていた。

*このフレーズが頭にこびりついていた

ちょうど会社が7年目に入った時で、自分は配車係として雇われていた。会社は当初は木材運びから始め、イベント関係にも進出したばかり。仕事に合わせて、の荷台から箱形の荷台へとトラックが変わる途上。そこで決まった佐川急便との契約。孫請けから直請けに変わる。口癖は、仕事は直で請けるに限る。

事業を始めた頃、当然仕事は来ない。佐倉市内で知らない会社は無いと言えるぐらい営業しても依頼が来ない。何も仕事がないことが恥ずかしくて、空いた時間は、広い駐車場がある公園にトラックを隠すようにして営業していたとか。出会った頃も、寝る時は枕元に携帯を置き24時間対応、その携帯も常に2台あった。

入社した2日目に社長さんが運転するトラックに乗り、深夜、有明の東京ビックサイトまでイベント撤収の仕事に行った。ビックサイトの中にトラックを突っ込み、4台の自社トラックが並んでいる光景を見て、感慨深そうにしていたのを覚えている。後に自分もイベントの仕事をしたが、この時の経験も生かされた。

*自分は飲まなかったが 売れていたな

そんなわけで、会社を辞めた時、最初にお世話になった社長さんには、いろいろと学んだ。中でも一番印象深かったのは、賃金支払い方法についての話かな。お金は大切かつ最も汚いものでもあるから、初めにしっかりと話をしておきたい、そう言われた。

もっともだと思った。どんなに綺麗ごとを言ったって、労働の対価はお金だけだから。頑張って得るものがあったのでお金はいりません、もしそういう人がいるのなら、自分は信用できないね。これだけのことをやったから、これだけお金をください、それぐらい言われた方がやる気も感じる。その方がよほど信用できる。

*今の時代には 敬遠されるかな

バブル経済期に流行った歌「勇気のしるし」。24時間戦えますかのフレーズに疑問は感じなかった。社長さんが成功しつつあった理由は、そんな気持ちで仕事をしていたからだ。半年後に独立するので辞めたが、その後長く仕事を頂くことになった。

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転職してからのことを、海を前に思った。

平成5年の4月、西濃運輸に入社した。先日も話をしたと思うけど、入社式の前日には、青春18きっぷで電車を乗り継いで大垣まで行った。期待と不安で、というよりも期待だけで自分自身が満たされていた。入社式の前から、隠れ愛社精神家だったのかもしれない。新幹線よりも、旅の感覚の方が好きだったけどね。

その愛社精神も、7年と3か月後に崩壊、退職へと向かうことになる。その間に経験したことは、一言では語り尽くせないほど充実していた。それについては、また別の機会に語る。とりあえず今は、転職について少し語ってみようと思う。

*朝陽というのは いつ見ても気持ちが昂る

そもそも自分は、転職するなんてことは考えていなかった。自分が大学を卒業した頃は、転職なんて言葉を聞いた記憶がないし、一度会社に入いれば終身雇用で頑張るような風潮があった。

だから、自分よりも4年ぐらい後に入社した社員が、1年ぐらいで辞めていくことを理解できなかった。頑張れよと言っていただけ。一緒にお酒を飲む時は、思い切り楽しんでいたけどね。

だからこそ寂しかった。後から来た彼らが先に辞めていくことがさ。まあ自分だって、1年目や2年目には悶々としていたから、いつ辞めてもおかしくはなかった。それが7年弱も在籍できたのは、3年目から楽しくなるぞという、例の部長の言葉を信じていたからかもしれない。要は、石の上にも3年ってやつだ。

*漁師の方たちが 黙々と働いていた

やがて時は流れた。

退職した後の自分は、転職ではなく個人の立場に立った。それも自分にかぎっては、勢いだけの計画性のない個人事業主になり、30代という若さだけが自分を引っ張ってくれた。それが7年弱続いた第一次運輸業時代。その時、ハッキリと悟ったことがあるんだ。

西濃運輸という組織がいかに巨大な企業であったのか、自分がいかに小さい存在であるのか、いかに自分が弱い立場に立たされているのか、それをハッキリと悟ったわけだ。大企業の傘に守られぱなっしで、飛び出してみたら知らないことばかり。社会保険の算出方法さえ、ろくに理解していなかった。

