カテゴリー
人生経験 俺の考え 趣味

三菱パジェロに、今も思いをよせている。

愛車は、1代目三菱パジェロミニ。自分は、ツーオーナー目だが、2002年の4月から乗っていて、ほぼ19年目に入っている。生産は1998年だから、車体年齢は23年目に突入している。幾度となく車検をくぐり抜け、部品を交換しながらも大きな故障をすることもなく、今なお現役で走ってくれている。

*初代パジェロ 角ばったところがいい

実際のところ、消耗した部品交換以外はほとんど修理をしたことがない。トラックに乗っていた時と同様、車への労りは人間へのそれと全く同じ。ちょっとした異音が聞こえれば、すぐに点検にはいる。自分は修理屋さんではないから、わからないことについては、20年来のつき合いがある車屋の専務さんに任せている。

トラックに乗っていた時は、近所の駐車場までの移動手段に過ぎなかったから、1日につき往復2㌔ぐらいしか走行しない日が約5年間続いた。建設現場の仕事をするようになって、走行距離は飛躍的に伸び、4年弱で7万㌔走った。荷台にはラックを組んで、様々な工具を収納してあった。バックミラーは使えなかった。

*パリ・ダカール・ラリーで優勝を重ねた

初代パジェロは高校の頃デビューして、親友の亡きお父上が好きで乗っていた。その頃は免許もないから特に車に興味もなく、大きいってイメージだけだったかな。

会社に入社して大垣で暮らし始めた頃だった。パリダカのレースで2代目パジェロが優勝しまくっていた。篠塚健次郎を中心にした常勝チームは、最強に思えた。土地柄もあったのか、大垣の寮の駐車場は四駆だらけだった。パジェロを筆頭にランクルハイラックスが並んでいた。パリダカの影響でパジェロが多かった。

だが今でこそ、長きにわたるパジェロファンでありながら、他にお金を使うことも多かった自分は、3ドアハッチバック四駆三菱ミラージュで我慢していた。でも、気に入っていたけどね。真っ赤なボディにADVANの真っ赤なホイール、ハンドルはモモステアリング、自分としては最高のチョイスだったかな。

*市販車 エボリューションという名で

それにしてもだ、パジェロの人気はすごかったね。パリダカに出場する車体はは3ドアだったけど、市販車は5ドアも生産され、女性にもパジェロをのコンセプトでパジェロミニが生まれた。スズキのジムニーの対抗馬としてのイメージもあったけれど、とにかくレースで強すぎて、エボリューションなる車も生まれた。

このエボリューションには憧れた。三菱ジープと同じくらい憧れた車だった。ハイオク仕様でリッター5㌔も走らないはずだったから、まさに燃費最悪の市販車。それでもだ、このフロントマスクが最高だった。現在の車にはまず見られない個性があふれていて、欲しい買いたい!を思わせてくれる代表格の車だった。

*1998年製の愛車もその系譜を継ぐ

実は大垣から佐倉に赴任した頃は、日産テラノという車に乗っていた。トヨタのハイラックスの対抗馬みたいな感じだったけれど、ダットサントラックの流れを組んでいたので、男らしさ丸出しのような車だった。内装はすべて木目調だった。でも、佐倉では四駆が宝の持ち腐れになり、維持費に泣いて手放したんだ。

このよく売れたパジェロも、21世紀に入ってからオンロード的なイメージが強くなり、売れ行きが悪くなった。とうとう最近、日本での販売を終えることになったらしい。栄光の日々は、すでに遠い昔のことになった。トヨタはランクルを売り続けるが、三菱の四駆は時代に乗れず、パジェロミニも生産が終わっている。

*ミニカーまで魅力があふれている

こうなると、新車で買える三菱のパジェロは、すでにミニカーだけなのかもしれない。トミカのミニカーの出来がまたいい。栄光の日々を思い出させてくれるんだ。

現在の日本車から個性が失われて久しい。せめて、愛車のパジェロミニぐらいは大切に乗って、その命を全うさせてあげたいと思っている。車が個性をもっていた時代が、本当に懐かしい。

カテゴリー
人生経験 俺の考え 写真

馬を見ていたら、見つめ返された。

久しぶりに通った道沿いに、気になっていた牧場がある。千葉県富里市にある若草牧場さん。5年ぐらい前に、毎日横を通って通勤していたが、なかなか馬に会うことができなかった。今日は幸運だった。海からの帰り際、坂を上ったあたりで、馬の白いお尻が目に入った。やっとご対面、カメラを手にして柵のわきへ。

