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介護研修日記1、初めは介護の理論から

実は今週の月曜日から、介護職の短期研修を受講している。

最近、NHKで介護の現実を扱っていた。労力のわりには賃金が安いということで、慢性的な人手不足に陥っているのか、有効求人倍率が15倍以上というのは理解しがたい数字。それだけ、大変な仕事だってことだ。その大変さを理解するには、被介護者の家族であるとか、仕事として携わるぐらいしかないのかな。

*テキストは2冊 平均400頁くらいずつかな

2月にデイサービスを見学した。5年前の手術後にも、同じようなことがあった。その時は肩の完治不足で諦めたが、今は状況が違う。完治を目指すがゆえに長い休業を取ってきた。2月にやはり駄目かなと思ったのは、自分の性格と動き方を客観的に見た上でのこと。来月には、限りなく最後に近いMRI検査もある。

ただ、この3ヶ月の間、いろいろと考えることがあったんだ。毎週1回は通院しているわけで、そのたびに若い理学療法士の世話になっている。入院当時からだから、お二人とは去年の7月からのおつき合いになる。いろいろな話を重ねて来た。そのたびに思うのは、若いのに年配者相手によくやっているということ。

*イボイボ健康ポールで毎日 ゴリゴリ

いくら仕事だと言っても、所詮は他人なんだよね。自分自身について言えば、親子であってもぶつかることはいくらでもある。でも、親だから時間が経てばとも思える。それが、他人を相手にした仕事ともなれば、ぶつかっていることなど出来ない。被介護者だって人間、病気や怪我を抱えるがゆえに我儘になりもする。

それを20代の青年達が、祖父母かあるいは親子ほども歳が離れた人を相手に、口と手を同時に動かしながら一日仕事を続ける。手術後にお2人から病院で受けたリハビリは、1日に2回が基本だったから約90回弱。あるかないかのような昼の休憩を挟みながら、自分以外にもたくさん予定を組んであった。大変だよね。

*この機会に目に優しい LEDスタンドに変えた

だから、もう一度自分を見つめ直そうと考えた。介護の仕事をやれるかはわからないが、まずは介護職の理論を知ることから始めてみようと考えた。学んでいる内に、自分の中で何かが変わるかもしれないと。決めれば早い、エージェントを通して、介護職員初任者研修を短期1ヶ月コースで受講することに決めた。

1年間も休業していればさすがに生活費も不安になる、研修を受けるのはもう少し早い方が良かったかもしれない。でも、いろいろと考えて来た上での結果だ。とにかく頑張ろうと思ったら、同じ研修生の方達も皆ものすごく熱心。自宅でやる課題も多いが、再来週に提出する分まで3日目に終了させている方もいた。

*短期なので 通信学習的な課題もある

初日終了後に自分なりの計画を立てていたが、15名のクラスの一人ひとりが熱心だとお互いに声掛けしながら、自分でどんどん先に進めて行こうって気になる。この6日間、テキストを読んだり書きだしたりの毎日。進めていく内に少しでも進みが遅いと、もっと進めないといけない、そんな気持ちで自分に鞭を打つ。

なかなか学び甲斐がある。肩のこともあるから、仮に介護の仕事が出来なくても、役に立つ内容ばかり。自分の中で何となくで終わらせていた知識が、しっかりと理論づけられていく。日常生活に結びついていく内容でリアルだから、なおさらなのかもしれない。B5サイズの分厚いテキストを、読書している気分の毎日。

*近所の田んぼの田植えも終わった

15名中、男性は4人、60歳を超えた方もいる。資格を利用して何かをやるとか。中国籍の方もいる、会話は片言の日本語だがしっかりと話を聴いておられて、わからないところを周りの人が教えてあげてる。介護を学びながら、すでに共助の心が表れている。自分も聞きたいことや話したいことに、積極的に口を開く。

順調に進んで行けば、6月24日までの予定で研修が進んで行く。来週に控えているMRI検査と主治医の診断。その結果次第で進める方向を決めるけど、生活が追いかけてくるから悠長なことは言ってられない。ただ10年20年先のことを考えると、介護に関連づいた仕事が出来ればと思う。そのためにも学ばなくては。

