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人生経験 入院日記 2020年夏

コロナウィルスの影響、入院に向けて。

*2月に行った青山のライブ会場付近

新型コロナウィルスが猛威をふるい始めたのは、昨年の2月頃。いや、その頃はまだ、普通の日常だった気がする。仕事も普通、カラオケも普通。とりあえずマスクだけは必要になった。1月と2月には、東京までライブを見に行っていたぐらいだ。

でも、3月になって状況は一変。マスク購入は店頭での競争になり、その値段は大きくはねあがった。

幸いなことに、以前からたくさん買い置きしてあったので、特に慌てることはなかった。でも、報道されていたマスクの値段を見ていたら、別世界のことのようにも思えた。

問題は仕事の方だ。個人事業主の立場で、ある親方の手伝いをしていた。それは大手メーカーのキッチンの施工業務。現場に戻ってから、ちょうど1年くらい経った頃だったかな。

*第一次建設時代よりも道具を簡素化してる

そのメーカーも、世の中の感染者増大のあおりを受け、3月から2ヶ月弱、県内の全ショールームを閉鎖した。当然、リフォーム予定のお客様が、見積もりをとるための機会を失うわけだ。

見積もりの機会が減るとどうなるか。キッチンは、2ヶ月ぐらいかけて受注生産されるから、当然2ヶ月先の現場の仕事が減ってくる。減れば現場で働く人間に対しての、仕事の依頼も減って来る。ここで、悪循環が始まる。

親方と自分も、そういう状況の中にあった。4月の時点で仕事は減り始め、5月には閑古鳥も鳴き始めた。親方の腕は間違いないけれど、お客様の方から工事の延期を望む声も少なくなかった。

*5月末に見た空

こうなると自分は余剰人員のようなものだ。腕は決して悪くはないと思うが、親方の息子さんもいるわけで、そこには親子の情も出て来る。自分は怪我を抱えているわけだったし、考えたすえ、6月から休業へと踏みきることにした。

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人生経験 入院日記 2020年夏

2020年の夏、左肩の手術へ。

*最初に入った病室

昨年の夏、左肩の手術をした。

現場で脚立ごと転落、左肩の腱板を断裂したためだ。

実は、今から5年前にも手術をしている。その時は、手術をするかしないかの選択権を与えられていた。部分的な断裂だったから。

しかし今回は違う、腱板を完全に断裂させてしまった。

事故を起こした瞬間、現場で立ち上がれなかった。脚立に足をからめたまま床に直角にたたきつけられたんだ、動けるわけがない。こんな経験は、初めてだったよ。

仕事を終えてから外科に行き、レントゲン撮影を行った。当日は何も見つからなかったので、痛み止めの薬をもらい、翌日も仕事をしていた。

*5年前の退院の時に 患者仲間の皆さんから

でも、ひと月たっても治らなかった。やはり何かがおかしい。再び外科に行き、MRI検査を行う。

左肩の腱板を、完全に断裂していることが判明。ゴキゴキと骨がすれるわけだ、肩の中でズレが生まれていたんだよ。力の加減が難しくなっていた。

レントゲンっていうのは骨しか写さない。細かいことを知りたければ、MRI検査が必要になる。体が動かないんだったら、初めから検査していたのかもしれないが、結局こんなパターンに陥ることが多い。

痛みの原因がわかった以上、普通なら早めに手術になるはずだが、そうはならないのが2020年という年の事情だった。

コロナ、すなわち新型コロナウィルスの影響が出始めていたんだ。

*5年前の旧病棟からは朝陽も真正面に

5年前と同じ先生が手術を行うから、病院も同じ。その病院でも感染者が出ていた。大病院だし感染への対応は早かった。

それでも、時期をずらした方が良さそうな状況。よくよく考えたすえ、手術の時期に対する先生との考えが一致した。院内の雰囲気が落ち着いてきそうな1ケ月先に決めた。

手術日は7月8日。

2日前の6日、人生で2度目の入院をした。

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人生経験 俺の考え 日常生活

借金は、仕事への意欲の原動力。

借金は、仕事への意欲の原動力になると思う。

今の自分には借金がない。長期のローンもない。何かを買った時に支払いをカードで済まし、後払いにすることはある。それでも、すべて翌月払いだから、借金は無いに等しい。

*小倉昌男から学ぶことは多かった

でも、これはここ数年の話だ。それまでは、借金のない生活をしたことがない。自慢するようなことでもないけど。

5年前に手術をした頃には、まだ借金があったな。全額を返済するまで残りわずか、そんな状況だったから、金額的には借金と言えなかったかもしれない。とにかく今は、借金はない。

