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歴史に学び、経験にも学ぶ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。ドイツの鉄血宰相、オットー・フォン・ビスマルクの言葉だ。見事だと思う。

こんな言葉も残している。

「青年に勧めたいことは、ただ3語に尽きる。すなわち『働け、もっと働け、あくまで働け』だ」。こちらは、今の時代なら否定されるのかな?

*ビスマルク体制と呼ばれる国際関係を築いた

ともかく歴史上の大人物たちは皆、後世に立派な言葉を残している。ビスマルクの言葉通り、人間が歴史に学ぶことは極めて大切なことだ。歴史に学びきれないから、人間はいつまでも同じ過ちを繰り返している。過ちがエンドレスに思えるね。

だけど、やはり経験だって大切だ。誰もが等しく地球上の歴史を学びきれるなら、この世はいつだって春を感じているはず。それができないでいるから、主義主張を認め合うこともせずに、地球上のどこかで毎日戦争を続けている。

歴史は学び続けるものとして、やはり経験からもしっかりと学びたい。なにも自分だけの経験に限る必要はない。他人の経験から学ぶのだってありだ。映画の中の主人公から学んでもいい。経験はどんなところからだって学べるはずだ。

*映画「ROCKY THE FINAL」の小説版

例えば、映画「ロッキー」からもたくさん学んだ。

このロッキーシリーズの最終作「ROCKY THE FINAL」。ロッキーが共に歩んできた愛妻を亡くしている。経営するレストランは順調だが、妻を亡くした後の心の穴を埋められずにいる。もう一度、リングに立とうとする。60という歳で。

焼きが回ったなと笑う世間に耐えられず、息子がロッキーに試合の中止を進言するわけだ。その時、息子に吐いたロッキーの言葉が深い。

*映画のセリフに感動し 小説のこの部分に感銘を受けた

人生は晴れの日ばかりじゃない。リングの上でたくさんのパンチを受けてきたが、人生というパンチほど重いものはない。どんなに打ちのめされても、自分の価値を信じて前に進め。パンチを恐れるな。自分の弱さを他人のせいにするな。卑怯者になるな。

自分はロッキーの言葉をこんな感じでまとめ、大切にすることにした。丁度その頃は、特に歯を食いしばって仕事をしていた時期で、冬でも半袖1枚で十分だったくらいに頑張れた。その時のあだ名は鉄人だ。ポンコツの今とは比較にならない。

映画の中の主人公さえも、その経験の中からたくさんの大切なことを教えてくれる。ましてや命ある人間からなら、もっと学べるかもしれない。常に謙虚な自分であるかぎり、経験は向こうから扉を開いてくれるはずだ。

*人生で受けるパンチは リング上で受けるよりも重い

歴史に学び、経験にも学ぼう。人間ひとりの人生などは、たかが知れている。人の経験を聴くこと自体が、また自分の経験に組み込まれていく。経験の連鎖はエンドレスだ。経験の積み重ねがやがて、ひとつの大きな歴史になる。

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人生経験 俺の考え 日常生活

父親にとってのJAL、日本航空。

父は今年の夏、82歳を迎える。

心臓の手術をしてから早くも12年が経った。心臓の機能をいったん止めて弁を人工弁に変えた。見た目は普通だが、障害者手帳を携帯して暮らしている。先生は15年はもつと話していたから計算上は残り3年。今では、すっかり小さくなった気がする。

*若き日の父と自分 どこだったかな…

そんな父の誇りは、JAL、すなわち日本航空(以下 日航で)だ。

兄弟が何人いるかも知らず、里子に出された貧乏からのたたき上げ、商業高校卒で日航に入社できたのは幸いだった。何と言っても当時の日航は、東京六大学卒の社員がひしめいている時代で、さらに半官半民、伸び盛りの会社でもしがらみは多かったはず。