それからの自分には、知識と知恵がものすごい勢いで蓄えられていった。無我夢中だったよ、自分が生き残るためには。初めて知ったわけ、自分を守れるのは自分自身の力しかないってことを。必死になるのが当たり前。何よりも優秀な技術を身につけて、皆に使ってもらいたかった。

*波もふだんなら 画になるんだけどね

会社を辞めたことで、その後の20年間は極めて充実することになった。苦しいことの方が多かったけれど、今となってはすべてが自分の糧になり役に立っている。無駄なことは何もなかった。転職が、大きな転機になった人生の一つの形。

ここでハッキリと言えるのは、今の自分が好きだってこと。ここまでやってこられた自分を嫌いにはなれない。

学びたいことを学ぶことができた。学びたいと思った数だけ、誰に気兼ねすることもなく学ぶことができた。時間が許すかぎり学んだ。少し偉そうだけど、こうして語ることもできるようになった。これから先も学びは続くけれども、思い出すたびに楽しくなれるというのは、幸せなことだと思っている。

*小さな砂丘みたいな場所も好きだ

海を見ていると、余計な力が抜けていく。一生かかっても梅を抱くことはできないが、海はいつでも自分を抱いてくれる。海を見て安らぎを感じられなくなったら、人生も終わりに近い。

まだ何かができる、自分自身を信じられる今日の海だった。

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トイレ掃除の仕事には、もっとお金を支払って!

トイレ掃除というのは、尊い仕事だと思っている。10年以上も前になるけど「トイレの神様」という歌があった。トイレもこんな歌になると、綺麗なイメージになるなと思ったよ。植村花菜さんの声が、まるでトイレを磨いていくように思えたものだ。

*まるで声がトイレを磨いているようだった

トイレについてのエピソードと言えば、本田宗一郎氏については印象深いものがある。詳しくここでは述べないが、とにかく氏はトイレという場所を大切にした。トイレを汚くしている人とは付き合わないと決めていたぐらいだ。本にも書いてある。

自分が住むアパートのトイレには、ウォッシュレットがついている。入院生活の時の便利さが病みつきになり、使うことが日常的になった。ただし、使うだけでは駄目。流すだけの水洗トイレと違い繊細さがあるから、ノズル周りのこまめな掃除も大切。

でもやはり、一番大切なところは便器の部分だと思う。自分はフタをしておくタイプだが、自分しか使わないとわかっていたとしても、フタを開けた時に便器光っていると嬉しい。開けた瞬間に、川の流れのような跡がついていると気持ちがなえる。

*1回使用するたびに マジックリンをひと吹き

体の中から出されるのは排泄物。尿でも便でも綺麗じゃないことはわかっている。綺麗じゃないから排泄する。それならば、受け側の便器も汚くていいのか。

不思議な話だけど、便器が汚いと用足しが気分悪くなる。

外出先のトイレを使った時に、そう感じることがないかな?デパートのトイレが汚れていたりすると、そのデパート全体が汚く思えたりする。スーパーだったらなおさら、食品売場さえも不潔に思えて来る。本田宗一郎氏の言うことは的を得ていると思う。

20代の時にお世話になった独身寮の寮母さん、当時70歳だった。古い寮だから5階まであってもエレベーターはない。毎日順番を決めて、トイレの掃除をしてくれていた。築30年以上でも古いだけで、汚いって感じたことがなかった。ありがたかった。

*ホーミングで磨くと 輝きがよみがえる!

求人を見ていると思う。トイレ掃除の時給は、仕事のわりには本当に安すぎる。その立場で考えてみるといいよ。不特定多数の人間が、毎日使うわけだ。一歩前になんて貼り紙に有効性があるとは思えない。便器からはみ出した汚物も処理する。時には固まっていることもある。残っていることもある。すべてを処理する。

一般的に肉体労働の賃金は安い。肉体労働という仕事自体が安く見られている気もする。自分でやってきたからわかるけど、誰もができそうで、誰にでもできるわけじゃない。それ相応にも必要だし、技術だって必要だ。やってみればをかくことの尊さがわかるし、賃金の安さを痛感する。

トイレ掃除ともなると、そこに汚さを処理するという条件が加わるわけだ。便器をこすったタワシの隙間から、汚水が飛び散って顔にかかることなんか日常茶飯事。さらにこういう仕事をする人は年配者が多い。賃金が安くては、若い人は集まらない。家庭もちならなおのこと、尊い仕事でも選択肢のひとつになりにくい。