*研修3日目の帰り 近所の住宅街から夕陽を

毎日流れるニュースの中で、介護や医療やコロナという言葉が聞こえてくると条件反射するようになった。まず一週間目、自分の中に、かなり介護についての刷り込みができた気がしている。フォロワーさんがつぶやく『ADL』の意味も理解できた。何ごとも勉強だと思う。しばらく、介護研修日記を書いてみよう。

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スッキリしたくて、今の自分をふりかえる。

休業が明ける前に、自分自身をふり返っておこう、そういう気持ちでブログも始めた。社会に出てから自分は何を身につけたんだろうか、何をやってきたんだろうか。スッキリしたくて、今の自分をふりかえってみた。

時間が経てばそれ相応に経験も積み、役に立つ知識も身につき仕事もはかどるようになってくる。ただ、時間の流れが早い毎日の中では、その大切な知識を、惰性で流してしまっていることも多いからね。ましてや自分の今の状況では、知識を生かそうにも生かしきれていない毎日、なんとも悔しい思いを感じている。

新しい知識知恵を手に入れた時は、本当に嬉しいものなんだよね。これを生かせばきっと上手くいくだろう、もっと上手くいくだろうって考えて、繰り返し試してみたりする。何度試しても上手くいかなければ、新しいやり方を模索しながら次のチャレンジをしてみる。上手くいかない時は、かえって一生懸命考える。

*前の手術後に購入して今 役に立つ

20代や30代の時は特に怖いもの知らずだ。金があろうがなかろうが、金になろうがなるまいが、とにかくやってみようって気持ちだけが先行して、先へ先へと自分が引っ張られる。深く考える必要はない、なんとかなるだろうなんて楽天的な気持ちもあるんだ。若ければ若いほど、その気持ちを信じられたりもする。

40代に入った頃は、まだガツガツ的な気持ちもあった。それは以前にも話をした。返す必要のあるお金が存在して、返すためには休んでなどはいられなかった。ああでもないこうでもないと考えては実践する毎日。人生初の手術をすると決めた時、おかしな話だけど喜んだりもした、とりあえず休めるんだって。

でも、その右肩の手術をして、長かった病院生活の後でも今回ほどは休まなかった。いや、休んでなどいられなかった。借金の額は大したことなかったけれど、働く必要はあった。今回と同じ手術をしても断裂が浅めだったので、リハビリを続けながら、退院して3ヶ月後には働いていた。仕事自体は事務職にしたけどね。

*まだ5㎏のダンベルしか使えない

それが今回の右肩の手術の後は、長い休業を続けることになっている。確かに肩はまだ痛い。ズキズキってわけではないが、朝起きて布団を整えるために腕を伸ばすだけで、ストレッチがうまくできないから悔しい。毎朝「うっ…」の繰り返しが続いて、まだなのかと思う。こんなに気を遣いながら過ごして来たのに。

でも、こんな風に思うこと自体が、もうすでに自分を甘やかし始めているのかも。別に裕福に暮らしているわけではないけれど、休業していても生活は出来ている。今は返すべきお金もないからアクセクする必要はない。退院後に言われたように、この歳の内にしっかりと治しておけば、後々楽だというのは確かなことだ。

それでも、やはり不安は生まれて来る。気持ちがやる気満々であっても、体がついてくるかって。ウォーキングをしたり室内でのエクササイズをしたり、自主的なリハビリだって欠かさずこなしている。ただ、今まで自分がどんな風に体を動かしていたかを知っているから、同じようには行かないってことがよくわかる。

*瞳の住人の練習は 気合が入った

だから考えた。充電期間として考えて、いくつか目標を作って過ごして行こうって。それが昨年の秋の「瞳の住人」を歌いこんで完成させるってことと、ブログ記事を100本を一気に書いてみるってことになった。とりあえず満足できたし、未経験だった世界にも踏み込めた。きっかけをくれた人には深く感謝している。

休業期間を終える前に、まだやることがある。仕事も自分にとって新しいと思えることをやりたい。その先には一つの目標もできた。攻殻機動隊の世界も夢見て、もっとITを駆使した仕事や生活の仕方を考え、上手に組み込んで行きたい。SNSやブログのない世界も、考えられない。ネットももっと活用していける。