でも、この数年をふりかえると、働く意欲があってなかったような気もする。いや、言い方が悪いかな。意欲はあるんだけど、なんて言うんだろう、がつがつがつがつとお金に執着して稼いでやるって、そんな気持ちが欠けていたような気がする。

18年前に自分のトラックを買い、自家用車も買い替え、それ以前から続いていた借金も同時に返済していた頃は必死だった。

*松下幸之助氏の道をひらくは今でも愛読書

とにかく返さなければいけない。返済を滞らせるわけには行かない。借りれば返すのは当然。でも計画性よりも、勢いでやっていたから、返済計画はあってないようなもの。ただひたすら、今月はいくら、来月はいくら、一年でいくら、その繰り返しだった。

第1次運輸時代の頃は、規制緩和の流れもあって、規模に関係なく運輸会社の数がかなり多くなっていた。その結果、運賃は下がり仕事は取り合いだった。携帯電話が鳴るのを待っていても駄目、走りながら仕事がありませんか?の電話を繰り返していた。

詳しくは別の機会に話すけれど、あの頃の必死さが今の自分には足りない気がする。それはつまり、借金に追われているという、切羽詰まった状況にないからだ。

*ロッキーの姿をいつも追っていた

借金なんかない方がいいに決まっている。

とはいえ、借金があったことで必死になった。必死な状況の中でも、仕事の質を高めようと努力もした。自分自身の質も高めようと努力した。質が高まれば仕事の依頼は増える。そう思えば頑張れた。ゴミさえも拾い、仕事のためにうまく利用しようとした。

借金は確かに、仕事への意欲の原動力になっていた。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

初めて働いたのは、巨大な運輸会社!

平成5年、西暦にすれば1993年の4月、岐阜県大垣市に本社をおく、西濃運輸株式会社の社員になった。

*西濃運輸のボンネットトラック型チョロQ

大学の就職活動では、ほとんど運輸会社だけを回った。なぜそうしたのか、正直言って明確な答え方ができない。在学中のバイトが、特に1年と2年の時には肉体労働が中心だったから、自然と自分の中でそれを求めていたのかもしれない。

いくつかの運輸会社を回っているうちに、西濃運輸さんだけがスムーズに最終面接まで進んで行った。そのままの流れで、6月には翌年の就職先が決まっていた。その時は素直にうれしかった。

でも恥ずかしい話、本社が大垣にあることを知らなかった。面接がすべて東京の浜町だったから、そこを本社だと思い込んでいたんだ。面接がスムーズに進み過ぎたことに加えて、今思えば、就職活動自体に真剣さが足りなかったのかもしれない。

不真面目だったなんて、そんなことは決してない。まだ深く世間をわかっていない学生だとしても、活動自体の大変さはよくわかっていたよ。日本の世の中はバブル経済がはじけたばかりで、新卒と言えども、就職は大変な時代に入りつつあったんだから。

それでも、スムーズに最終面接が通ってしまったものだから、それ以上は詳しく調べるつもりはなかった。就職活動自体は終了。残り半年は2つの単位のために通学、後はバイトで春を待った。

4月1日の入社式は、大垣で行われた。前日、千葉県八千代市から京成電車に乗り、青春十八きっぷを使ってJRを乗り継ぎながら大垣に向かった。合計で約10時間かかったと思う。

*大垣駅周辺は 今もあまり変わっていない

会社は赴任手当として、交通費の全額を支給してくれるはずだった。そこを、あえて青春十八きっぷを使い、各駅と快速だけで大垣に向かったのはなぜか?