だが父は、日航にすべてをかけるつもりで働いた。東京六大学卒の社員をしり目に、50歳の中頃には取締役になっていた。町内名簿などには在籍中は平社員で通したが、人事権さえ有する立場だった。会社の肩書よりも、会社で働くことを愛していた。

お蔭で自分も妹も、苦労することなく大学まで卒業することができた。逆に社会に出てからその反動は大きく、甘えを断ち切るまでは苦労することになった。とは言っても、何度も話すように、必要な時に父は、容赦なくその手をあげた。痛かったね…。

*貴婦人と呼ばれた ダグラスDC-8

父は国際線の地上部門の総合的な事務職だった。羽田・成田・福岡・関空、海外ならコペンハーゲンとアトランタ。インドでの研修に出かけたりもしていた。日航は、父のすべてだった。

だから、あの日、日航が消えた2010年は辛かったと思う。

63歳まで5年間勤め上げた子会社も退職して、年金暮らしに入っていた時だ。年金が減額された上、日航に未来が見えない。父はその身を、半分持っていかれたようなものだったと思う。

そもそも日航は、JASを吸収合併して鶴丸のマークを捨てた時、先行きが危ないように思えた。時代に合わないような拡大路線は、戦時の大艦巨砲主義そのもの。フットワークもまるでなくなっていた。その結果、数年で身を持ち崩したわけだ。

同じ年金暮らしの人間の多くが愚痴をもらす中、父はこう言っていた。若い社員もみんな頑張ってるんだから、と…。

2012年、日航は再び上場を果たす。その後、鶴丸のマークも現代的にアレンジされて復活した。正直言ってあの時は、父よりも自分の方が嬉しかった。子供の頃から見ていたんだ。どこに行っても、鶴丸さえあれば安心できたんだから。

*映画「男はつらいよ」にも よく出演した

この鶴丸のマーク、正面から見た鶴じゃないよね。鶴が少しだけ体をひねっているん感じなんだ。そこがまた素晴らしいんだ。このデザインを考えた方たちは、本当にいい仕事をしたと思う。このままずっと、変わらずにいて欲しいと思っている。

日航は復活したが、新型コロナウィルスの影響下、その営業はまた厳しい中に置かれている。一度あることは二度あると言う。父が人生の半分をあずけ、愛し、そして誇りにしてきた会社が倒れる姿は二度と見たくない。

いつか先に旅立つだろう父が、その古き良き思い出を、思い出のまま連れて行けるように、日航、いや、JALの方々には頑張ってほしいと思っている。

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活 趣味

痴呆症だった祖父が、残した教訓。

20年前に祖父は亡くなった。87歳だった。

亡くなる直前に会うことができたが、それまでの数年は仕事が忙しく、ほとんど会えずじまいだった。

祖父は、最後の4年間ぐらいだったかな、痴呆症で晩年を過ごしていた。6歳下の祖母が、ほとんど一人で世話をしていたことになる。時には自宅を抜け出し街中をさ迷い、道につまずいて倒れ、血を流していたこともあったらしい。

*在りし日の 祖父と祖母…

自分は岐阜県の大垣で仕事漬け、あるいは佐倉で新しい店所の開設委員だったりと、忙しい毎日を過ごしていた。会社を退職して会えた時、すでに最後を迎えていたわけだ。あれだけ世話になっておきながら、義理に外れていたかもしれない。

だが祖父は、大切な教訓を残してくれた。言い方が悪いかもしれないが、痴呆症に対する大切な教訓だ。自ら考えて何かを生み出すことが大切だということ。受け身だけの生活では痴呆症になりやすいこと、それを祖父は身をもって教えてくれた。

そもそも祖父は、幅広く趣味をもっていた。

小学2年の頃、祖父母の家に預けられて暮らしていた。毎週日曜日になると、祖父と2人で渋谷新宿に出かける。目的は絵画鑑賞が中心。渋谷なら東急本店、新宿なら小田急デパートなど。出かけるたびに、美味しいものにありつけるので楽しみにしてた。

