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西濃運輸の目安箱に投函、社長に呼ばれた。

入社4年目ぐらいの頃、大垣の本社目安箱が置かれた。

目安箱というのは、自分が勝手につけた呼び名。江戸時代の8代将軍徳川吉宗の目安箱になぞらえて呼んでみた。要は、会社に意見がある方、聞かせてくださいってやつだ。意見箱だね。

大垣の本社と言えば、西濃運輸の本拠地だ。1代目がいらした頃には、目の前の国道258号を、トラックがパレードしたとも聞いている。その頃は、全国から人が集まって、地元の社員の割合は30%ぐらいだったらしいが、自分が入社したころには真逆。岐阜県外から集まった人間の方が30%になっていた。

*三菱のパジェロが パリダカを席巻していた時代

そうなると本社なんかでは、面と向かって社長にモノを言う人間なんかいない。当時の2代目会長が正面玄関を通る時には、隠れて姿を見せるなって言われたぐらいだ。摩訶不思議な世界だよ。社員が会長に挨拶するんじゃなくて、挨拶よりも姿を見せないことの方が大切のような雰囲気だったんだから。

そんな本社に目安箱が置かれたわけだ。

案の定、ほとんど意見の投函はなかったようだ。後で聞いたところによると、10人分ぐらいしかなかったとか。名前を明かしていたのは、自分と仲間の2人だけ。他はすべて匿名

平成8年当時には、すでに時代遅れは否めなかった。その理由が意見が通るような風通しが無かったこと。陰で愚痴は言うが、いざ意見を求められればだんまりを決め込み、はいはいそうですねの繰り返し。入社当時は吠えていた社員も、に染まってやがて言わなくなる。そんな状況だから、匿名なんか当たり前のこと。

*当時 何度もくりかえし読んだ

でも、自分は吠えまくっていた時期だからね。毎日が畜生!のくりかえし。名前を出すのが当たり前。出せないなら意見するな。それで、A4にして10枚くらい書いたかな。喜んで投函したんだ。結果が楽しみで仕方なかった。何も怖くなかったね。

でも、書いてみるもんだよ。

後日、秘書課から呼び出しがかかった。社長が呼んでるって。自分が所属してた労務課は社長室のすぐそば。社長室は扉がないから、いつも社長の姿はまる見え、声もまる聞こえ、その入り口に立ったよ。ただ、後輩に言っておいた、今日でクビだからって。内容は伏せるけど、それぐらいハッキリと意見していたからね。

当時は、1代目の田口利八さん次男にあたる方が社長。実質3代目。親譲りの立派な体格で180㌢はあったかな。

社長室に入った瞬間、一言目に「よう言った!」って言われた。そして、二言目に「会社には出来ることと出来ないことがある。でも、夢をもって頑張りなさい」、そう言われ、大きな手で握手をしていただけた。ただ、感動あるのみだった。

*生涯 この駅名は頭からはなれそうにない

後日、独身寮長としての申請が足踏みしていた稟議書の決済が下りた。額は増額されて800万円を超えていた。元々、この稟議書を通すためにも意見したもの。また感動がやってきた。

つくづく思った。言わなければ、行動しなければ何も始まらないって。それも若い時ほど、そういう気持ちは大切だと思う。

それから3年後に会社を辞めたことについては、後悔はしていない。

ただ、何年か前に当時の社長が亡くなったことを知った時、ありがとうございましたって、心の中でつぶやいたね。いい時代を与えて下さって、本当にありがとうございましたって、ね。

駄目だな、書きながら思い出していたら、涙が出てしまった…。

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人のふんどしを借りずに、自分のスタイルで。

自分を売りたいと思った時、表舞台に立ちたいと思った時、あなたはどのように頑張るだろうか?

まずは、自分が好む誰かの真似ごとから始める。とことん真似をして、だんだん真似だけで満足できなくなる。やがて、自分の形へと変えてみたくなる。本格的に行動を開始する。行動を開始したら、他人の真似などはしない。ひたすら自分のスタイルだけを追求して、ブレイクできる日を夢見て進む。

これが一般的な、夢を追う形かな。

*木は自然と共に自分のスタイルだけで生きてる?