自分の中にあった旅をしたいという気持ちと、会社の負担を減らしたいという気持ちの2つからだったかな。

笑えるよね。まだ、入社式もすませてなかったのに、すでに愛社精神みたいなものをもっていたんだから。でも本人は、いたって真剣だったよ。とにかく無事に大垣について、めでたく入社することができたってわけ。

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人生経験 入院日記 2016年冬

2016年の冬、右肩の手術へ。

*人生初の入院 これが初日の晩餐メニュー

2020年の夏に左肩の手術をしたが、実はその4年半ぐらい前に、右肩の手術をしている。その時は腱板の部分断裂で、手術をするかしないかの選択権を先生からいただいていた。

第2次運輸業の時代、かなり重いパレットを右手だけで投げたことに原因がある。まあ、それだけでもない。それまでの、無理の積み重ねの結果でもあったかな。

仕事のところで話をするが、個人事業主になってからは運輸業と建設業、この2本立てでやってきた。特に第1次運輸時代と第1次建設業の時代、重量物を扱う際にかなり無理をしてきた。

力についてはかなり自信があったから、無理を無理とも思っていなかった。荷物や部材を目の前にすれば、可能な限りひとりで限界に挑戦、限界の存在を認めていなかった。

この時は成田空港の貨物地区で、トラックに輸入貨物を積んでいた。からになったパレットを、荷台の上から地面にむかって投げて落とした。その瞬間、右肩にグキって違和感を感じたんだ。

空港の貸し切り運送の仕事は、往々にして走る距離も長い。場所はすでに忘れたけれど、荷物を積んで即出発。

でも何かがおかしかった。肩の中がギコギコとすれるのを感じた。ハンドルをにぎる上では特に問題はなかったから、目的地まで走り続けて荷物を下した。戻る時も同じ、ただ走り続けた。

それからしばらくしても、変な感覚が消えなかった。荷物を持つことはできるのに。気になって、かかりつけの外科に行く。MRI検査をしたら、腱板の断裂だと判明した。

2020年の夏に、手術をしてくださった先生には、この時からお世話になっている。ただ、手術をするかしないかは、選ぶことができた。当時45歳、2015年の秋。先を考えて手術しようと決めた。

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人生経験 入院日記 2020年夏

集中治療室の中で、目を覚ます。

目が覚めたのは、集中治療室の中。時間はお昼過ぎだったかな。

全身麻酔だったから、体がやけに重く感じた。5年前の時よりも重たく感じたかもしれない。全身麻酔がまだ効いている、久しぶりにだるいって感覚だった。

*手術後にすぐに戻った5年前の病室

後から考えてみたら、5年前には集中治療室に入らなかった。病室に戻って、集中的に看護されながら夜を明かしたはずだ。病院のシステムに、国立時代の流れが残っていたのかな。

腕と尿道にチューブがつながっていた。腕には点滴用のチューブが、尿道には尿、つまりおしっこを出すための、排尿をうながすためのチューブがつながっていた。

点滴については、みなさんおわかりでしょう。栄養を注入するためのものだ。翌日の朝までは、食事を口にすることができない。
手術当日の朝からまる一日、食事を口にしなかったことになる。では尿道につなげられていたチューブ、これはなんのため?

全身麻酔をするからなんだ。全身麻酔は強いからね、手術が終わっても、もうろうとしているしね。だから排尿をうながして、勝手に尿がチューブをつたって流れ出るようにしてある。

でも尿道に、いつつなげられたと思う?おそらく、麻酔が効き始めて目を閉じた後かな。じゃあ誰が?看護師さんだろうね、女性のね。つまり、大切なところを見られているわけだ!