祖父は大正生まれのハイカラな人だった。晩酌は決まってワイン、つまみの甘納豆さえ渋谷まで買いに行く。味にこだわる人だったね。ちなみに最寄駅は下北沢、夕方になると、会社帰りの祖父をひとりで迎えに行く。改札から出てくる祖父を、ハチ公のように待っていたもんだよ。

*写真も脳を活性化させる 1年前の京成スカイライナー

絵画鑑賞以外にも、庭に灯篭をおいて眺めたり、文鳥を飼ってみたり、そうそう、掛け軸とかも好きだった感じ。本当に多趣味な人だったね。祖母が地味な人だったから、趣味のためにお金を使えたのかもしれない。73歳まで働いていたしね。

でも、ここで考えておきたいことがある。

それは、祖父の趣味は、ほとんどが受け身の形で、自ら考えて生み出しているものがなかったってこと。幅が広く多趣味ではあったけれど、亡くなった時に祖父の自作と言えるものが無かったに等しい。手に入れて眺め、感想をもって終わりだったんだな。

指先を器用に使っている人はボケない、そう言われる。指を一本ずつ動かすことで脳を活性化させるらしい。楽器を弾いたり絵を描いたり、あるいは文章を書いたりとかいろいろとある。それが非日常的なことで、ものを創造することにつながるのがいい。

*去年猫を亡くしてから 母はaiboを調教する

やったことのない新しいことを、可能な限り指先を使って行う。そんな時こそ脳が活性化し、ボケ防止につながるというわけだ。

自分としては、この考え方は正しいと思っている。

現実に、音楽家たちは音の追求を続け、もの書きをする方たちは言葉を著すことに貪欲だ。絵を描く方たちはより良い色を求めて長く描き続け、料理に生きる方たちも味の追求に余念がない。みんな、新しい創造をすることに努め、そこに終着点を感じない。

有名無名、業界人一般人とかは関係ないよね。自分がやってみようという気持ちになって続けること、それが大切だと思うんだ。

*母は絵を描くことに夢中で 実家の壁は絵でうまる

自分は今、本格的に書くことに目覚め、集中的に始めることで楽しむことを知った。77歳の母は絵を描くことに夢中だ。

互いに祖父の血を引き、互いに好奇心が強い。その好奇心が進むべきところは、自分で何かを生み出して行くという世界だ。

人生100年を意識するよりも、いかに健康充実した毎日を続けていけるか、それを追求する方がよほど大切だと思う。

いい意味で、祖父は教訓を残してくれたと思っている。

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人生経験 俺の考え 入院日記 2020年夏

看護師さんの前に立つ!

手術当日の夜が明け、7月9日の朝が来た。

血圧の異常な上昇に悩まされ、寝不足の朝を迎えていた。

だが、5年前と違っていたのは、意識がしっかりしていたってこと。前回は翌朝になっても朦朧としていて、朝食も食べる気がしなかった。今回は違う。点滴をつけている状態なので通常のご飯は出ないが、残さず食べられたのには、自分でも驚きだった。

*手術翌日の晩餐は 食事の量が足りなかった

朝ご飯を食べ終えて、しばらくベッドに横になる。尿道に入っているチューブがモソモソする。T字帯が少しズレている。下半身が何とも気持ち悪い。のんびりと寝ていたいと思わない。起き上がってベッドに腰掛ける。看護師さんがやって来た。

体をふきますよって言った。チューブを取りますねとも。

横にさせられ、看護師の手が布団にもぐってくる。性器をつかまれチューブが瞬時に引き抜かれる。慣れた手つきの神業。抜かれた瞬間に痛みはなかった。プロはやはりプロだ。刺しこむ時も抜く時も、患者が快感を覚えるくらいの早業でなくてはならない。