*食事の途中で 顔を上げてくれた

自分は競馬をしないけど、大垣にいた頃、馬が好きでたまらないっていう後輩がいた。好きだから競馬をするみたいな感じに思えたけれど、競馬自体が好きなわけじゃなかった。馬そのものが好きだったみたいで、長い休みの時、北海道まで馬に会いに行ったりしていた。その気持ちが、あまりよくはわからなかった。

学生の頃、オグリキャップという名馬がいて、それはそれは競馬の世界を盛り上げていた。競馬をやらずとも、誰もがその名を知っていたぐらいだ。引退した後は、北海道にいたと聞いていたから、彼は会いに行ったのかもしれない。あの頃はオグリのぬいぐるみも流行っていて、窓越しに飾ってある車をよく見たものだ。

*ちょうど 調教中の馬がいた

でも今日、青空の下で馬を見ていたら、今さらだけど彼の気持ちがわかるような気がしたんだよね。望遠で馬たちの顔を拝んでいただけなんだけど、馬の顔っていうのは本当に優しい。人の顔に例えれば、細面ってことになるのかな。真正面から見ていると目も隠れているようだけど、実はよくこちらを見てる。

を食べているところを、望遠を使って顔を上げる瞬間を狙って待っている。チラ見されるんだけど、食べることに夢中の時はチラ見するだけで又食べ続ける。よくあれだけ食べるなって思うけど、あの体なら必要な量なんだろうな。足の細さのわりには体が大きく感じるものね。ムシャムシャがよく似合っていたよ。

*この馬は じっとこちらを見ていた

この茶色のお馬さん、望遠で見ていたら、途中からずっとこちらを見ていたんだ。本当だよ、目をそらさなかったもの。初対面の自分が気になっていたのかもしれないけど、望遠だから見えていただけ。あの体のわりには小さく見える目で、よく自分のことがわかるなって思うと、愛おしくもなってくる。

馬に乗る人たちが、顔を撫でているシーンってけっこうあるでしょう、映画なんかでもね。馬って古来から人に身近な動物なんだろうけど、お互いに信頼関係をもてるようになれるって、憧れも感じるな。人よりも馬を愛してしまう人だっているのかもしれない。馬の目を見ていると、その気持ちがわかる気もするね。

*2頭同時に見られると 恥ずかしくもなる

帰りにいつもの肉屋さんに寄り、コロッケを買った。このお店の売りの商品に、実は馬肉がある。食べたことはないけれど、美味しいって話だ。

どんなことでもそうなんだろうけど、こういう時って複雑な気持ちになるよね。飲み屋さんで馬肉を注文することもあるし、馬だけが牛や豚よりも特別な生き物ではないんだけど、ああいう目を見てしまうと、複雑な気持ちにもなるよ。

人間は実際のところ、勝手な生き物なのかもしれないね。

カテゴリー
人生経験 俺の考え 日常生活 読書 趣味

松下幸之助から、今も学びきれていない。

自分は、松下幸之助という大人物から、直接学んだわけではない。関係する会社で働いたわけでもない。よくあるように、巷にあふれている氏にかかわる書籍を多く読んで学んだだけ。

正直に話せば、手元に残る氏の書籍は「道をひらく」「続・道をひらく」の2冊だけ。残りは昨年の引越の際、すべて処分した。

*この2冊は 絶対に手放せない

読める時にかなり読んだつもりだが、結局この2冊に収まった。いや収まったというよりも、特にこの2冊が大切だと思えた。

何度も話しているが、とにかく読みやすい。読みやすいからスッと頭に入る。でも実践することは難しい。氏だから書けた文章であり、それゆえに尊くもある。

この2冊では、間接的な言い回ししかしていないが、氏が考える上に立つ者の姿とは、大きく分けて3つある。

すなわち、①「才将」②「賢将」③「徳将」の3つだ。

①「才将」とは、他者がこの人には適わないと感じるような人。

②「賢将」とは、戦略や他者の使い方で成功を収めるような人。

③「徳将」とは、人徳によって他者が自然と集まり、持ちあげてもらえるような人。

この3者の内、氏が最もなりたかったものは「徳将」。

自分の人徳を慕って、自分よりも能力を持つ他者が自然と集まる。自分自身が指示を出さなくても、彼等が自ら気づいて考え、判断して行動し、自分を盛り上げて会社を発展させてくれる。
そんな人物が「徳将」と言われる。