*本田宗一郎は 伝説的なエピソードが多い

時々、スーパーホーミングで便器を磨く。ミサイルみたいな名前だけど、汚れに対しては最強で、磨き終わった後の輝きは他者の追随を許さない。

でも、便器一つだから満足がいくまで磨けるのかもしれない。ずらっと並んだ便器を、時間内に磨き上げていくっていうのは大変だ。入院していた時に、清掃する方には気を使ったよ。ゴミ箱からゴミを取り出しやすいように、袋にまとめておくとかね。

トイレ掃除に限ったことではないかもしれないけど、もう少しその価値が正当評価されてもいい、そういう仕事だと思うんだ。

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人を見る時は、あくまでも自分の目で。

先日、話をしたセイノー体操。社長室の前にマイクを立て、腕を振りながら、かけ声を繰り返す毎日。間違えれば社長からのクレーム対象になる。新入社員が入ってくるまでは、最低1年間は自分たちが務めを果たす。1日1人の順番で、日曜と祭日以外は感情を捨ててマイクの前で体操を続けた。

翌年の春には、同期の1人が転勤。残った2人で交互に務めていたところへ、新入社員が1人配属された。3年目にも又1人配属されてきた。互いに平日の休みもあるから、完全に引退することは出来ない。時間の無駄を感じ始めていた。体操自体は必要だと考えていたけれど、体操に振り回されることが嫌になっていた。

1年下の後輩と決心した。声をテープに録音してしまおう、と。

*後輩と2人で毎日 メトロノームを眺めた

その日から約1ヶ月上司との戦いが始まった。上司というのは例の、自分にいじめてやるぞと言った上司だ。部長という職でありながら、窓際的なイメージしかなく、厳しい戦いの始まりを感じていたね。とりあえず、体操のやり方を変えてみたい、テープで録音して流したいという提案は通した。

皆さんは、この改革を簡単なことのように思うかもしれない。

でも、それは大きな間違い。何と言ってもこの体操、1代目の時代から同じやり方で行われてきた。しかも、労務課の新入社員の儀式として皆が見ている。ある意味で、楽しみにしているわけ。声をテープに吹き込むってことは、フロアの中心に立つ人がいなくなる。部署ごとに、かけ声を出さない人だけが立つわけだ。

*当時はまだテープを使っていた

そして、何よりも一番難しいのは、かけ声テンポなんだ。速すぎても遅すぎても駄目。誰もが納得できるような速さでなくてはならない。仕事で硬くなった体をほぐすための体操、終わった時に疲れを感じてしまっては意味がない。

この点について、自分と後輩の2人だけで計画を進めるには、まだ経験が浅かったようだ。

何度くりかえし録音したことか。テープに録音するたびに部長にのところへ。テンポが速すぎる、いや遅くなった、声が聴きづらいなどの辛口評価がくりかえされる。あっという間の1ヶ月だったね。後輩は、もう無理ですよと言い始めていた。テープを突っ返されるたびに、イライラも募っていたね。

*録音機器は違うが 録音ボタンを押し続けた

その部長は、社員から嫌われていた人だった。自分もその一人だったと思う。好きにはなれなかった。若輩者の自分の目から見ても、仕事らしい仕事をしているようには思えなかった。それこそが、若さというものかもしれないけどね。

なんとか許可をもらうことができた。テープは完成し、マイクの準備をすることなく体操を行う日を迎えた。

初日は成功だった。そして思った。録音されたペースは、ちょうど良かったと。お世辞とかではなく、部長が許可を出したペースに気持ち良さを感じられた。ドンピシャってやつだ。長年の体操経験から、一番気持ち良く体操をできるペースを、体が覚えていたんだと思う、部長さんは。

曇りガラスを通して部長を見ていたのかもしれない。大企業の部長というポスト、誰もがなれるわけじゃない。何かしら人よりも秀でたことがあったからこそ、その椅子に座っているのだろう。実際にその能力が、通用するものだったのかはわからないが、少なくとも自分たちには良き結果を導いてもらえた。

*ちなみに 今の録音機はこのタイプ

人を評価できるほどの人間ではないが、少なくとも他人の評価だけで結論づけることはやめた方がいいと思う。判断するのは、あくまでも自分自身。その結果が大多数の他者と違っていたとしても、自分自身が考えた結果なら納得がいくはず。可能な限りその判断を信じてみるのも、果ては自分自身のためにもなる。