*手術後 最低4週間は固定具をつけっぱなし

手術した左肩の方には、腕が動かないように外転装具という固定具がつけられている。右腕には点滴用のチューブもついている。当然、ひとりでは着替えもできない。まずはパンツに履き替える必要があるんだが、看護師さんに手伝ってもらうしかない。

ベッドから降りてわきに立つ。来ているものは手術着だから、上から下までつながってる。前をはだけると、T字帯がふんどしのような状態。看護師がためらうことなくT字帯を取ると、下半身がスッポンポンの状態。目はまっすぐと壁だけを見つめる。

まるで、お漏らしをしてパンツを脱がされた少年のよう。でも恥ずかしいなんて言ってられない。足を上げてって言われば、ハイと言って上げるだけ。80歳ぐらいなら達観もしているだろうけど、中途半端な歳だ。胸中は複雑で、変な気持ちだったね。

*スマホ用のキーボード 最近はお休み中

まあ、こんな感じで看護師さんの前に立ち、体を拭いてもらい病衣に着替えた。いよいよ病室に戻る時だ。頭の中ではすでに、どうやってキーボードを打てばいいかを考え始めていた…

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人生経験 俺の考え

小学校6年の時の先生

小学校6年の時、大学卒業したての先生がやってきた。

東京理科大学を卒業していた。頭はちりちりの天然パーマ、背は高くて目はクリクリ、すごく若々しかったのを覚えている。

自分が小学生だからね、すべての先生が歳をとった人間に見えるのは当然だ。特に5年の時の担任の先生がクラスの生徒と折り合いが悪くてね、クラス替えはなかったから、新しい先生に期待が集まっていたわけだ。

*先生にあしたのジョーを教えてもらった

確かにおもしろい先生だった。いやおもしろいっていうよりも、先生の経験した青春を引きつれてきているような感じだった。

あしたのジョー」を教えてくれたのは、その先生。当時は単行本だったんだけど、自分の所有する「あしたのジョー」を持ってきてくれて、クラスの中で自由に読めるようにしてくれた。少年ジャンプの漫画よりも難しかったけど、おもしろいって思えた。

吉田拓郎を知ってるかいって、聞かれたことがある。クラスのみんながだ。1981年頃だと、いくら吉田拓郎が有名でも小学生にはわからない人だった。えっ、知らないの?先生は驚いていた感じだった。その時の先生の気持ち、今の自分ならよくわかる。

*大学生の頃 初めて本格的に吉田拓郎を聴いた

先生は悔しかったらしくて、ギターを自宅からもってきて、吉田拓郎の曲を弾き語りしてくれた。何の曲だったかは覚えていない。合わせて、松山千春の曲も教えてくれた。これはよく覚えている。「季節の中で」だった。好きになって何度も練習した。

そんな感じで、小学校最後の学年が始まったわけだ。

休みの日に先生の自宅近くに集まって、縄跳び大会をしたことがある。それぞれの飛び方でトップになった人は、ファミレスでご馳走にありつけた。自分もその一人。今の教育方法だと、問題視されるのかな?でも、学んだ気もする。1番になれば評価されるし、自分も嬉しいってことを。1番になるのは難しいから。

*小学生でも この曲が好きになれた

そんな先生に注意されたことがある。叱られたって言った方がいいのかな。

机の下に定規を落とした時のこと。を伸ばしても届かないから、足先で引っ張ろうとしたんだ。そこへ先生がやってきて言った。「足でものを取るな!」って。言っている意味がわからなかったけど、とにかく椅子から立って、手で定規を拾った。