他人の真似ごとから始めずに、初めから自分のスタイルを追求していけるなら一番いいけどね。

でも基本的に、それは難しいかな。その真似をしたい対象が、遠い存在の人でも身近な人でも、誰かに憧れて始めているのがほとんどだものね。真似をしていないなんて、まずはあり得ない話。憧れゆえに、自分もやってみようと思うんだから。

自分なんか、憧ればかりが多くて、やってみようと思うことばかりが多くて、中途半端になってることがなんて多いことか。この歳になって悔やまれることばかりだね。

*空のスタイルはいつもあるがまま

ただ、何をやるにしても、自分のスタイルを追求しようって、その気持ちだけはいつも大切にしているよ。

自分が上手くいかない時には、誰かの真似をしてみたいと思う、そういう気持ちを絶対に持たないとは言えない。

それでも、自分のスタイルを追求することだけは忘れない。他人を参考にして勉強させてもらう。その上で、もう一度、とことん自分のスタイルを追求する、その繰り返し。

自分が上手くいかないからって、他人のふんどしを借りてまで土俵に立って、それで相撲をとろうとは思わない。

自分が成功したければ、手段を選ばないというのも一つの考え方かもしれない。割りきって生きるなら、それは一つの手段になるかもしれない。プライドなんか捨てさって、成功さえすればいいんだってことだね。プライドに固執したからと言って、成功するとは限らないからね。

*池の中と言えども 鯉は自由に生きる

でも、一度捨てたプライドは、なかなか戻るものじゃないよ。

他人のふんどしを借りて相撲をとるのもいいけど、甘えすぎると戻れなくなるよ。そこまで落ちるぐらいなら、夢なんか持たないで、楽に生きる道を選んだ方がいいとも思う。

少なくとも自分は、そんな恥ずかしい姿を見せてまで夢を追いたくはない。夢を追いかけるなら、とことん自分の力で追いかけて、もう駄目だなと思ったら、さっさと次の道を探しにいくよ。

365日なんてあってないようなもの。100回来たって、100回しかないと思えば、自分が思っているより、人生はずっと短いものだ。人のふんどしをつけて踊る時間よりも、可能なかぎり自分の力で踊れる時間を増やしていきたいね。

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人生経験 俺の考え 日常生活

「地毛証明書」って何?

NHKのニュースで、「地毛証明書」についてふれていた。

全日制都立高校177校のうち、44.6%に当たる79校が地毛であることを証明する届け出を求めているらしい。

*今まで知らなった自分が恥ずかしくもなる

髪の毛が生まれつき茶色などの黒以外の色や、くせ毛の生徒について、保護者の署名や押印とともに、地毛の特徴などを「地毛証明書」として届け出ることを求めているらしい。地毛であることの証明として、中学時代や幼少期の写真の提出を求めている高校もあるとか。

NHKのホームページでも読めるし、新聞でも取り上げられていたから、話題にすべき内容なのかな。

*日本の首都がある場所でのこと

と言うか、今の時代にこんなことが話題にされなければいけないなんて、日本って一体どういう国なんだろう。本来ならNHKだって、もっと話題にすべき内容があると思うんだよね。髪の毛の色で国が動くなら、大いに話題にすべきだ。感染の再拡大についても、情報提供のようなレベルなのに、髪の話とは恐れ入る。

それにしても、時代錯誤もはなはだしい。

自分は地毛が黒だ。染めたこともないし、染める必要もまったく感じないから地毛のまま。そもそも51歳の今、髪の毛が残っていること自体が神秘的な話なんだ。父親は20代後半で、中の島型に髪が薄くなっていたから、自分も学生の頃から覚悟していたぐらいだ。今でもよく伸びるのは、祖父の血かもしれない。

*こんな選択肢もあるらしい

そんなわけで、仮に今、高校生だとしても指摘されることは何もないはず。でも、ドライヤーがよく当たるところは、少し茶色くも見える。そうなると、角度を変えて透かして確認されて、地毛を証明するように求められるのかな。入学早々、教師に目をつけられるのが嫌だから、証明書を提出するのかな。

学校側は、黒髪がなぜ大切なのか、それが学生生活にどんな影響を与えるのか、しっかりと説明した方がいい。進学校だった自分の母校でも、こんな証明書の提出は求めなかった。黒髪でも成績は悪すぎた。もし自分に子供がいて、高校進学を考える時には、証明書の提出を求めない高校をさがす必要もありそうだ。