半世紀は生きてきたけれど、自分なりに頑張っては来たけれど、今の自分を一言で言い表せば、まだまだだって分かった。そう、結局まだまだなんだよね。今までを振りかえることが出来たのは良かったし、知識も知恵もたくさんあることはよくわかった。でも、まともに完成させていることが、まだ何もないようだ。

*長く点が上がらなかったことは初めて

今の自分は、雑用品を凝縮させたみたいなものだ。雑用品は大切だけど、自己満足に浸っている時間はないようだ。知識や知恵を生かすにしても、もっと成長させなければいけないし、そのためには経験も不足している。過去に囚われているようでは駄目。両肩が手術済みで心配なら、新しい道を考えて行かなくては。

と、まあ、ざっくばらんに考えて吐き出してみたら、スッキリした。明日からまた、新しい世界に思いをめぐらせて行こう。考えているかぎり大丈夫、まだまだ何かをやれるはずだ。

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限度額適用認定証、再申請時に受けた恩。

入院前に用意しておく必要があるのが、限度額適用認定証

高額療養費制度というもので、手術や入院をした患者が、所得に応じて支払うべき費用を定めたもの。例えば、70歳未満で基礎控除後の所得が210万円以下であれば自己負担額は57,600円までになり、100万円の請求がきたとしても支払いは57,600円になる。そのために病院に掲示するのが、限度額適用認定証だ。

*入院前に 市役所等で必ず申請をする

でも、限度額の対象はあくまでも医療費。食事代の標準負担額や差額ベッド代、病衣代やテレビ代なでゃ対象外になる。それは当然だよね。保険代を支払っている人が対象になると言っても、差額分は国がもつわけで、そこまで支払っていたら財政は圧迫されてしまう。医療費だけでも十分にありがたいと思うよ。

5年前の手術の時もこの制度を使っているから、今回も入院前に申請して準備しておいた。7月6日から入院して、8日に手術を終えて8月22日まで入院生活を送った。手術した7月の医療費の請求額だけで120万円以上。独身としてはかなり厚く保険を掛けているが、限度額があることで負担額は相当下がることになる。

*所得ごとに 決められている限度額

前回の手術時にも感じたが、入院生活を送るとこの制度のありがたさが身に染みる。多少の蓄え保険さえあれば、特に問題なく入院生活を送ることができる。今回の手術は、右肩が左肩に変わっただけだから、過去のファイルから請求額などは事前に計算してあったし、病室には電卓をおいて費用の計算を怠らなかった。

この限度額適用認定証、有効期限が1年間だ。保険証は7月に更新されるから、それに合わせるように更新しなくてはならない。前回のように入院するのが正月明けとかなら、更新時期に重ならないので特に問題はない。今回は7月に入院して8月末頃に退院する予定でいたから、月をまたぐので更新の申請が必要になる。

身内が近くにいれば問題ないが、横浜に住む高齢の両親に頼むわけにはいかない。手術後で固定装具をつけている自分が、市役所まで外出もできない。6月の申請時に、その時の担当者に更新時の手続きの仕方を相談してみたんだ。その方の対応の仕方が的確で大変に親切なものだった。

*愛用する Canonの電卓きょうだい

手術したのは7月8日。今回は左肩だったので、申請のためにペンをとる利き腕は通常通り動く。さらに、入院前に申請書の記入も大方終わっていたから、9日には申請書を市役所に向けて郵送した。6月の申請時に、その担当者の宛名入りの封筒も頂いてあった。ヘルパーさんにポストへの投函をお願いした。

驚いたのは、14日には新しい認定証が手元に届いたということだ。1週間もかからなかった。しかも郵送で届いたわけじゃない。担当者が自ら病院まで持参して下さった。自宅には誰もいないということを6月に話してあって、それを覚えていて下さったわけだ。手術したばかりだったから、なおさら嬉しかったよ。

嬉しいと喜んでいるだけでは、人の道にはずれる。すぐに市役所に電話して、その担当者を呼んで頂いたが、あいにく外出中だった。保険証更新などの忙しい時期でもあったから、電話で言付けをお願いした。その電話口の方も丁寧な方だった。わざわざご丁寧にありがとうございます、ごく普通の言葉でも嬉しかったね。