人を見る時は、あくまでも自分の目で、だ。

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最初の仕事は、セイノー体操という儀式

西濃運輸に入社してから3ヶ月間の研修を終えた。7月1日付けで配属された先は、岐阜県大垣市にある本社の中。所属先は、労務部労務課人事関係賃金計算の仕事をする部署だった。

研修中に希望を聞く機会を与えられて、研修してきた結果から考えたのは、人事労務関係の部署。ぜひ働きたいと希望したことが見事に通った。嬉しかった反面、がっかりしたのは場所が店所ではなくて本社だったこと。店所を強く希望したので残念だった。

研修最終日の決意表明の時、残念を思いっきり前面に出して嘆き叫んだら、上司になった部長から言われた言葉がこれ。あんなに強く希望していたのに残念だよ、いじめてやるぞ。前途多難。

*この動画をみつけて 懐かしくなった

だが、嘆いている時間などなかった。同期3人が一緒に労務課に配属され、まずやらされたことは、このセイノー体操を覚えるということ。体操を覚えて、1日に2回10時と15時に行われる本社での体操時間に、社員の前に出てかけ声をかけるんだ。

それが労務課に所属なった、男の新入社員がやるべき最初の仕事。言うなれば、新人のための儀式

1ヶ月間かけて練習することになっていた。いきなり軍隊に近いようなイメージをもった。音は自分の声だけ。しかも、扉のない社長室の前にマイクを置いてかけ声をかける。社長の姿が曇りガラスの向こうに見えるような、本社2階のど真ん中。

同期3人が互いにライバルだ。誰が一番早く覚えて、誰が最初にデビューするか。先輩たちが見ている。しかもワンフロアの中に、経理や営業や運行など他部署の社員が全員集まっているわけで、新人のデビューについては、皆が一大イベントとして注視している。失敗すれば、すぐに社長からクレームがはいる。

負けてはいられないって気持ちと、絶対に失敗できないという気持ち。必死に覚えた。寮に帰ってからも練習したと思う。1人は同部屋だったから、一緒に復習した気もする。

ちなみ当時はまだ相部屋。本社横の独身寮は、元々4人部屋。当時は2人か3人になっていたが、それでもほとんどの社員が相部屋だった。

教えてくれた先輩の確認をパスした1ヶ月後、いよいよデビューする日が来た。1日2回ずつこなしていく。デビューの順番は話し合いで決めた。自分は3番目で最後。先にやった2人が無事にデビューを果たしたのを見て、3日目の朝を迎える。

10分前にフロアにマイクを立て、10時の体操に備える。席に戻り緊張する気持ちを抑え込み、頭の中で順番を復習する。時間が来た。席を立ってフロアに立つ。右から左まで約100mの中で社員がこちらを見ている。やるしかないという気持ちで武者震い

*こんな状態で箱根の山を越えていた

セイノー体操を始めます!と声を出し、1234とかけ声をかけていく。マイクの前で体操をしながら声を出すわけ。かけ声のテンポを乱せない上、体操を間違えるわけにもいかない。これが仕事をする上での緊張感ってやつか!

約3分ぐらいだったかな。無事に終えて部署に戻った。教えてくれた先輩の表情に安堵が見られた。午後にもう一度行い、その日の新入社員としての儀式を終えた。

今思い出せば、自分がかわいくも思えるが、新人というのはそんなものかもしれない。脇目も振らずに夢中になる。同じように夢中のつもりでも、20代の頃の夢中を再び経験することはない。

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血圧上昇、キーを思うように打てない!

大学を卒業した頃は、まだワープロを使っていた。何かをまとめる時には、ワープロに感熱紙をさしこんでは印刷をしまくった。ワープロの開発に、メーカーがしのぎを削っていた。

まだ、「Windows 95」が発売される前の話だ。

当時の自分は、ひらがな入力で文章を作成していた。ローマ字入力が良いとか悪いとか、そんなことは特に考えなかった。ただ流れで、ひらがな入力をすることが当たり前にしていた。

*3年近く使用した 無線キーボード 最近引退

入社して2年後の1995年、「Windows 95」が発売され、PCの世界が身近なものになった。会社にもすぐに導入され、様々なソフトに夢中になった。インストールされているゲームにも夢中になったね。

その頃、先輩に提案されたことは、ローマ字での入力。ひらがなで入力するよりも効率がいいって。アルファベットの位置さえ把握しておけば、日本語にも英語にも対処し易い、そう言われた。