*人を引きつけられる魅力がほしい

極論を言えば、人徳をもつことで他者が集まり、彼等はこの人のためならと働き、自分はすわってるだけでいいってことだ。

一般的に考えて、こういう人物はほとんど存在しない。存在しないがゆえに、氏が「経営の神様」と言われるゆえんだ。

でも、どんな仕事をしていようとも、たとえ一人で働いていようとも、目標として目指すのなら「徳将」になるのがいい。

ただ、忘れてはいけないことがある。「徳将」でありたいなら、集まった他者に任せるという気持ちが大切だということ。せっかく集まってもらっても、任せきれないんだったら意味がない。

上に立つ者がやるべきことは、成功しても失敗しても最後の責任をとるということだけ。後は任せる。それが集まってくれた他者への最大限の敬意にもなると思う。俺が俺がの気持ちが残っていたら、せっかく集まってくれた彼等も、失望して離れていく。

*自分の非を先に認めた方が楽になる?

さて、昨今の新型コロナウィルスがまん延している状況の中で、どれほどのリーダー達が他者を使い切れているのだろうか?

下手にを焦ったり人気取りをするよりも、自分にない知識や知恵を持った人物をしっかりと使いこなし、的確な判断を下せるように内面を磨きなおした方がいいように思う、そんな人が多い。

俺がやらねばという気持ちも大切だろうけど、人間はその人自身が思っているほどには案外、期待されていないものだよ。

選ばれた立場に酔いしれるよりも、その立場を有効に使えているのかどうか、今一度、自分自身を見つめ直すことも大切。決断を焦ると、いつまで経ってもウィルスとのいたちごっこになる。

*いくつになっても 失ってはならない学ぶ心

松下幸之助氏の「道をひらく」は昭和40年代に世に出ている。自分が生まれる以前のことだ。時は流れて世の中は進歩したように見えて、人間自体はあまり進歩していないってことだろう。

松下幸之助氏ひとりにさえ、学びきれないことが多すぎるってことだね。

カテゴリー
俺の考え 映画 男はつらいよ 食事

給食の豚肉の生姜煮は、量が少なかった。

昨年の夏に入院していた時の食事、これは豚肉の生姜煮。この生姜煮を食べると、必ず思い出すのが学校給食の生姜煮。イメージが浮かんでくるたび、美味しかったことしか思い出せない。

*給食の豚肉の生姜煮は好きだったな

豚肉にしっかりと味がしみ込んでいて、甘辛い感じで、とにかく白いご飯に色も含めてよく合っていた。ごはんにかけてどんぶりにして食べた時は、定食屋さんのどんぶりにも匹敵する味だった気がする。昨今、給食メニューを食べられる場所があるらしいけど、給食をメニューにしようと考えた人の気持ちがよくわかる。

*男はつらいよ 奮闘編から 給食は楽しい

給食は成長盛りの子供たちの栄養が考えられているから、病院食同様、メニューが幅広くなっている。カレーがでればシチューもでる。肉じゃがでれば麺類もでる。みんな美味しかった記憶しかないが、特に豚肉の生姜煮は美味しかった。当然のことだけど、メニューの中でも人気があった。

だけど、この豚肉の生姜煮、配給のが少なかった。

大きなバケツのような容器に、カレーやシチューなら山盛り入っている。ふたより少し低いぐらいのところまで。だから、お代わりも可能だったよね。1.5回ぐらいお代わりが可能な日もあったかな。成長盛りの小学校や中学校の頃だ、夢中で食べていた。嫌いなものなんて何もない。牛乳のお代わりも嬉しかった。

*このバケツのような容器におかずが

そんな中で、人気者の生姜煮はなぜか量が少なかった。自分が覚えているかぎりでは、同じバケツの中に3分の1しか入っていなかったと思う。ふたを開けてのぞいた時、先に誰かが食べてしまったような気もしていた。

自分が係で盛りつけをする時は気を使い、皿に盛られる側の時は量が気になって仕方なかった。みみっちいような、せこいような子供の考えそうなことだけどね。美味しいとわかっているんだから、たくさん食べたいと思うのが当たり前だろう。

*自分の頃はすでに 一体型のお皿だった

だから肉を床に落としても、拾って食べた。見ていた人もいたかもしれないけど、何も言われなかったし、特に悪いとも思わなかった。美味しいからこそもったいない、これに尽きる。今の時代なら、親に文句を言われるのかな。先生しっかり見ていなかったんですか?それで監督がつとまるんですか?みたいな感じでさ。