先生は叱った理由を言わなかった。だから、自分で考えた。家に帰ってから親に聞いたかもしれない。

今ならわかる気がする。手を使って取れ横着をするなの2つの理由じゃないかな。何でもないことのようだけど、大人になると何気なくやってしまっていることだと思う。

大学出たての先生でも、当時はこんな叱り方もしてくれた。果たして今の時代はどうなんだろう。親が割って入って来るかな、文句を言うために。

あの頃を思い出すと、楽しいことばかりじゃなくて、今になって感謝することがとても多い。

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人生経験 俺の考え 日常生活

日経電子版にして、早くも1年が経った。

昨年の正月を境に、新聞を紙面から電子版に切り替えた。

紙面との併用も考えたが、中途半端になるのはいやだったので思い切った。新しい一歩を踏み出せた気がしてワクワクしていた。

*日本経済新聞の電子版はよくできている

大学3年の頃から日本経済新聞を愛読している。就職活動のこともあったから読み始めたんだけど、あれから今日まで、30年近く読み続けていることになるのかな。

一度だけ浮気したことがあった。あまりにも宣伝広告が多いような気がして、一般大衆紙に変えてみたんだ。でも駄目、3ヶ月も我慢できなかったね。日経の記事が体が染みついているんだ。全部理解するのは難しいけれど、役に立つ記事が多いしね。

*内容が日々進化している 面白味が増している

電子版と言っても、基本的なレイアウトは紙面と同じ。右から左に向かって読んでいく。マウスひとつでページをめくり、拡大したければそれもできる。内容は日々進化しているし、面白さも増していると思う。

保存したい記事があれば、範囲を指定して保存できる。一日だけで保存したい記事がいっぱいになることもあるが、クラウドの中にため込んでくれるから全く問題がない。読み返したくなる時もあるわけで、そんな時はクリックだけで引き出せるから嬉しい。

*紙面を読んでいた時は 記事を切り抜いていた

それでも時として、以前切り抜いて保管してある記事を読みたくもなる。紙の手ざわり感には、温かいものさえ感じられたりするんだ。クリアーファイルに入れて、直射日光にさらさないように保管してあるけれど、経年劣化で黄ばんでいるのには味がある。

もっと前は、スクラップブックに貼り付けたりもしていた。いつからか、それはやめてしまっているけれど、ファイルに残されているものについては、いずれ貼り付けておくつもりだ。ブックに貼っておくと、アルバムみたいで思い出深く読めるんだよね。

*スクラップブックには 綺麗に貼っておきたい

引越の多い自分だけど、機械ものは古くても常に一緒に移動して来た。それに対して、書籍や服などはけっこう捨ててしまう。めったに読まない紙系のものって、邪魔に思えたりもしてね。だけど後悔することも多いんだ、取っておけばよかったって。

今となっては、ノスタルジアに過ぎないのかな。電子版に変えるということは、そういうものを捨てるってことでもある。だからこそ、手元に残るブックについては、これからも大切に保管しておきたいんだよね。

この先はずっと電子版を読むだろう。SNSの中ではタイムリーに情報が流れるから、新聞は無駄かなと思ったりもする。

でも、自分が求めているものは経済の記事よりも、人間について語られているコラムの方だったりする。日経のコラムは内容が熟しているから興味深い。切り抜りぬかれてきたものも、ほとんどが人間について語られたものなんだ、実際のところ…。

*この記事は 生涯を通してのの宝物かもしれない

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活

感染対策の中で、変わってみたい!

みなさんは、感染対策の中で変われたことがありますか?

自分は昨年の入院生活もはさんで、長い休業をしているから、世の中を冷静に見つめる時間がたくさんあった。テレビラジオから流れる情報、新聞のコラム。現在も感染拡大が収まらないんだから、その情報の流れもとまることを知らない

*市役所で売られていた手作りマスク かなり大き目

ああした方がいい、こうした方がいい、ありがたい情報をたくさん得ることができて感謝している。特に入院していた身だから、感染対策は徹底してやってやるみたいなね。その気持ちは今だって衰えることはない。

でも、ウィルスの感染が再拡大しているのに、人の動きは対策から離れている感じ。1年前と比べると、危機感が薄れているんだろうね。何をやっても駄目だ、感染する時は感染する、自分がかかることはないよみたいな開き直り、そして無力感