*7月の保険証更新時に 再申請の必要がある

正直に話すと、20年前の市役所のイメージは非常に悪かった。窓口はいつも暗いイメージがあったし、職員の対応も上から目線で、お役所仕事の王道を行っていた。ここ数年の間に、イメージはかなり変わっていたが、今回の件は格別だった。入院する者に対する細かい気配りが、実に見事だったと思う。

小さく些細なことだと思うかもしれない。

だが人は案外、派手なことよりも、小さく些細なことの方を覚えているもの。派手なことは誰の目にもつくけれど、小さく些細なことは後になって心によみがえってくる。派手なことには心もときめくが、地味なことは時間をかけて人の心を支配する。

ご担当者のご厚意もあり、退院まで無事に過ごすことができた。

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病院の食事は、とても美味しかった!

病院の食事は、美味しかった!独身で料理をしないから、よけいこう思うのかもしれない。でも実際のところ、昨年の入院時も前回の時も、病院の食事は美味しかった。ひとつだけ、あれ?って思うことを挙げるとすれば、4年の間に、1食あたり200円値段が上がったということ。事情があるんだろうけどね。

*大学芋は甘さも控えめで美味しかった

入院当初、自分の食事はが少なかった。今回は新型コロナウィルスへの感染対策がついてまわっていたから、リハビリもリハビリ室でやらずに階ごとに行い、前回と比べればを流さないような内容。そのためか、お腹が減るって感覚があまりなかったが、患者は食べるのも仕事。少なさを感じたりもしていた。

*食事のたびに出る メニューと栄養表

原因は、入院した日に記録された体重の数値。自分は自宅でも、毎日体重を測るから、記録された数値を栄養士さんに見せられた時びっくりした。入院前日の体重よりも、10㎏多く記録されていたんだから。必然的に食事の量は減らされる。体重を減らすためのメニューになっていた。おなかがすくのは当然のこと。

*自宅では具が無くても気にしない冷やし中華

すぐに記録を修正してもらい、1日あたりのカロリー設定を上げてもらった。病院食の最大カロリーの2600kcalまでね。汗をかかないとなると、これは摂り過ぎだったかもしれない。でも、汗をかかずとも部屋で文章を考えたり読書をして頭を使うようになると、やはりおなかも減りだした。しっかりと食べたよ。

*回数は多めで 量も多かったのがカレー

何よりも美味しかったからね。カレーなんか見た目はお子様ランチのようにも思えるでしょ。実際はお皿も大きくて、ボリュームがあるんだよね。入院が長くなると、何回かメニューになっていたけど、そのたびに写真を撮っていたね。形が同じになるってことはないから、撮ることも楽しかったな。

*シンプルに見えても 実際は豪華

チキン南蛮は、外の料理屋さんに行けば、もっとタレも多いのかな。肉も油がもっと多くてテカった感じがあって、見た目からしてジューシーでね。そこは病院食。油も控えめで、タレも少なめだけど、そこそこに外食して来た自分には美味しかったな。さっぱりした感じが良かった。カリカリ感もあったのがいい。

*酢豚なんか自宅では まず食べない

酢豚なんて、まず自宅では食べない。中華料理屋さん以外では食べなくなってる。母親の料理なら食べたことがあったかな。この病院の酢豚、ご飯にかけてみたら美味しかったね。酸っぱさだって、外で食べるよりも控えめなのかな。豚の食感がちょうど良くて、やみつきになるような味で好きだったな。

*スクランブルエッグも何年ぶりだったか

よく病院食をまずいと言う人がいる。日常の濃い目の味付けに慣れてしまえば、薄口なんだからそう感じもするだろう。

自分は、子供の頃から好き嫌いを許されなかったし、そのせいではないと思うけど、まずいって感覚がほとんどないかな。出されたものは食べる、自分で作らない人間だからなおさらのことだ。特に病院食なんか、栄養士の方が可能な限り個別に内容を考えて下さっているし、朝早くから作っているのを見ているとね。

*食べやすくて美味しかったサンド

仮に外のお店で食事をして、本当にまずいって思ったら、2度と行かないだけのこと。お金を払っている以上、お金を払う価値がないものにをかけるほど世の中も甘くはない。食事に限ったことじゃないけれど、情をかけて商売を長生きさせることほど、本人にとってためにならないことはないよね。

そう考えると、病院の食事はとても美味しかったよ。

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看護師さんの前に立つ!