長い独身生活、退院してからは簡単な料理ぐらいはとも思っていたけれど、料理だけは手つかず。病院の食事も懐かしいが、今こそ給食の味よもう一度ってところかな。ちなみに、豚肉の生姜煮の量が少なかったのは、一日あたりの予算の都合上からだったと思っている。

いつか思い出になる給食、噛みしめて食べた方がいいよ。

カテゴリー
アニメ 俺の考え 日常生活 趣味

攻殻機動隊の世界は、そこまで来ている。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」

逮捕した犯人を前にして、中枢神経以外全身義体の少佐・草薙素子が言う。義体とは、すなわちサイボーグ士郎正宗を原作者とする漫画あるいはアニメ「攻殻機動隊」の中で使われる。

*攻殻機動隊の少佐 全身義体で頭は人間

攻殻機動隊の原作は1990年代の初頭に書かれているが、現在からみれば、そう遠い時代のことでもないだろう。

義肢人工臓器組織生体工学の技術がロボティクスと結びついて発展し、やがて脳や中枢神経を除くすべての器官が機械化される時代。詳しくは調べてみて欲しい。

下の動画を見てどう思うだろうか?現在でもここまで技術は進歩している。まだまだ動きは遅いが、Amazonの倉庫の中では人間型ではないにせよ、ロボットと人間が一緒に働いている。進歩のペースは過去とは比較にならない。

一緒に働くだけの存在が今の時代のロボット。

だが、この攻殻機動隊の世界のように、脳がナマの人間のものと変わらなくなれば、人格をもつことにもなる。たとえ全身が義体化されていたとしても人間、口から出る言葉は説得力をもつ。いや、説得力がどうのこうのなんて会話は無駄なんだ。そこにはロボットとの境は存在しないんだから。

脳がナマのものでも、情報量は半端じゃない。並列化によって、時間をかけて蓄積されてきた個人ごとの情報が、瞬時に共有されることになる。個人では学ぶ必要もないってことだろうか。知識や知恵が塊になって、右から左へと人の中を移動し続ける。

https://youtu.be/7sUhcue_4fo
*ターミネーターの世界だって 決して遠くはない

冒頭の少佐の言葉も、誰かひとりから聞くと説得力を感じる。これを多くの義体化した人間が同時に口にしたら、自分だけが馬鹿にも思えて来るんだろうか?

人の数が減れば、働き手も減っていく。一緒に仕事をする相手をロボットに頼らず人にだけ限っていけば、いずれ社会は疲弊し衰退していくかもしれない。使う側使われる側にわけて考えるのではなく、いかに共存していくか、真剣に考え始めてもいい。

ただ、そのためにも人は、人間らしく生きることを忘れてはいけないと思う。全身義体でもロボットそのものでも、共存していくためには、人間らしさが基本になるはずだから。

カテゴリー
人生経験 俺の考え 健康 日常生活 映画 趣味

ロッキーが、人生を変えてくれた 2

見た目を変えた胸筋に、さらに発破をかけたかった。

ロッキーに憑りつかれた自分だが、本来ならその気持ちを受験勉強にもっていくべきところ。ただでさえ成績が悪いのに、見栄ばかりはって偏差値の高い大学を選択するアホまるだしの生徒。先生もあきれていたが、いまさら遅いからなんて気持ちが先行していたんだろう。ロッキーをにして逃げていたのかもしれない。

*国旗をまとう姿は 米ソ冷戦の時代も映す

1984年に公開されていた「ロッキーⅣ 炎の友情」がさらに拍車をかける。宿敵でありながらも最高の友人になった、前チャンピオンのアポロ・クリードの死に涙。復讐を兼ねたロッキーのファイトは、さらに根性を与えてくれたが、偏差値は下がる。親不孝者とはこういうことを言う。若い方は反面教師にしてほしい。

受験勉強にではなく、すべてのエネルギーが腕立て伏せのために使われた。高3の秋なんだからね、現役の受験生は、脳みそに刺激を与え続けるべきなのに、自分ときたら腕と胸の筋肉だけに刺激を与え続けていたんだ。筋肉はUPし受験のための知識は下降する。見事な反比例。自分の不器用なところかもしれない。

