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新人研修の仕上げは、お寺の中で。

1993年4月1日、西濃運輸株式会社に入社した。

入社式は、岐阜県大垣市にある本社で。実際には、垂井町にある研修センターで行った。のどかな場所にあったよ。

父が転勤族だったこともあり、引越が多かった自分。母方の実家は東京の世田谷区にあったが、都会すぎて故郷というには遠い場所だった。今思えば岐阜は、自分が初めて経験した、故郷と感じられるような場所だった。赴任当時は気づかなかったけどね。

*西濃運輸のカンガルー便 夜の高速を彩った

研修は4月から6月末までの3ヶ月間だった。細かい内容は省いて、最後のお寺での研修について話したい。

当時はまだバブル経済が崩壊したばかりで、企業は新人研修にお金もかけた。その代表が、お寺自衛隊での研修だ。高校時代の親友が、卒業と同時に海上自衛隊の幹部の道に進み、自分が社会人になった頃には、自衛隊研修の教官をやっていたぐらいだ。

西濃運輸はお寺研修を行った。先輩いわく、この先味わえないかもしれないぞと。確かにそうだった。この歳になっても、2度目の経験をしてないからね。俗な話だけど、2泊3日の研修に会社は80数万円支払うとか。同期40人弱の研修代金としてね。

*ボンネットトラックのチョロQと独身寮の鍵

初めての経験とは言え、驚くことばかり。時間を知る必要はないからと時計は取り上げられた。起床時間も就寝時間も謎。音も出してはいけないから、おしゃべりも禁止。朝から晩まで座禅の繰り返し。肩を叩かれたら首を傾けて強く打ってもらう。

音を出してはいけないからシェーバーも使えない。カミソリを持ち合わせていなかったから、研修が終わった時にはまるで別人。お風呂はグループごとで一人平均5分だけ。どこを洗っていたのか記憶もない。もちろんドライヤーなんか使えない。短髪万歳!

時計を隠し持っている奴がいて、朝は3時から起こされて座禅を組んでいたらしい。食事は薄口。最後まで必ずたくあんを1枚残し、それをたわし替わりにして水をつけて茶碗を洗う。洗った水は飲み干す。夜中になると、多くの仲間が腹をこわした。

2日目の昼からは、闘犬みたいな犬を連れた、あたかも山伏のような坊さんと山登り。登り切った時は、さすがに気分良かった。3日目の昼までで研修は終了。その日の午前中に、住職の御母堂さまの指導で書経を行う。もう終わりだってわかっていたせいかな、筆先への集中力が高まって、文字も踊っていた感じ。

*ここまでやるとは 研修時には思わなかった

まあ終わってみれば、楽しかったって思えた。本当に二度と経験しないんじゃないか、そうも思えた。寮までの帰りのバス、盛り上がったね。戻って2日ぶりにひげを剃った時は、この世の天国を感じた。その晩に仲間と飲んだお酒は、本当に美味かった。

お寺の研修は、今もあるんだろうね。企業も余裕がない時代だから、研修に組み込んだりはしないかもね。

*映画「ファンシイダンス」を思い出した

でも、経験できる時があるなら、経験した方が自分のためになると思う。あの時ほど、俗世間から切り離されたことはなかった。どんなに綺麗ごとを並べても、日常生活は邪念に囲まれている。研修に限らず、時には日常から自分を切り離し、客観的に自分を見つめ直すことは大切だと思う。

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労働の帰り道、電車の席に座れなくて…

大学1年と2年の頃は、肉体労働のバイトをしていた。

2年間は教育課程にあって授業も多かったから、週末の土日だけ働いていた。通常は渋谷の本校で授業を受けていたが、週に一度だけ体育の授業があったので、その際には東急田園都市線のたまプラーザ駅まで行って、新校舎で終日過ごした。

父母と妹は高校2年の時からアメリカにいたので、浪人が決まった時、2年間過ごした下宿を出ることになった。落ちついた先は、千葉県船橋市にあった父の会社の寮。今はその寮もなくなっているが、ホテルみたいな所だった。その話はまた別の機会に。