*軍隊の入隊みたい 今時の軍隊でも…

先日、祖父の痴呆症の話をした。祖父が家を抜け出して徘徊、道端で倒れて血を流していた話だ。これには続きがある。

祖母が駆けつけた時、祖父の周りには金髪の兄さんたちがいたらしい。お爺さん大丈夫か?って声をかけて、手を貸してくれてたらしい。後日、祖母はその時のことを思い出して話していた。近所の人は誰も声をかけてくれなかったけど、彼等だけが手を貸してくれた。人は外見じゃないって、本気でそう思ったわって。

大正生まれの祖母には、髪の毛を金色に染めるなんてことは、遠い世界のことだ。もし祖母が、金髪の人はお爺さんにふれないでなんて言っていたとしたら、あなたはどう思う?

必要な校則もあると思うけど、身体的な特徴を申告させる証明書は、プライバシーを否定してるように感じる。卒業してから許されるとかなら、やる意味がない。

それよりも、上手い染め方でも教えた方が、子供の個性を成長させられるように思う。案外、世界的なヘアメイクアーティストも生まれたりするかもよ。

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人生経験 俺の考え 趣味

元横綱 稀勢の里 の考え方。

少し前になるが、元横綱稀勢の里が、早稲田大学の大学院を卒業し、その後インタビューを受けた時の記事を読んだ。

*稀勢の里の姿は地味だが そこに人気があった

稀勢の里は体格もよく、外見は相撲取りらしく思えた。ただ、気が優しいのか、大関になってから、なかなか優勝することがなかった。土俵に上がっては、淡々とマイペースで相撲をとっていたような感じだった。自分は、あまり好きにはなれなかった。

だが、人気はあったようだ。相撲を愛し、地道に相撲を取り続ける姿勢が良かったのかもしれない。横綱に昇進した時は、久しぶりに日本人から横綱が誕生したものだから、世間の喜び方は一段と大きかったようだ。本当に久しぶりだったものね。

ただ、小学生の頃から相撲を見てきた者としては、横綱になるのが少し遅すぎたように感じていた。

北の湖、貴乃花、輪島、千代の富士など昭和の相撲取りは、横綱ではなくても本当に強かった。大関でも十分に強かった。横綱になる人には勢いがあった。あっという間に横綱の地位までかけあがり、その後は優勝を重ねた。ウルフと呼ばれていた千代の富士には、その強さと体格などに対して憧れをもった。

*ウルフという呼び名にふさわしい取り口だった

だから、稀勢の里が30歳を過ぎてから横綱になったことは、嬉しい反面、遅すぎた気もした。

稀勢の里は2度優勝したが、その後は怪我がもとで休場を続け、そのまま引退へと進んだ。横綱になってから、わずか2年後のこと。残念などと思う余裕もなかったね。

*体格が立派で 現役中は寡黙なイメージも

でも、大切なことは、その後の稀勢の里の姿勢だ。

そんな稀勢の里が、早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科修士課程を修了した。相撲部屋を持つ時に備えて、学んだらしい。これまでに例のない、新しいタイプの部屋を作りたいとか。

  • 部屋の土俵を2つ3つ備えて、稽古を効率よく行う。
  • ビデオカメラを導入して、指導につなげていく。
  • ちゃんこ鍋にこだわらず、運動前にたんぱく質を補給する。
  • 部屋専用の筋力トレーニングルームを備えつける。

など、まあ古い慣習からの脱却などを話していた。

古い伝統が支配する世界だ、見直しや改革は簡単には進まないだろう。必ず反対する人が出てくると思う。

でも、30歳を過ぎて初めてパソコンと向き合い、論文を書いて学生を前に発表したんだ。それも、20人中3位の評価だったとか。まだ若いとは言っても、新しい時代を見据えて学んでみようという考え方が大切だと思うんだよね。

*野茂英雄も自ら大リーグへの道を切り開いた

野球の世界なんかもそうだけど、偉大な選手だった人が、必ずしも立派な監督になるとは限らない。相撲の世界も似たようなものだろう。白鵬が偉大な横綱であるとしても、立派な親方になれるかは未知数だ。やってみないことにはわからない。