*ベトナム帰還兵の悲しみが伝わって来た

ロッキーに続いて「ランボー」にも手を出す。ロッキーシリーズと並ぶ、スタローンの出世作にして代表作のひとつ。舞台はベトナムの戦場を起点にしたある帰還兵の話。詳しくは別の機会に話すが、このランボーにもやられた。鍛え抜かれた体で、特殊な弓矢とナイフ1本でモンスターのように戦う姿は、神そのもの。

ロッキーとランボーがダブルで自分を刺激し続ける。頭の中は偉大なるアメリカン・ドリームの成功者シルベスター・スタローンのことだけ。受験勉強が、スタローンとロッキーとランボーと筋肉の論文を書くことだったら、偏差値の高い大学も受かったかもしれない。人生が変わるというのは、まさにこういうこと。

*精肉工場の肉がサンドバック替わり

冬が明け、受験の戦いに自分の体はリングに落ちた。ロッキーと違って最後までリングに立てるはずもない。あきらめを先行させたまま戦おうとしていたんだから、落ちるのが当たり前。親不孝者としてのチャンピオンベルトは獲得したが、見事に浪人生活へ突入していくことになる。

高3の時に手に入れた人生転換への道。翌年も負けが多かったにもかかわらず、リングに立ち続けて大学に合格できた。そのエネルギーのもとはロッキーでありスタローンであり、そして唯一好きになれた世界史だけだったのかもしれない。

*突き上げられた腕 この角度こそ勝利の角度

人生の変わり目というのは、求めて得られるものではない。

ただ、今の自分が小さく見えて嫌いであったとしても、地道に前向きに生きていれば、必ず何かが起こる。必ず自分を変えてくれる何かが向こうからやってくる。だから、今の自分にあきらめずに、好きなことがあれば夢中になった方がいい。

自分は成功者ではない。

でも、ロッキーにスタローンに夢中になれたことで、思いもよらなかった自分を創ることができた。何度も足踏みはしているけれど、その気持ちは今でも変わらない。生きようとするかぎり、ロッキーは自分の前を走りつづける。

カテゴリー
人生経験 俺の考え 健康 日常生活 映画

ロッキーが、人生を変えてくれた 1

高校時代、超がつくほどの落ちこぼれだった自分を変えたのはこの人、ロッキー・バルボアだ。

*古い本を探しあてると すごく嬉しい

映画の中から飛び出した架空の人物だが、自分の中ではリアルな兄貴分だと思っている。もちろん一番すごいのは、この架空の人物を世の中に送り出した、シルベスター・スタローンという人物だ。ただ、本人と同じくらいその名は一人歩きしていて、スタローン自身でもある。どちらを追いかけても同じこと。

何度か話している通り、本当に成績が悪かった。理数は特に苦手だったから文系に偏ったけど、英語も国語も成績が良かったわけじゃない。なんで入学できたのか、今でも不思議なくらいだ。

両親は海外にいて高2から下宿暮らしをしていたから、ますます羽を伸ばしていた。テレビを見過ぎて視力もガタ落ち、外見が真面目そうなだけの何の取り柄もない高校生。

そんな頃だ、高3の夏休みの直前、ロッキー憑りつかれた

https://youtu.be/QWzisvDtA-k
*ロッキーⅠ~Ⅲ このトレーニングに憧れた

正直言って、何もかもが衝撃的だった。

親がテレビを見過ぎることに厳しかったから、テレビで映画を見ることもあまりなかった。中学の時はオフコースに目覚めて音楽の方に夢中、テレビもアニメの方が好きだった。

だから高2で一人暮らしが始まって、勉強そっちのけで映画を見まくっていたわけ。木金土日の映画タイム深夜映画。「猿の惑星」に衝撃を受けたのもこの頃。

そんな時に、偶然ロッキーにぶち当たったわけ。小学校の頃には映画が上映されていたから、7年遅れぐらいだったのかな。小学校の鼓笛隊でロッキーのテーマを演奏していながら、映画を知らなかったってことになる。今思えば笑い話にもなる。

*フィラデルフィアのこのシーン その気になった

その日から、さらに勉強そっちのけになった。親がそばにいたらあり得ない姿だったろう。ダンベルなんか買うお金はない。漫画雑誌にスタローンが宣伝する、筋トレマシンの写真が載ってた。それを見るだけで満足して、映画で一番印象深かった腕立て伏せだけをやることにした。

学校に行く以外は、ひたすら腕立て伏せ。夏休みもそう。予備校に通いながら予習復習もせず、毎日腕立て伏せ。1セット100回を朝昼晩2セットずつ。途中から、片腕でもやるようになった。録画してあったロッキーを見直し、さらに励む。腕立て伏せだけがトレーニングであり、自分のすべてだと思った。

*ロッキーⅡで とうとうチャンピオンに!