*自宅でのスマホ入力に使用 入院中も活躍した3代目

一理あったので、タイピングソフトを使って練習を始めた。まだ自分のPCを持っていなかったので、会社のPCを使う。当然のことだが、仕事中に練習はできない。本社勤務の頃だから、昼休みはきっちりと60分取れた。食事は15分以内、残りの45分間、毎日PCを使って練習することにした。

こういう時になると、自分は燃えるタイプだ。「」一字だけを入力するにしても、ローマ字入力だと「あ」にあたる「A」の位置が2段下になる。慣れるまでは毎日が格闘。格闘ゲームなんかいらない、タイピングソフトそのものがだったんだから。

*iPadに取り付けたキーボードつきカバー

大体の社員が、ゆっくりと昼ご飯を食べてから一息。ゲームを楽しむ先輩以外はいない。とことん使わせてもらった。その内だんだんと、ローマ字入力が身近になってきた。そうなると楽しい。

個人的にも、PCが必要だと考え、当時最新だった東芝のデスクトップ「BREZZA」を借金して30万円で購入した。信じられないかもしれないが、HDDは10GBもなかったと思う。今使っているノートPCのSSDは1TB。進歩のすごさを感じるよ。

*自宅のキーボードは 2台ともこのタイプに変更

こうして、会社でも自宅でもローマ字入力に慣れ親しむことができた。確かに入力は効率よくなって時間は短縮された。特に仕事をする上では楽になったと思う。

2000年から個人で仕事をするようになってから、検索中心の生活になり、入力スキルガタ落ちした。前回の手術後に3年間事務職に戻った時、そのレベルダウンが悔しくて、また自宅で練習し直した。思うようにいかず、時の早さを恨めしく思いもした。

*ノートPCのキーボードは予備扱いで

最近、先代の無線キーボードに寿命を感じ、キーストロークの浅い新型にしたら、浅さに対して指先が慣れていかない。キーボードを前にしながら、独りごとで「くそ!」を繰り返す毎日だ。

いずれ、音声だけで完璧に近い入力をできる日もくるだろうけど、脳の活性化のためにも大切、今は指先に力をこめる。

ドローン操作のための、リモコンをいじる指の方が慣れてきた。休業中にもかかわらず、室内で血圧が上がる毎日だ。

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佐川急便の、フットワークの軽さ。

佐川急便が、2022年9月を目途に、保有する軽自動車をすべてEVにシフトしていくことを決めた。しかも、その調達先は中国のメーカー。両方の点から時代の流れを感じる。

いまや佐川急便は、ヤマト運輸と並んで、社会のインフラの一端を担っている巨大運輸会社だ。宅配便の数では、まだヤマト運輸に及ばないが、そのフットワークについて言えば、組織の大きさを忘れてしまうぐらいの素早さ、即効性を感じられる。

*昔に比べると 優しいイメージだ

系列会社も含めて、佐川急便にはたくさん仕事を頂いた。間接的にではあるけれど、運賃も良かったし鍛えられた上、何よりもなにくそって感じで、受けた仕事には熱意をもつことができた。

ほとんど貸し切りの仕事だったけれど、佐川急便は責任をもってやりさえすれば、後は受けた本人にすべて丸投げ、自分で考えるという点では大いに学ぶことができた。その反面、ミスをしたことへの追及の仕方は半端じゃない。ある意味では執拗だった。

何年も前に、貨物機を2機準備して、自ら航空貨物の世界にも参入した。2年ぐらいで撤退したかな。昼間のライトアップも佐川急便が組織的に始めた。欧米では義務化されていることを、先頭に立ってやる姿には好感をもてた。でも、リーマンショックの後ぐらいだったかな、無駄を感じたのか費用削減のためか、今ではライトアップもやめた感が強い。

とにかく、まず勢いでやるようなイメージが強い。同時に無駄だとわかれば、即座に撤退するイメージも自分の中にはある。

*現代的なスマート?なマークになった

だが、このEV車へのシフトについて言えば、世界の流れでもある。世界の流れであるからこそ、やっていく価値がある。当然のこと、多額の資金も必要。巨大企業ゆえに可能なことなのかもしれないが、現在7,200台軽自動車を、2030年までとはいえ、すべてEVに切り替えるというのは大変なことだと思う。

CO₂(二酸化炭素)の排出量を減らす取り組みは、日本は世界の流れから遅れている。EVシフトについては、欧米中国と比べればさらに遅れている。日本ではハイブリッドがもてはやされるけれど、時代はその先にあるわけだ。

だからこそ、佐川急便の姿勢は大いに歓迎されるべきだと思う。願わくば、今回の計画が確実に実行されることを願いたい。利益だけを優先するのではなくて、長期的な視野地球全体の環境問題としてとらえ、先頭を走りつづけてもらいたい。

*赤いふんどしにふれると お金がはいる?