*映画「息子」から 車内が暑い 団扇であおぐ

その寮を起点に、週末だけ、日払いや日給月給の肉体労働をこなしていた。その頃はまだバブル経済まっただ中で、学生でも仕事はいくらでも入った。ただ今と比べれば安かったな。実質労働8時間で1日6,000円、時給にして750円だった。

自分の高校はバイト禁止だったから、バイトをしてお金がはいることは嬉しかったね。だから、週末は夢中で体を動かした。離れた場所でも仕事もしたな。日曜とかに、電車で往復4時間かけて船橋から横浜まで仕事に行ったりね。深く考えなかったな。

言うなれば、10代の若さってやつだろうね。月曜から金曜まで授業はしっかりと出て、土日はみっちりとバイト。でも、佐賀県から出てきて新聞屋さんに住み込み、朝晩の配達をこなす立派な仲間もいた。それに比べると、恵まれた環境にあったと思う。

*映画「息子」から バイトはこんなイメージ

日払いの仕事なんかでは、ロッカーは使いまわし。前日に誰が使ったかもわからない。ひどい匂いがした時もあったね。路上生活者もバイトに来ていて、風呂に入らない人間も多かった。夏なんかは大変、戻ってきたら荷物に匂いが移っていたりしてね。

それでも、お金がもらえることが嬉しかったから、季節に関係なく大汗をかきながら働いていた。

夏のある日、渋谷から山手線に乗って品川まで行き、大井のコンテナ埠頭へ。そこからコンテナトラックに乗って、引越作業の助手をした。このコンテナの中が暑い。鉄板の箱がまともに陽を吸収するから、中での作業は体が燃える。汗を流しクーラーで乾かしての繰り返し。夕方、埠頭に戻った時は、作業着は真っ黒になる。大雨もあったりで、すべての汚れを吸収したような感じ。

*映画「息子」の設定は 当時の状況と同じ

帰りの山手線の中、あまりに自分が汚かったから、座席に座るのに気が引けた。座っちゃいけない気がしたんだ。対面の席だから特に嫌だった。立ちんぼで渋谷まで行く。渋谷から事務所の代々木まではバスだ。もう疲れに耐えられなかった。席は前向きだったし、空いていたから座ることにした…。

悪いことをしてるはずなんかないんだ。しっかりと働いて来たんだから、恥ずかしいことなんて何もない。そもそも作業着についた汚れは誇るべきものなんだ。でも、その汚れが座席にしみつくような気がして、電車の中では座れなかったんだ。

汗して働くというのは尊い。まだ、よく世の中を知らない学生だったが、おかしなところで社会人ぶっていたのかな。

その尊さを自己主張できるほどには、自分は大人になり切れていなかった。今となっては、純粋な思い出のひとつだ。

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山形県天童市まで、走り続けた!

平成16年9月の話。山形県の天童市まで走った。

茨城県の下館市から荷物を積み、当日中に天童市まで走るという引越の仕事だった。元請けの会社から個人で仕事をいただき、仲のいい運転手を助手につけて走った。8万円ぐらいの仕事。

*佐倉市を朝4時に出発 下館市で8時まで待機した

千葉県の佐倉市を朝の4時に出発。余裕はたっぷり取るのがやり方。現地近くには1時間前に待機、これが基本。

助手につけた彼はすごい運転手だった。秋田まで毎週トラックで3往復、今では考えられない仕事の仕方だった。一番信用できる相手で、時間が合えば、自宅で語り合う仲だった。

8時から積込みを始めた。引越というからには、既に用意ができていると思っていたが、なかなか仕事が進まない。手伝いの方は多くても、積む予定のものを当日に考えていた感じ。2㌧積載のトラックに天井まで満載にして、終わったのは昼の12時

*天童市までは 東北道と山形道を使った

これから天童市まで走り、荷物を降ろし終えなくてはならない。若さも十分、根性も十分の2人だったけど、不安もあった。とにかく走るしかない。コンビニで食糧を買いこみトイレを済ませ、最も近い入り口から高速道路に進入した。

トラックにはアルパインのデッキがつけてあり、今となっては化石のようなCDチェンジャーもつなげてある。助手の彼にCDを入れ替えてもらいながら、ひたすらアクセルを踏む。天気は上々、東北道の走りはなんとも爽快な気分になれた。