受験勉強をやるはずだった夏休みが明けて、頭の中のロッキーへの思いが、胸筋に乗り移っていた。9月の体育祭の時、Tシャツ越しに盛り上がった自分の胸を目にして、クラスの仲間がはいた言葉がこれ。

それはいったい何なんだ???

2に、つづく🔜

カテゴリー
俺の考え 日常生活 趣味 食事

深夜食堂では、人の肩書はいらない。

ドラマ「深夜食堂」が好きだ。原作よりも先にテレビで見てしまったので、特に原作は読まない。とにかく内容にがあっていいんだ。深夜に開店するというのがいいし、何よりも、人が肩書を必要とされない憩いの場所なんだ。

*祖父がよく ボンボン時計のネジを巻いていた

オープニングの歌「思ひで」とこの映像、ああ今から始まるんだって期待が高まっていく。新宿の歌舞伎町付近の靖国通り、運輸業をしていた頃は昼夜を問わず、本当によく通ったんだよね。毎日通っている人からすれば、大したことではないんだろうけど、毎日ではなかったからこそ感慨深いものもあるんだよ。

*この曲が流れると 店が開店したことを知る

自分の生活は、昼間は動いて夜は眠るのが基本。運輸業をしていた頃は、昼夜の時間のバランスが、かなり崩れていたけどね。まあ、深夜遅くに寝ることがあっても、朝は早い時間から体が勝手に動き出す。夜中の1時過ぎまで起きていても、太陽が昇れば体が反応して起きてしまうって感じだ。

*メニュー以外でも できるものは何でも注文可

この食堂は、深夜12時に開店してから朝の7時くらいまで営業している。深夜に仕事をしている人だけが常連かと思いきや、昼間に仕事をしている人も集まってくる。ここに来る人達は皆、何か心が温まるものを求めてくるんだろうね。喜怒哀楽があふれているんだ。小林薫が演じるマスターの生き方に憧れも抱く。

このお店に行く時は、肩書を捨てていく方がいい。入ってしまえばみな同じ、ただの飲み友達、そして友人名刺は必要ない。お酒は3本までと決まっている。メニューはお酒と豚汁定食だけ。できるものなら注文すれば何でも作ってくれる。

*小林薫が本物の店主に思えてくる

ドラマだから、漫画だからってわけじゃない。今となっては、人が集まって語り合うには理想的なお店だと思う。昭和や平成の初め頃なら、この手のお店もけっこう残っていたんだけどね。

今だってあるかもしれないけど、かなり数が減ったような気もするよ。この旧城下町佐倉だって、赤ちょうちん個人店はほとんど見られない。あるのはチェーン店ばかりだ。今のコロナ下の状況では、シャッターを下ろしたままの店も多くなった。

*この豚汁が 意味深いものに思える

こういう心が温まりそうな場所に集まって、飲みながら語り合って同じ鍋の中で一緒に煮込まれてしまえば、肩書なんて見えなくなるんだ。そこにいる人達は皆、胸の内を語り吐き出し、そして自分自身をさらけ出す同じ具にすぎないんだよ。

社会で生きる上で、肩書は必要だろう。

でも肩書にとらわれ過ぎると、狭い世界に生きることにもなる。必要以上に自分をしばるよりも、自分をさらけ出す時間をもつことは大切だと思う。

自分をさらけ出せる場所としての深夜食堂、これからも欠かすことなく通い続けるつもりだ。

カテゴリー
俺の考え 映画 趣味 食事

忘却のサチコを見て、食べる幸せを感じる。

誰でも自分にとっての定番というものがあると思う。特に映画ドラマについて言えば、自分にとってはこれら。食べる時の幸せを感じられる内容のもの。

*高畑充希は とにかく演技の表情が豊かだ

映画なら「男はつらいよ」。ドラマなら「深夜食堂」と「孤独のグルメ」。そして、最近では「忘却のサチコ」が加わっている。

ちなみに「男はつらいよ」については、自分が求める人としてあるべき姿の方に主題があるけれど、食べることに関しても、とても大切なことを教えてくれる。食事となると、必ず見たくなる。