かつて、佐川急便の飛脚マークにふれると、特に赤いふんどしにふれると、お金が入ってくると言われた時代もあった。それぐらい、お金のイメージが先行していた時代もあったわけで、佐川急便も今はその姿を変えたらしい。

そのフットワークの軽さが、常に良い方向へと進むように、期待をこめて見守ってみたい。

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西濃運輸の目安箱に投函、社長に呼ばれた。

入社4年目ぐらいの頃、大垣の本社目安箱が置かれた。

目安箱というのは、自分が勝手につけた呼び名。江戸時代の8代将軍徳川吉宗の目安箱になぞらえて呼んでみた。要は、会社に意見がある方、聞かせてくださいってやつだ。意見箱だね。

大垣の本社と言えば、西濃運輸の本拠地だ。1代目がいらした頃には、目の前の国道258号を、トラックがパレードしたとも聞いている。その頃は、全国から人が集まって、地元の社員の割合は30%ぐらいだったらしいが、自分が入社したころには真逆。岐阜県外から集まった人間の方が30%になっていた。

*三菱のパジェロが パリダカを席巻していた時代

そうなると本社なんかでは、面と向かって社長にモノを言う人間なんかいない。当時の2代目会長が正面玄関を通る時には、隠れて姿を見せるなって言われたぐらいだ。摩訶不思議な世界だよ。社員が会長に挨拶するんじゃなくて、挨拶よりも姿を見せないことの方が大切のような雰囲気だったんだから。

そんな本社に目安箱が置かれたわけだ。

案の定、ほとんど意見の投函はなかったようだ。後で聞いたところによると、10人分ぐらいしかなかったとか。名前を明かしていたのは、自分と仲間の2人だけ。他はすべて匿名

平成8年当時には、すでに時代遅れは否めなかった。その理由が意見が通るような風通しが無かったこと。陰で愚痴は言うが、いざ意見を求められればだんまりを決め込み、はいはいそうですねの繰り返し。入社当時は吠えていた社員も、に染まってやがて言わなくなる。そんな状況だから、匿名なんか当たり前のこと。

*当時 何度もくりかえし読んだ

でも、自分は吠えまくっていた時期だからね。毎日が畜生!のくりかえし。名前を出すのが当たり前。出せないなら意見するな。それで、A4にして10枚くらい書いたかな。喜んで投函したんだ。結果が楽しみで仕方なかった。何も怖くなかったね。

でも、書いてみるもんだよ。

後日、秘書課から呼び出しがかかった。社長が呼んでるって。自分が所属してた労務課は社長室のすぐそば。社長室は扉がないから、いつも社長の姿はまる見え、声もまる聞こえ、その入り口に立ったよ。ただ、後輩に言っておいた、今日でクビだからって。内容は伏せるけど、それぐらいハッキリと意見していたからね。

当時は、1代目の田口利八さん次男にあたる方が社長。実質3代目。親譲りの立派な体格で180㌢はあったかな。

社長室に入った瞬間、一言目に「よう言った!」って言われた。そして、二言目に「会社には出来ることと出来ないことがある。でも、夢をもって頑張りなさい」、そう言われ、大きな手で握手をしていただけた。ただ、感動あるのみだった。

*生涯 この駅名は頭からはなれそうにない

後日、独身寮長としての申請が足踏みしていた稟議書の決済が下りた。額は増額されて800万円を超えていた。元々、この稟議書を通すためにも意見したもの。また感動がやってきた。

つくづく思った。言わなければ、行動しなければ何も始まらないって。それも若い時ほど、そういう気持ちは大切だと思う。

それから3年後に会社を辞めたことについては、後悔はしていない。

ただ、何年か前に当時の社長が亡くなったことを知った時、ありがとうございましたって、心の中でつぶやいたね。いい時代を与えて下さって、本当にありがとうございましたって、ね。