*早くキーボードを打ちたかった夜

まあ、5年前も同じ経験をしているから、今さら驚きはしないけど。ただ今回も思ったことがある。看護師という仕事は、恥ずかしい気持ちがあったら、一人前にはなれないってことだ。

仕事を時間内に、機械的にこなして行かなければ、生命を危うくさせることもある。大げさに話してるんじゃない、本当なんだ。

尿道にチューブを入れるのだって、上手くやらなければ、患者さんが痛がるんだから。性器をつかんで手際よくやらないと、手術も進まないってことさ。

この人の性器が大きいとか小さいとか、普段なら冗談にもなるだろうけどね。その時はただ、つかんで上手に刺しこむだけだ。お蔭様で今回も痛みはなかった。

看護師さん、本当にありがとう。

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人生経験 入院日記 2020年夏

集中治療室に響く、警戒アラーム。

集中治療室のベッドの上、尿道にチューブを入れているから、当然身動きはとれない。右腕には点滴のチューブ、ベッドは少し頭を上げた状態にしてある。そのまま、翌日の朝まで寝てるだけ。

*外はこんな夜だったのかな?

5年前も同じような状況だったかな。ただ手術後は、すぐに病室に戻った上での集中治療だった。周りのベッドには一般の患者さん達が寝ていた。今回はまったく違う。

当日は他に5、6人が手術を行っていて、カーテンだけを仕切りにして、右と左に患者さんが寝ていた。昼は寝たり起きたりで時間を過ごしたから、痛みもあって夜はなかなか寝つけない。

2時間おきくらいかな、いやもっと短い周期で起きていたのかもしれない。定期的に、当直の看護師さんがやってくる。水分を口にできるように、右手の横に水筒がおいてあるんだ。

ちなみにこの水筒、患者本人が前もって準備することになっている。今回用意した水筒は、前回でも使用したもの。手を伸ばすだけで飲めるように、ストロー付きのものがいい。手術前後に使うバスタオルも、3枚ほど自前で準備をしてある。

*この水筒は前回からのお気に入り!

そうそう、T字帯っていうふんどしみたいなもの、これが大切なんだよね。尿道にチューブを刺しこむわけだから、パンツだとチューブの邪魔になる。ふんどしタイプならやりやすいわけね。これが寝返りを打てないわりに、案外ずれていってしまうんだ。

こんな感じで、寝たり起きたりをくりかえしながら、当日の夜を過ごしていたわけ。

でも、この夜に一番気をもんだことは、血圧の異常なまでの上がり方だった。最高血圧がマックスで200にまで迫ったりして、警告音がピーピーピーピー耳のそばで鳴り響いていた。

*これは 前日の昼ごはんだったかな

さすがに、これには参った。5年前にはこんなことが無かったはず。首を右にひねると、上がっていく数字を見ることができた。自分でも驚きだったね。手術した左肩よりも、血の方が気になってしかたがなかったよ。

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人生経験 入院日記 2020年夏

手術当日、2020年7月8日。

とうとう、手術の日がやって来た。

前日は手術の説明以外は、特に何もすることがなかった。

昼間はツイッターと向き合い、明日手術です、なんてあいさつ代わりにつぶやく。嬉しいことに、励ましのコメントをたくさんいただいた。

この場をお借りして、あらためてお礼を申し上げたい。

本当にありがとうございました。

*手術の時はこんなものも履くのです

手術は9時に始まり、ほぼ3時間で終わる予定だった。前回の時と同じ先生だし、互いの信頼関係はあったと思う。よくわかっていると思うけど、それが先生の口癖だったね。

看護師のうしろについて歩き、手術室に向かう。3階から2階までどう歩いたのか、その時はわからなかったな。経験していたはずの手術なのに、やはり緊張をしていたのかもしれない。

手術をする時には、立会人を求められるんだ。5年前は、両親が高齢で横浜からくることは困難だと考えた。そこで、友人を代理人に立てていた。その友人も前年に引っ越しした後で、今回はお願いできる人がいなかった。

6月に、そのことを先生に相談したんだけれど、必要ないとおっしゃるんだ。前回の経験があるから大丈夫でしょうってことで。要するに、先生には手術への自信があるってことだったんだろうね。まあ、自信がある先生の方が安心感をもてる。

実際のところ、5年前は本当によく話をした。初めての経験だったから、先生には疑問に思うことを徹底的に聞きまくってね。先生は親身になって教えてくださったよ。だから、お互いへの信頼は深いままだったのかもしれない。