稀勢の里の親方としての未来も、今の時点では未知数だ。

だからこそ、何かを変えたいという気持ちは、大いに尊重されるべきだ。それは何も相撲に限ったことじゃない。これからの自分だって同じこと。学びなおしの時期に早い遅いはない。やってやるという心意気さえあれば、何かを必ず成し遂げられるはずだ。

稀勢の里からの、ちょっとしたサプライズだった。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活 読書

ブログを書くのは、自分を見つめ直すこと。

ブログを書くのは、自分を見つめ直すことだと思う。

そもそも、ブログを書こうと思い立ったのは、大切な友人と話をしていた時。何となく書いてみようから始まったんだけど、指南書のような本を読んでいたら、真剣になっていった。

なんて言うんだろうか、今の自分にもこれからの自分にも、必要なことのように思えたんだよね。書くということに、自分の存在意義を見出せるような気がしたんだ。

*文章を書く上で すごく参考になった

ブログって、たくさんの方が書いていらっしゃる。有名人になれば、アクセク数は半端じゃない。有名なブロガーさん達だって、もちろんそう。有名だけじゃなくて、やはりおもしろいんだろうね。おもしろいから有名なのか。そこにいくと、自分なんかは駆け出しだし、まだまだこれからって感じ。昨日の SEO はいくつだったのかなんて考えるのは、まだ先の話。

ただ、すごくやりがいがあるし、すごくおもしろくて楽しい。

先日のツイッターでもお話しした通り、今、4月末までに100本の記事を書くと決めている。100本書くためには、101本以上の記事を目標にしなくてはならない。だから、毎日、最低3本の記事を書くことを目標にしている。3月31日の初日に21本からスタートした。この記事で48本目。

*公言することで 目標に向けて自分を鼓舞する

先にいくつかのカテゴリーを決めてある。それを基本にしながら、いろいろな記事を書いてみようと考えた。ただ、カテゴリーはどんどん派生していいと思っている。固執しすぎると書けない。まずは、書くことを習慣づけるために、目標の数をこなす。数をこなすことで、達成感をあじわう。

100本の記事を達成できたら、いったん自分を褒め、文章力アップのための技術みがきへとシフトする。そこからは数をこなすことが目的じゃない。毎日1本の記事を書くことを基本に、技巧を加えていく。今考えていることは、とりあえずここまで。

この1年の間、ツイッターを通して、限られた文字数で記事を書くことには慣れた。文字数が限られれば、記事も筋肉質にならなざるをえない。140字の制限には、かなり鍛えられたね。去年の夏に入院していた時などは、朝ご飯を食べ終わった時点でもう文章を考え始めていた。夕方にツイをUPするためにだよ。

*日記を書き始めて 13年目に入っている

実は13年前から日記をつけている。つける理由があったわけじゃない。これこそ、ただつけてみるかって理由だけ。

でも、人間っていうのは不思議なものでね、つけ始めるとやめられなくなる。性格なのかな。5年前に入院していた時なんか、右肩の手術だったから、1ヶ月書けなかったんだよ。日記や手紙については手書きを主義にしているからね。

じゃあ、どうしたかって?スマホに箇条書き程度に日々あったことをタイトルで入力しておいた。固定の装具が取れた1ケ月後に、そのタイトルから思い出しながら、1ヶ月分の日記を書き起こした。けっこう覚えていて、お蔭で日記にブランクは無いよ。

日記をつけることでも、文章を書くってことが鍛えられている。

*最近は 本を読み直すことが多い

最近は過去に読んだ本を読み返すことの方が多い。もちろん、新たに購入することもあるけれど。後は、新聞のコラムを読むことも大切にしている。自分は日経電子版を読んでいるけど、コラム中心に読むだけでも、かなりボリュームがあって勉強になる。