駄目だな、書きながら思い出していたら、涙が出てしまった…。

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ブログを書くのは、自分を見つめ直すこと。

ブログを書くのは、自分を見つめ直すことだと思う。

そもそも、ブログを書こうと思い立ったのは、大切な友人と話をしていた時。何となく書いてみようから始まったんだけど、指南書のような本を読んでいたら、真剣になっていった。

なんて言うんだろうか、今の自分にもこれからの自分にも、必要なことのように思えたんだよね。書くということに、自分の存在意義を見出せるような気がしたんだ。

*文章を書く上で すごく参考になった

ブログって、たくさんの方が書いていらっしゃる。有名人になれば、アクセク数は半端じゃない。有名なブロガーさん達だって、もちろんそう。有名だけじゃなくて、やはりおもしろいんだろうね。おもしろいから有名なのか。そこにいくと、自分なんかは駆け出しだし、まだまだこれからって感じ。昨日の SEO はいくつだったのかなんて考えるのは、まだ先の話。

ただ、すごくやりがいがあるし、すごくおもしろくて楽しい。

先日のツイッターでもお話しした通り、今、4月末までに100本の記事を書くと決めている。100本書くためには、101本以上の記事を目標にしなくてはならない。だから、毎日、最低3本の記事を書くことを目標にしている。3月31日の初日に21本からスタートした。この記事で48本目。

https://twitter.com/MR21022020KIMI/status/1378654307306770436
*公言することで 目標に向けて自分を鼓舞する

先にいくつかのカテゴリーを決めてある。それを基本にしながら、いろいろな記事を書いてみようと考えた。ただ、カテゴリーはどんどん派生していいと思っている。固執しすぎると書けない。まずは、書くことを習慣づけるために、目標の数をこなす。数をこなすことで、達成感をあじわう。

100本の記事を達成できたら、いったん自分を褒め、文章力アップのための技術みがきへとシフトする。そこからは数をこなすことが目的じゃない。毎日1本の記事を書くことを基本に、技巧を加えていく。今考えていることは、とりあえずここまで。

この1年の間、ツイッターを通して、限られた文字数で記事を書くことには慣れた。文字数が限られれば、記事も筋肉質にならなざるをえない。140字の制限には、かなり鍛えられたね。去年の夏に入院していた時などは、朝ご飯を食べ終わった時点でもう文章を考え始めていた。夕方にツイをUPするためにだよ。

*日記を書き始めて 13年目に入っている

実は13年前から日記をつけている。つける理由があったわけじゃない。これこそ、ただつけてみるかって理由だけ。

でも、人間っていうのは不思議なものでね、つけ始めるとやめられなくなる。性格なのかな。5年前に入院していた時なんか、右肩の手術だったから、1ヶ月書けなかったんだよ。日記や手紙については手書きを主義にしているからね。

じゃあ、どうしたかって?スマホに箇条書き程度に日々あったことをタイトルで入力しておいた。固定の装具が取れた1ケ月後に、そのタイトルから思い出しながら、1ヶ月分の日記を書き起こした。けっこう覚えていて、お蔭で日記にブランクは無いよ。

日記をつけることでも、文章を書くってことが鍛えられている。

*最近は 本を読み直すことが多い

最近は過去に読んだ本を読み返すことの方が多い。もちろん、新たに購入することもあるけれど。後は、新聞のコラムを読むことも大切にしている。自分は日経電子版を読んでいるけど、コラム中心に読むだけでも、かなりボリュームがあって勉強になる。

こうして、様々な文章にふれながら自分の文章を追求している。

ブログというのは、日記とは違う。本にもあったけど、他人が興味を持っていることを調べるためのツールになる。いわば、目的達成のための材料のようなものだ。

だから、自分にとっては何でもないことも、他人にとっては魅力がある場合も多い。それゆえ大切なことは、いかに自分自身を表現していけるかってことだろう。

自分という人間を、いかに上手く表現できるかが大切だと思う。自分はこういう生き方をしているんだってことを、しっかりと主張できるかが大切だと思うんだ。

*手紙はやはり 手書きがいいと思う

偉そうなことを言える立場ではないけれど、少なくとも、他人の真似ごとみたいな人生は送っていない。自分を見つめ直していく上でも、ブログを書くことに集中してみたいと思う。

緑がしげる頃には、新しい自分が見えている気がするんだ。