4月に、5年ぶりにお会いした時の先生は、「元気でしたか?」。自分は、「あの時の予想通りまた戻ってきました」。こんな感じで、話が始まったくらい。自分の性格や仕事の上から、そうなるだろうなって予期していたんだ。

*手術当日の朝 病室から見えた空

手術室の扉があいた先には、手術にかかわる人たちが両側にズラリ。いよいよ手術が始まる、実感した瞬間だ。手術台に横たわり、麻酔用の注射針が刺しこまれていく。誰かが何かを話していた。瞼が重くなっていく。耳がきこえなくなっていく。

やがて周りが、すっかり見えなくなった…。

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人生経験 入院日記 2020年夏

入院当日、2020年7月6日 その2。

*今回はスマホやiPadのための装備も!

7月6日13時、これが僕の入院する予定時間だった。

当日の朝は、いつも通り腕立て伏せを70回行い、朝ご飯をすませ、入院前の最後の準備をしていた。持ち込む物のチェック表も作ってあったね。

起床と同時に腕立て伏せを70回、いつも通り一気にやった。分けてやったら意味がない。17歳の夏に映画「ロッキー」にめぐりあった日から毎朝毎晩、約34年間、5年前の入院の時以外は欠かしたことがない。最も大切な自分の日常行事だ。

*映画「ロッキー・バルボア」から

肩を痛めているのに、やっていいのかって?

これについては、主治医の先生からのストップがかからなかった。まあ、手術後から今年の2月までは、ダークな時間を過ごすことになったけどね。

昼前にタクシーを呼んで、15分ほどで病院に到着。感染対策のために入り口でアルコール消毒に体温測定。通院している今でも状況は変わらない。大きな荷物をかかえていたから、入り口の係員がまざまざと見ていた。

事務所で入院のために、最終手続きをすませた。この時も5年前の経験が役に立つ。5年前も入院してますから、なんて言ってみたら、長い説明時間も短縮できたような気がする。

*手術前日の晩餐 手術当日は食事はなし

キャリーカーゴに荷物をのせ、案内された通りエレベーターで3階に上がる。前回と違っていたのは、入る病室が新館に移ったこと。旧館の時よりも、やけに廊下が長く見えた気がする。そのせいかな、歩いている人間がみな、すごく遠くに感じられたんだ。

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人生経験 入院日記 2020年夏

入院当日、2020年7月6日 その1。

2度目の入院は、昨年の7月6日、月曜日。

大きなバックと小さめのバックに荷物を分け、タクシーで病院に向かった。独身でアパート住まい、大家さんに挨拶した以外に誰にも会わない。病院までの話し相手は、運転手さんだけ。

先に話をしたけれど、5年前にも同じ病院でお世話になっている。その話はまた別の機会に。ただ、その時の記憶や知識・残してあった記録が、今回の入院でかなり役に立った。

元来、記録をしっかりと残しておくタイプだ。5年前の記録には、入院時の書類から保険の書類、リハビリの内容まで、すべてをファイリングしてある。6月には何度も読みなおした。

*コンパクトにしたつもりだったのに…

ただ、入院してから感じたことは、また荷物が多すぎたってこと。5年前は1月に入院、今回は7月、半年も差があれば季節も変わり、暑くなっていると考えていたわけだ。

でも、病院の中は全館冷房、汗をかくことも特になし。洗濯物と言えば、基本的にパンツとバスタオルと洗面用のタオル、この3つしかないんだ。だから、着替えなんてものは少しでよかった。

もともと作務衣みたいな病衣を、1日1着の割合で借りる予定だった。靴下も履かないわけだし、極論を言えば、下着とタオルと洗面道具に風呂道具、これだけで病院生活は成り立つんだ。

とにかく、記録っていうのは必ず残しておいた方がいい。いつ、どこで、役に立つかわからない。自分自身にも言えるけど、明日、何がおこるかなんて誰にもわからないんだから。

*5年前に入院した時の生活備品

今日のうちに、どんなに時間をかけて細かく計画を立ててもね、計画通りの明日なんて、まずあり得ないから。今回の僕の転落事故が、そのいい例なんだ。注意深さには定評があったはずなのに、結果的に、また手術をするはめになってしまったんだよ…。