手術当日の夜が明け、7月9日の朝が来た。

血圧の異常な上昇に悩まされ、寝不足の朝を迎えていた。

だが、5年前と違っていたのは、意識がしっかりしていたってこと。前回は翌朝になっても朦朧としていて、朝食も食べる気がしなかった。今回は違う。点滴をつけている状態なので通常のご飯は出ないが、残さず食べられたのには、自分でも驚きだった。

*手術翌日の晩餐は 食事の量が足りなかった

朝ご飯を食べ終えて、しばらくベッドに横になる。尿道に入っているチューブがモソモソする。T字帯が少しズレている。下半身が何とも気持ち悪い。のんびりと寝ていたいと思わない。起き上がってベッドに腰掛ける。看護師さんがやって来た。

体をふきますよって言った。チューブを取りますねとも。

横にさせられ、看護師の手が布団にもぐってくる。性器をつかまれチューブが瞬時に引き抜かれる。慣れた手つきの神業。抜かれた瞬間に痛みはなかった。プロはやはりプロだ。刺しこむ時も抜く時も、患者が快感を覚えるくらいの早業でなくてはならない。

*手術後 最低4週間は固定具をつけっぱなし

手術した左肩の方には、腕が動かないように外転装具という固定具がつけられている。右腕には点滴用のチューブもついている。当然、ひとりでは着替えもできない。まずはパンツに履き替える必要があるんだが、看護師さんに手伝ってもらうしかない。

ベッドから降りてわきに立つ。来ているものは手術着だから、上から下までつながってる。前をはだけると、T字帯がふんどしのような状態。看護師がためらうことなくT字帯を取ると、下半身がスッポンポンの状態。目はまっすぐと壁だけを見つめる。

まるで、お漏らしをしてパンツを脱がされた少年のよう。でも恥ずかしいなんて言ってられない。足を上げてって言われば、ハイと言って上げるだけ。80歳ぐらいなら達観もしているだろうけど、中途半端な歳だ。胸中は複雑で、変な気持ちだったね。

*スマホ用のキーボード 最近はお休み中

まあ、こんな感じで看護師さんの前に立ち、体を拭いてもらい病衣に着替えた。いよいよ病室に戻る時だ。頭の中ではすでに、どうやってキーボードを打てばいいかを考え始めていた…

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コロナウィルスの影響、入院に向けて。

*2月に行った青山のライブ会場付近

新型コロナウィルスが猛威をふるい始めたのは、昨年の2月頃。いや、その頃はまだ、普通の日常だった気がする。仕事も普通、カラオケも普通。とりあえずマスクだけは必要になった。1月と2月には、東京までライブを見に行っていたぐらいだ。

でも、3月になって状況は一変。マスク購入は店頭での競争になり、その値段は大きくはねあがった。

幸いなことに、以前からたくさん買い置きしてあったので、特に慌てることはなかった。でも、報道されていたマスクの値段を見ていたら、別世界のことのようにも思えた。

問題は仕事の方だ。個人事業主の立場で、ある親方の手伝いをしていた。それは大手メーカーのキッチンの施工業務。現場に戻ってから、ちょうど1年くらい経った頃だったかな。

*第一次建設時代よりも道具を簡素化してる

そのメーカーも、世の中の感染者増大のあおりを受け、3月から2ヶ月弱、県内の全ショールームを閉鎖した。当然、リフォーム予定のお客様が、見積もりをとるための機会を失うわけだ。

見積もりの機会が減るとどうなるか。キッチンは、2ヶ月ぐらいかけて受注生産されるから、当然2ヶ月先の現場の仕事が減ってくる。減れば現場で働く人間に対しての、仕事の依頼も減って来る。ここで、悪循環が始まる。

親方と自分も、そういう状況の中にあった。4月の時点で仕事は減り始め、5月には閑古鳥も鳴き始めた。親方の腕は間違いないけれど、お客様の方から工事の延期を望む声も少なくなかった。

*5月末に見た空

こうなると自分は余剰人員のようなものだ。腕は決して悪くはないと思うが、親方の息子さんもいるわけで、そこには親子の情も出て来る。自分は怪我を抱えているわけだったし、考えたすえ、6月から休業へと踏みきることにした。