*こんな色をしたサバの味噌煮がでてくればね

さて、「忘却のサチコ」の主演女優、高畑充希さん、とにかく表現が豊かすぎる。ご飯を食べる時の表情がなんと言ってもうまい!「孤独のグルメ」の松重豊さんも本当にうまいとは思うんだけど、高畑さんの表情はまた違ったうまさがあるんだよね。

*食べた瞬間の 昇天したような表情がうまい

もちろんカメラワークだってうまいし、女性だから可愛く見えるってことも否定はしない。

でも、うまそうに食べるという点で、食べている瞬間を見ていると一緒に食べたくなってくるんだな。劇中で繰り返される幸せ~って言葉、それはこっちのセリフだよ、こう言いたくなってくる。食べることが、本当に楽しいんだってことを教えられる。

*こういったシーンに 特にうまさを感じる

食べることに限らないかもしれない。高畑さんはコミカルな演技もうまい。多部未華子さんの演技なんかも好きなんだけど、似たものがあるのかな。隙がない性格のヒロインだからこそ、そのコミカルな感じとその表現の豊かさに楽しさが爆発する。

*作家先生の思わぬ趣味を前にしても

作家先生に叱られた後、その先生の思わぬ趣味を前にした時の姿と表情。自分もこんな気持ちになるんじゃないかって、確信にもなりそうな演技のうまさ。その後の本人の姿は、脚本を褒めるべきところなのに、脚本も演技力しだいだと思えるんだよね。

*挙句の果てに 主人公みずからこの姿

高畑さんの表現の豊かさに圧倒されながら、食べる幸せを思い出させてもらえる「忘却のサチコ」。何度でも見てしまう。

カテゴリー
人生経験 俺の考え 日常生活 読書 趣味

文章を書くのは、体力勝負の世界だった。

文章を書くのは、本当に体力勝負の世界だと思う。

自分みたいな素人が、偉そうに言うことではないけれど、肉体労働をやっているからとか、スポーツをやっているからとか、何もを張ってやることだけが体力を必要とするわけじゃない。

*池波先生は どういう体力をしていたんだろう?

現実に、どんな仕事をしていたっておなかは減るよね。自分は、朝ご飯をしっかりと食べるタイプだけど、ずっとPCに向かっているだけで、お昼頃にはおなかがグーグー鳴っている。

ましてや近頃は、おなかが減り過ぎて困ることも多い。

基本的にお酒はやめて、たんぱく質を多く摂れる食生活にしているんだ。大豆、豆腐、納豆、豆乳、牛乳、卵などを中心にね。夜ご飯が終われば、またPCに向かうわけ。

*血圧対策のためにも 食材を考えているつもり

すると深夜0時頃にはおなかが鳴り始める。の摂り方が足りないのか、嚙み方がたりないのか。とにかく、寝るためにもかなりエネルギーを必要とするというのに、頭で考えては指先を動かす作業を繰り返すだけで、体力を消耗している感じだ。

結局のところ、をかかずともエネルギーは消費される。エネルギーが消費されるってことは、体力を消耗しているってことだ。

*豆乳なしの晩酌はありえなくなった

4月末までに、100本の記事を書くという目標を立てた。

1日3本書くことを基本にすると、今の自分のレベルではトータルで7~8時間はかかる。文章を書いては修正、写真を選んでは添付をする。写真が足りなければ撮り足しをする。

こんなことを繰り返しているだけで時間は過ぎる。深夜に1本書いて翌日2本書くペース。現場で働いていた頃よりも、時間に追われている感じだ。作家気取りの酔いどれドン・キホーテだ。

*料理をしない自分には天国だった病院食

記事を公開したからと言って、そこで終わりじゃない。ツイッターの文章と違って、後から修正が効く。そこで公開した後に読み直しては、目についたところを手直しをしている。公開してから可能な限り1~2時間以内にやっている。

公開した時に納得できる内容であって、誤字脱字は無いのが一番の理想だけど、そこはまだまだ未熟。だから気づいた時に、直すように心がけている。初心者マークをつけている以上は、手を抜いてはいけないところだ。

*池波先生のエッセイは本当におもしろい

そんなわけで、文章を書くことが体力勝負の世界だとよくわかった。今さらながら、昭和の大作家、池波正太郎先生のすごさを思い知らされる。

ただ初心者の自分にも、これだけは言える。

書くことって、本当に楽しい!