こうして、様々な文章にふれながら自分の文章を追求している。

ブログというのは、日記とは違う。本にもあったけど、他人が興味を持っていることを調べるためのツールになる。いわば、目的達成のための材料のようなものだ。

だから、自分にとっては何でもないことも、他人にとっては魅力がある場合も多い。それゆえ大切なことは、いかに自分自身を表現していけるかってことだろう。

自分という人間を、いかに上手く表現できるかが大切だと思う。自分はこういう生き方をしているんだってことを、しっかりと主張できるかが大切だと思うんだ。

*手紙はやはり 手書きがいいと思う

偉そうなことを言える立場ではないけれど、少なくとも、他人の真似ごとみたいな人生は送っていない。自分を見つめ直していく上でも、ブログを書くことに集中してみたいと思う。

緑がしげる頃には、新しい自分が見えている気がするんだ。

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人生経験 俺の考え 趣味 音楽

X JAPAN に思う。

X JAPAN が好きだ。

何が好きかって、その世界観がだ。YOSHIKIが創る作品が中心だとしても、あのメンバー達がいるからこそ、YOSHIKIの世界も成り立っているんだろう。

*まず ジャケットからして目を奪われる

」を歌っていたXの頃は、ビジュアルのイメージも強くて、音楽も激しいものが中心だと思っていた。「紅」という曲はまさに燃えるような紅そのもの。が見えるような曲だった。

アルバム「Jealousy」の中で「Silent Jealousy」に、その激しさの流れは引き継がれている。

だが、YOSHIKIのすごいところは、同時に「Say Anything」という素晴らしいバラードを送り出したことだ。TOSHIの声も美しく、奏でられる音も胸に響きわたる。

*最初に感銘を受けた雄大なバラード
*どこから こんな曲がうまれてくるのか…

X JAPAN になり、「ART OF LIFE」という大作を送り出す。

この曲はたった1曲で29分近くある。初めて聴いた時は、いつ終わるのかと思ったが、動と静のからみあいが見事としか言いようがなかった。ここまでくると交響曲だ。才能があるということには、時として畏怖の念を抱いてしまう。

*この1曲で29分にも及ぶ もはや交響曲だ
*10分前後の間奏に まず魂がいった

始まってから10分前後のところでの間奏は激しい。ここでまず激しさにしびれる。そして、15分ぐらいのところから10分間にも及ぶ YOSHIKI のピアノ独奏。まるで舞台の世界だ。終わってまた激しさをのぼりつめる。魂はすでに昇天している…。

この次に送り出されたのが、アルバム「DAHLIA」。

かの有名な「Forever Love」も収録している。この曲の素晴らしさと美しさは言うに及ばない。バージョンも多いし、どのバージョンで聴いても完成度が高い。

だが、ここで聴いてほしいのはタイトル曲「DAHLIA」。

ただ聴いていただければいい。人の音楽の趣味は様々だけど、音楽を語るには幅広いジャンルに耳を傾けることが大切だ。この曲を聴くと魂が沸騰する。色褪せるなんて言い方は神への冒涜だ。

*タイトル曲DAHLIAは 激しさの中に美の極致が
https://youtu.be/0ePQnCUhFTE
*ただ見とれるだけ…

何よりも自分が言いたいのは、やはり音楽の世界も、動と静をからみあわせられてこそ、そこに価値が生まれるってこと。動の激しい音と静のバラード。この両方が出来る音楽家たちは、時代を超える音楽を残している。

もちろん、あくまでもその人の世界観の中でね。

動的な音だけ、静的な音だけ、偏った音楽だけでは人間の感情を表現しきれないと思う。

人間は激しい喜怒哀楽の中で生きる動物だ。いつも楽しいばかりではないし、いつも哀しいだけでもない。様々な感情の中で生きることを強いられている。

音楽は人間の感情そのものだ。X JAPAN の音楽はその感情を見事に表現できている。だからこそ涙も流せる、自分はそう思っている。

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オフコース 人生経験 俺の考え 趣味 音楽

オフコースの、言葉にできない とは。

言わずと知れたオフコースの名曲、「言葉にできない」。

この曲を知ったのは、彼らが活動を休止していた時、中学2年の時だったろう。先日お話しした、「君が、嘘を、ついた」に衝撃を受けた後のことだ。鈴木さんが抜けて4人になってからの曲を先に知り、後追いで5人や2人の時代の歌を覚えた。