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2020年の夏、左肩の手術へ。

*最初に入った病室

昨年の夏、左肩の手術をした。

現場で脚立ごと転落、左肩の腱板を断裂したためだ。

実は、今から5年前にも手術をしている。その時は、手術をするかしないかの選択権を与えられていた。部分的な断裂だったから。

しかし今回は違う、腱板を完全に断裂させてしまった。

事故を起こした瞬間、現場で立ち上がれなかった。脚立に足をからめたまま床に直角にたたきつけられたんだ、動けるわけがない。こんな経験は、初めてだったよ。

仕事を終えてから外科に行き、レントゲン撮影を行った。当日は何も見つからなかったので、痛み止めの薬をもらい、翌日も仕事をしていた。

*5年前の退院の時に 患者仲間の皆さんから

でも、ひと月たっても治らなかった。やはり何かがおかしい。再び外科に行き、MRI検査を行う。

左肩の腱板を、完全に断裂していることが判明。ゴキゴキと骨がすれるわけだ、肩の中でズレが生まれていたんだよ。力の加減が難しくなっていた。

レントゲンっていうのは骨しか写さない。細かいことを知りたければ、MRI検査が必要になる。体が動かないんだったら、初めから検査していたのかもしれないが、結局こんなパターンに陥ることが多い。

痛みの原因がわかった以上、普通なら早めに手術になるはずだが、そうはならないのが2020年という年の事情だった。

コロナ、すなわち新型コロナウィルスの影響が出始めていたんだ。

*5年前の旧病棟からは朝陽も真正面に

5年前と同じ先生が手術を行うから、病院も同じ。その病院でも感染者が出ていた。大病院だし感染への対応は早かった。

それでも、時期をずらした方が良さそうな状況。よくよく考えたすえ、手術の時期に対する先生との考えが一致した。院内の雰囲気が落ち着いてきそうな1ケ月先に決めた。

手術日は7月8日。

2日前の6日、人生で2度目の入院をした。

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集中治療室の中で、目を覚ます。

目が覚めたのは、集中治療室の中。時間はお昼過ぎだったかな。

全身麻酔だったから、体がやけに重く感じた。5年前の時よりも重たく感じたかもしれない。全身麻酔がまだ効いている、久しぶりにだるいって感覚だった。

*手術後にすぐに戻った5年前の病室

後から考えてみたら、5年前には集中治療室に入らなかった。病室に戻って、集中的に看護されながら夜を明かしたはずだ。病院のシステムに、国立時代の流れが残っていたのかな。

腕と尿道にチューブがつながっていた。腕には点滴用のチューブが、尿道には尿、つまりおしっこを出すための、排尿をうながすためのチューブがつながっていた。

点滴については、みなさんおわかりでしょう。栄養を注入するためのものだ。翌日の朝までは、食事を口にすることができない。
手術当日の朝からまる一日、食事を口にしなかったことになる。では尿道につなげられていたチューブ、これはなんのため?

全身麻酔をするからなんだ。全身麻酔は強いからね、手術が終わっても、もうろうとしているしね。だから排尿をうながして、勝手に尿がチューブをつたって流れ出るようにしてある。

でも尿道に、いつつなげられたと思う?おそらく、麻酔が効き始めて目を閉じた後かな。じゃあ誰が?看護師さんだろうね、女性のね。つまり、大切なところを見られているわけだ!

*早くキーボードを打ちたかった夜

まあ、5年前も同じ経験をしているから、今さら驚きはしないけど。ただ今回も思ったことがある。看護師という仕事は、恥ずかしい気持ちがあったら、一人前にはなれないってことだ。

仕事を時間内に、機械的にこなして行かなければ、生命を危うくさせることもある。大げさに話してるんじゃない、本当なんだ。

尿道にチューブを入れるのだって、上手くやらなければ、患者さんが痛がるんだから。性器をつかんで手際よくやらないと、手術も進まないってことさ。

この人の性器が大きいとか小さいとか、普段なら冗談にもなるだろうけどね。その時はただ、つかんで上手に刺しこむだけだ。お蔭様で今回も痛みはなかった。

看護師さん、本当にありがとう。

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集中治療室に響く、警戒アラーム。

集中治療室のベッドの上、尿道にチューブを入れているから、当然身動きはとれない。右腕には点滴のチューブ、ベッドは少し頭を上げた状態にしてある。そのまま、翌日の朝まで寝てるだけ。

*外はこんな夜だったのかな?