*東北道から山形道へと舵をきる

村田JCTから山形道に入り、さらに走り続ける。やがて左手に、蔵王の山々が見えはじめる。晴れていたから特に綺麗だった。

ただ、トラックが急な坂に耐えられなかったね。走らないんじゃなくて、重さに負けて加速できなかった。そんなにエンジンが強い車輛じゃない。左側の登板車線に移り、ハザードランプをつけながら低速で走った。時速20㌔ぐらいだったと思う。

天童市内の目的地に着いたのは17時半ノンストップで、トイレ休憩もなし、燃料補給もなし。さっそく荷物を降ろし始める。

すべてが終わったのは、19時すぎ。

*天童でおりて天童市内に向かった

実を言うと、この引越は訳ありだった。事故で旦那さんを亡くされた奥さんが、実家に戻るために荷物を先発させたんだ。天童市のご自宅には、お婆さんらしき方と幼い兄妹の3人が、自分たちを待っていて下さった。

お茶をいただき、幼い兄妹たちと別れた。彼等の父親が亡くなったことを感じさせないぐらい、明るく話しかけてくれた。今でも思い出す。だから、その時を忘れないように、いただいたお礼で記念の時計を買った。時計は今でも元気でいる。

7時間半ぶりにトイレに行った。すべてを終えて、健康センターで汗を流した。コンビニにトラックをとめ、荷台で宴会をした。彼は荷台で毛布にくるまって眠り、自分はキャビンで鍵をかけて眠った。今思えば薄情なことだったが、彼は熟睡したらしい。

*いただいたお礼で 記念に時計を買った

翌日は5時に起床、佐倉市に向けて走り始めた。高速は使わない。一般道をひたすら南に向かって、ただ走り続けた。

今となっては、忘れられない素敵な思い出だ。でも、同じことは二度とできない。

あの時手伝ってくれた彼は、何年か前に消息が不明になってしまった。どこかで元気でいてくれればと、それだけを願っている…。

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初めて働いたのは、巨大な運輸会社!

平成5年、西暦にすれば1993年の4月、岐阜県大垣市に本社をおく、西濃運輸株式会社の社員になった。

*西濃運輸のボンネットトラック型チョロQ

大学の就職活動では、ほとんど運輸会社だけを回った。なぜそうしたのか、正直言って明確な答え方ができない。在学中のバイトが、特に1年と2年の時には肉体労働が中心だったから、自然と自分の中でそれを求めていたのかもしれない。

いくつかの運輸会社を回っているうちに、西濃運輸さんだけがスムーズに最終面接まで進んで行った。そのままの流れで、6月には翌年の就職先が決まっていた。その時は素直にうれしかった。

でも恥ずかしい話、本社が大垣にあることを知らなかった。面接がすべて東京の浜町だったから、そこを本社だと思い込んでいたんだ。面接がスムーズに進み過ぎたことに加えて、今思えば、就職活動自体に真剣さが足りなかったのかもしれない。

不真面目だったなんて、そんなことは決してない。まだ深く世間をわかっていない学生だとしても、活動自体の大変さはよくわかっていたよ。日本の世の中はバブル経済がはじけたばかりで、新卒と言えども、就職は大変な時代に入りつつあったんだから。

それでも、スムーズに最終面接が通ってしまったものだから、それ以上は詳しく調べるつもりはなかった。就職活動自体は終了。残り半年は2つの単位のために通学、後はバイトで春を待った。

4月1日の入社式は、大垣で行われた。前日、千葉県八千代市から京成電車に乗り、青春十八きっぷを使ってJRを乗り継ぎながら大垣に向かった。合計で約10時間かかったと思う。

*大垣駅周辺は 今もあまり変わっていない

会社は赴任手当として、交通費の全額を支給してくれるはずだった。そこを、あえて青春十八きっぷを使い、各駅と快速だけで大垣に向かったのはなぜか?

自分の中にあった旅をしたいという気持ちと、会社の負担を減らしたいという気持ちの2つからだったかな。

笑えるよね。まだ、入社式もすませてなかったのに、すでに愛社精神みたいなものをもっていたんだから。でも本人は、いたって真剣だったよ。とにかく無事に大垣について、めでたく入社することができたってわけ。