*1982年2月に発売 通算23枚目のシングル

詞を普通に読んでいけば、ろくに恋愛も知らない中学生でさえも、きっと感じるだろう。これは恋愛の曲だ、失恋の曲だって感じにね。

一般的には、そんなイメージで一人歩きしていると思う。特に今の時代にCMとかだけで聴いたりすれば、そう思っても当然だ。

大学3年の時に、小さな塾で講師のバイトを始めた。塾長は京都大卒の方で、大学紛争当時に学生時代をすごしていた。よく音楽の話もした。オフコースの歌っていうのは裏返しなんだよ、そう話していたね。理解できたつもりで耳を傾けていたよ。

裏返しの意味を理解できたのは、社会人になってからかもしれない。それは自分の中で、オフコースの歌を単に綺麗な歌として聴いていたかったからだと思う。大好きなアーティストの曲を、研究材料にするような聴き方だけはしたくはなかったからね。

*長いこと 恋の歌だと思っていた

オフコースは3人が2人になり、5人で大ブレイクして一旦活動休止、4人で復活して解散の道をたどっている。爆発的にヒット曲を連発した5人の時代よりも、実は2人や4人の活動期間の方が長いんだ。もし今5人のまま続けていたら、どうだったかな?

その5人の時代が終焉間近の頃に、小田さんが書いたのがこの曲だけど、歌われている内容の真意は小田さんにしかわからない。

ただ、自分は次のように解釈している。失くしてはならなかったはずの戦友、鈴木康博さんに贈った裏返しの歌であると。

*収録されたアルバム名は over 意味深い…

終わる筈のない 愛が途絶えた いのち尽きてゆくように」⇒ 君と別れるはずがないと思っていたのに、本当に別れることになってしまった、まるで僕の命が消えて行ってしまうかのよう。

ちがう きっとちがう 心が叫んでる」⇒ 君は嘘を言っている、そんなことはあるはずがないんだ。

ひとりでは生きてゆけなくて また 誰かを愛している」⇒ 音楽を歌うことを続けたいけど、やっぱりひとりではできない。

せつない嘘をついては いいわけをのみこんで」⇒ 自分を慰めるために嘘をついて、情けなくなっていいわけをのみこんでる。

果たせぬ あの頃の夢は もう消えた」⇒ 思い描いて来た夢は果たせない、夢はもう消えていってしまった。

誰のせいでもない 自分が小さすぎるから」⇒ 君を引きとめられないのは誰のせいでもない、自分が小さすぎるから。

それが くやしくて 言葉にできない」⇒ それが本当にくやしくてしかたがない、言葉にすることができないよ。

こんな感じで、勝手に理解して聴いている。「言葉にできない」の中に、小田さんが鈴木さんへの思いを、恋愛を隠れみのにして歌っている、こう思うわけなんだ。

でも、こう考えると、それこそ詩の勉強をしているみたいだよね。要は、小田さんの詞が一つの文学なんだよね。本当に奥が深い世界だと思う。

特に自分が好きだから、それだけじゃない。小田さんを始めとして、この当時の音楽家たちの詞は本当に奥が深いんだ。そして何よりも、日本語がとても綺麗。メロディ無しで、詩集として楽しめる作品も多い。

語り継がれる歌というのは、やはり、奥深い意味があるんだ。

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人生経験 俺の考え 健康 入院日記 2016年冬 日常生活

健康であるために、考えてみた8つの心得。

2016年に、右肩の手術で入院した時は、スマホに頼らない生活をしていた。というよりも、SNSとのつきあいはまだ浅く、ツイッターにも登録していなかった。自宅でのネットの使い道も、音楽鑑賞や映画鑑賞、それと通販ぐらいだった。

41日間もの入院期間中、何をしていたのか。思い出されるのは、と話をしていたことと、を読んでいたことの2つかな。そして、健康であるために考えた心得がある。

*仲が良かったトラック修理屋さんから

去年の夏の入院時は新病棟で生活したが、前回は旧病棟集団部屋で生活をした。隣のベッドとの間隔は少し狭く、けっこう気を使っていた気がする。その分、患者同士の距離も近く感じられ、いろいろな人と話をすることができた。

新型コロナウィルスの影響みたいなものはなかったし、口を大きく開けて語り合えたね。今回の入院時のように、気を遣って話すなんてことはほとんどなかった。話をしたい人間は見晴らしのいいところに集まり、誰かしらと話をしていた。