5年前も同じような状況だったかな。ただ手術後は、すぐに病室に戻った上での集中治療だった。周りのベッドには一般の患者さん達が寝ていた。今回はまったく違う。

当日は他に5、6人が手術を行っていて、カーテンだけを仕切りにして、右と左に患者さんが寝ていた。昼は寝たり起きたりで時間を過ごしたから、痛みもあって夜はなかなか寝つけない。

2時間おきくらいかな、いやもっと短い周期で起きていたのかもしれない。定期的に、当直の看護師さんがやってくる。水分を口にできるように、右手の横に水筒がおいてあるんだ。

ちなみにこの水筒、患者本人が前もって準備することになっている。今回用意した水筒は、前回でも使用したもの。手を伸ばすだけで飲めるように、ストロー付きのものがいい。手術前後に使うバスタオルも、3枚ほど自前で準備をしてある。

*この水筒は前回からのお気に入り!

そうそう、T字帯っていうふんどしみたいなもの、これが大切なんだよね。尿道にチューブを刺しこむわけだから、パンツだとチューブの邪魔になる。ふんどしタイプならやりやすいわけね。これが寝返りを打てないわりに、案外ずれていってしまうんだ。

こんな感じで、寝たり起きたりをくりかえしながら、当日の夜を過ごしていたわけ。

でも、この夜に一番気をもんだことは、血圧の異常なまでの上がり方だった。最高血圧がマックスで200にまで迫ったりして、警告音がピーピーピーピー耳のそばで鳴り響いていた。

*これは 前日の昼ごはんだったかな

さすがに、これには参った。5年前にはこんなことが無かったはず。首を右にひねると、上がっていく数字を見ることができた。自分でも驚きだったね。手術した左肩よりも、血の方が気になってしかたがなかったよ。

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手術当日、2020年7月8日。

とうとう、手術の日がやって来た。

前日は手術の説明以外は、特に何もすることがなかった。

昼間はツイッターと向き合い、明日手術です、なんてあいさつ代わりにつぶやく。嬉しいことに、励ましのコメントをたくさんいただいた。

この場をお借りして、あらためてお礼を申し上げたい。

本当にありがとうございました。

*手術の時はこんなものも履くのです

手術は9時に始まり、ほぼ3時間で終わる予定だった。前回の時と同じ先生だし、互いの信頼関係はあったと思う。よくわかっていると思うけど、それが先生の口癖だったね。

看護師のうしろについて歩き、手術室に向かう。3階から2階までどう歩いたのか、その時はわからなかったな。経験していたはずの手術なのに、やはり緊張をしていたのかもしれない。

手術をする時には、立会人を求められるんだ。5年前は、両親が高齢で横浜からくることは困難だと考えた。そこで、友人を代理人に立てていた。その友人も前年に引っ越しした後で、今回はお願いできる人がいなかった。

6月に、そのことを先生に相談したんだけれど、必要ないとおっしゃるんだ。前回の経験があるから大丈夫でしょうってことで。要するに、先生には手術への自信があるってことだったんだろうね。まあ、自信がある先生の方が安心感をもてる。

実際のところ、5年前は本当によく話をした。初めての経験だったから、先生には疑問に思うことを徹底的に聞きまくってね。先生は親身になって教えてくださったよ。だから、お互いへの信頼は深いままだったのかもしれない。

4月に、5年ぶりにお会いした時の先生は、「元気でしたか?」。自分は、「あの時の予想通りまた戻ってきました」。こんな感じで、話が始まったくらい。自分の性格や仕事の上から、そうなるだろうなって予期していたんだ。

*手術当日の朝 病室から見えた空

手術室の扉があいた先には、手術にかかわる人たちが両側にズラリ。いよいよ手術が始まる、実感した瞬間だ。手術台に横たわり、麻酔用の注射針が刺しこまれていく。誰かが何かを話していた。瞼が重くなっていく。耳がきこえなくなっていく。

やがて周りが、すっかり見えなくなった…。