*旧病棟からは真正面に日の出を見られた

その中に、80歳の奥さんがいらした。元気すぎて仕方ないって感じの。自分より1週間以上は後に手術したのに、早く退院したいが口癖だった。スポーツ好きで、肉食むきだし。他の奥さんたちも交えての話は、朝昼晩と続いていたと思う。

41日間の入院中に、その方も含めて41人と話をしていたと言ってもいいぐらいかな。看護師さんやヘルパーさんを含めればそれ以上になる。院内の生活に、それほど充実感を味わっていた。人との生のふれあいは、今回とは比較にならない。

*退院前に仲の良かった方達から

自分は人見知りをしないから、誰とでも話をする。話をして相性が合わないと思えば、距離を取ればいいだけの話。とにかく、人の関係は話すことから始まると思っている。まず話をすることから始まる。

ただ患者さんは、大体の人がを持て余している。話しかけられて、真っ向からいやな気持になることはないかもね。

そんな毎日のまとめとして、自分のために「元気なための8つの心得」を作ってみた。話をした皆さんから自分が感じたことを、簡単にまとめてみたらこうなったわけだ。

*当時 手元にあった名刺に速攻で書いた

1.適度な筋肉をもつ
2.好奇心をもつ
3.前向きな気持ちをもつ
4.数字と向き合う
5.何かを生み出す
6.やりたいことをやる
7.他人と比較しない
8.生涯、現役の精神


順番に意味があったのかは思い出せない。

でも、5年近くたって読み直してみても、何かしら役に立ちそうな気はしている。言葉にして残すことは、大切だと思う。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

新人研修の仕上げは、お寺の中で。

1993年4月1日、西濃運輸株式会社に入社した。

入社式は、岐阜県大垣市にある本社で。実際には、垂井町にある研修センターで行った。のどかな場所にあったよ。

父が転勤族だったこともあり、引越が多かった自分。母方の実家は東京の世田谷区にあったが、都会すぎて故郷というには遠い場所だった。今思えば岐阜は、自分が初めて経験した、故郷と感じられるような場所だった。赴任当時は気づかなかったけどね。

*西濃運輸のカンガルー便 夜の高速を彩った

研修は4月から6月末までの3ヶ月間だった。細かい内容は省いて、最後のお寺での研修について話したい。

当時はまだバブル経済が崩壊したばかりで、企業は新人研修にお金もかけた。その代表が、お寺自衛隊での研修だ。高校時代の親友が、卒業と同時に海上自衛隊の幹部の道に進み、自分が社会人になった頃には、自衛隊研修の教官をやっていたぐらいだ。

西濃運輸はお寺研修を行った。先輩いわく、この先味わえないかもしれないぞと。確かにそうだった。この歳になっても、2度目の経験をしてないからね。俗な話だけど、2泊3日の研修に会社は80数万円支払うとか。同期40人弱の研修代金としてね。

*ボンネットトラックのチョロQと独身寮の鍵

初めての経験とは言え、驚くことばかり。時間を知る必要はないからと時計は取り上げられた。起床時間も就寝時間も謎。音も出してはいけないから、おしゃべりも禁止。朝から晩まで座禅の繰り返し。肩を叩かれたら首を傾けて強く打ってもらう。

音を出してはいけないからシェーバーも使えない。カミソリを持ち合わせていなかったから、研修が終わった時にはまるで別人。お風呂はグループごとで一人平均5分だけ。どこを洗っていたのか記憶もない。もちろんドライヤーなんか使えない。短髪万歳!

時計を隠し持っている奴がいて、朝は3時から起こされて座禅を組んでいたらしい。食事は薄口。最後まで必ずたくあんを1枚残し、それをたわし替わりにして水をつけて茶碗を洗う。洗った水は飲み干す。夜中になると、多くの仲間が腹をこわした。

2日目の昼からは、闘犬みたいな犬を連れた、あたかも山伏のような坊さんと山登り。登り切った時は、さすがに気分良かった。3日目の昼までで研修は終了。その日の午前中に、住職の御母堂さまの指導で書経を行う。もう終わりだってわかっていたせいかな、筆先への集中力が高まって、文字も踊っていた感じ。

*ここまでやるとは 研修時には思わなかった

まあ終わってみれば、楽しかったって思えた。本当に二度と経験しないんじゃないか、そうも思えた。寮までの帰りのバス、盛り上がったね。戻って2日ぶりにひげを剃った時は、この世の天国を感じた。その晩に仲間と飲んだお酒は、本当に美味かった。

お寺の研修は、今もあるんだろうね。企業も余裕がない時代だから、研修に組み込んだりはしないかもね。

*映画「ファンシイダンス」を思い出した

でも、経験できる時があるなら、経験した方が自分のためになると思う。あの時ほど、俗世間から切り離されたことはなかった。どんなに綺麗ごとを並べても、日常生活は邪念に囲まれている。研修に限らず、時には日常から自分を切り離し、客観的に自分を見つめ直すことは大切だと思う。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

労働の帰り道、電車の席に座れなくて…

大学1年と2年の頃は、肉体労働のバイトをしていた。

2年間は教育課程にあって授業も多かったから、週末の土日だけ働いていた。通常は渋谷の本校で授業を受けていたが、週に一度だけ体育の授業があったので、その際には東急田園都市線のたまプラーザ駅まで行って、新校舎で終日過ごした。

父母と妹は高校2年の時からアメリカにいたので、浪人が決まった時、2年間過ごした下宿を出ることになった。落ちついた先は、千葉県船橋市にあった父の会社の寮。今はその寮もなくなっているが、ホテルみたいな所だった。その話はまた別の機会に。

*映画「息子」から 車内が暑い 団扇であおぐ

その寮を起点に、週末だけ、日払いや日給月給の肉体労働をこなしていた。その頃はまだバブル経済まっただ中で、学生でも仕事はいくらでも入った。ただ今と比べれば安かったな。実質労働8時間で1日6,000円、時給にして750円だった。

自分の高校はバイト禁止だったから、バイトをしてお金がはいることは嬉しかったね。だから、週末は夢中で体を動かした。離れた場所でも仕事もしたな。日曜とかに、電車で往復4時間かけて船橋から横浜まで仕事に行ったりね。深く考えなかったな。

言うなれば、10代の若さってやつだろうね。月曜から金曜まで授業はしっかりと出て、土日はみっちりとバイト。でも、佐賀県から出てきて新聞屋さんに住み込み、朝晩の配達をこなす立派な仲間もいた。それに比べると、恵まれた環境にあったと思う。

*映画「息子」から バイトはこんなイメージ

日払いの仕事なんかでは、ロッカーは使いまわし。前日に誰が使ったかもわからない。ひどい匂いがした時もあったね。路上生活者もバイトに来ていて、風呂に入らない人間も多かった。夏なんかは大変、戻ってきたら荷物に匂いが移っていたりしてね。

それでも、お金がもらえることが嬉しかったから、季節に関係なく大汗をかきながら働いていた。

夏のある日、渋谷から山手線に乗って品川まで行き、大井のコンテナ埠頭へ。そこからコンテナトラックに乗って、引越作業の助手をした。このコンテナの中が暑い。鉄板の箱がまともに陽を吸収するから、中での作業は体が燃える。汗を流しクーラーで乾かしての繰り返し。夕方、埠頭に戻った時は、作業着は真っ黒になる。大雨もあったりで、すべての汚れを吸収したような感じ。

*映画「息子」の設定は 当時の状況と同じ

帰りの山手線の中、あまりに自分が汚かったから、座席に座るのに気が引けた。座っちゃいけない気がしたんだ。対面の席だから特に嫌だった。立ちんぼで渋谷まで行く。渋谷から事務所の代々木まではバスだ。もう疲れに耐えられなかった。席は前向きだったし、空いていたから座ることにした…。

悪いことをしてるはずなんかないんだ。しっかりと働いて来たんだから、恥ずかしいことなんて何もない。そもそも作業着についた汚れは誇るべきものなんだ。でも、その汚れが座席にしみつくような気がして、電車の中では座れなかったんだ。

汗して働くというのは尊い。まだ、よく世の中を知らない学生だったが、おかしなところで社会人ぶっていたのかな。

その尊さを自己主張できるほどには、自分は大人になり切れていなかった。今となっては、純粋な思い出のひとつだ。