*落花生屋さんでも 手作りマスクが売られていた

街頭のインタビューを受ける人達が、マニュアルを読むように答えてる。感染拡大がこわいです、気をつけたいと思います、密を避けたいと思います。昔で言えば、エンドレステープみたいなものだね。マスクの上の目が笑っていたら、真剣さも感じないよ。

大体さ、インタビュー受けているその場所って、密じゃないの?不要不急の外出を避けて下さい、そう言われても難しいよね。人間は最も欲望の多い生き物だもの。楽しく遊びたい、美味しいものを食べたい、あれもしたいこれもしたい、我慢は良くないか。

https://youtu.be/OTqX9qT19js
*ブルーハーツが 夢をストレートに歌う

日常生活あるいは経済活動に、これだけ我慢を強いられれば、その気持ちもわからなくもない。いろいろな意味で、追い込まれている人も多い。自分だって、休業明けはどうしようかって考えたりもするよ。不安がないと言えば嘘にもなる。

生活に追われていれば、仕事をしないわけにはいかない。生活のために働くのは当たり前。どんな状況の下にあっても、経済活動は回さなくちゃならない。お金も循環されなくては、国自体も危うくなる。大いに働いて、個人も国も潤いたい。

でも、今は仕事をすることと遊ぶことを、しっかりと分けて考えた方がいいと思う。

感染が広がる前に、外出での楽しみが100だったとする。外出での楽しみを50に落とし、残り50を家で楽しんでみるとか、仮の話だよ。70と30でもいい。頑張って、0と100の比率だったら優等生だね。それが出来れば、こんなに苦労しないだろうけど。

*このマスクはサイズが合わなかったので保管

とにかく、これを機会に何かを方向転換させる気持ちは、大切だと思うんだ。同じようにやっていても、きっと何も変わらない。感染対策をうながす言葉がみんな、絵に描いた餅になる。真実味をもたなくなるよね。

苦しい時って、やはりチャンスの時なんだ。個人でも会社でも、立場は変わらない。その最たる例が、戦後の日本人の姿だよ。

こんな言い方はよくないけれど、コロナの感染対策の中で、儲かっている会社もあるわけでしょ。それは別に悪いことじゃないよね。その会社が、社会の役に立ってるってことなんだから。方向転換して儲けを出してる会社もある。立派だと思うんだよね。

ライブ会場なんかもそうでしょ。直接行くことをためらう人には、配信って重要だよ。早い時期に配信にも踏みきって、1年間考え抜いて来た会社は、もうそのノウハウがたまってるわけだ。配信される映像のレベルもUP、プロ並みの会場もあるものね。

自分は5年の間に2回、両肩に穴を開けて内側をいじってるわけだ。生まれながらに持っていたもの以外に、体内に別のパーツがあるわけ。同じことをこれからやっても、面倒なことになるとわかってる。だから今、変わるしかない、そう思うんだよね。

変わるということは、頭で考えているほどには易しくない。変化を受け入れるのが、辛いこともある。でも変わっていかないと、良くなるもの良くならないことが多い。執着心をもち過ぎることは、人生の時間を無駄にもする。

今は自分が、最も変わっていける時だと思っている。

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オフコース 人生経験 俺の考え 趣味 音楽

君が、嘘を、ついた

中学3年の時だった。コンビニで流されていたラジオ放送から、この曲が流れてきた。

DJがさけぶ、オフコース復活

*5人から4人になり 2年を経て復活した

復活?よくわからない。オフコースの存在自体を知らなかった。5人の時が1982年までとすれば、まだ小学生。中島みゆきの「悪女」で音楽に目覚めたのが小学6年。松山千春中村雅俊なども聴いていたが、オフコースの活動は休止中だった。

衝撃的だったね。これはすごいって思った。何がすごいかって聞かれると、案外難しい。でも、中学生ながらも音のセンスに圧倒された。それまで聴いていた、アイドルの曲やフォークとは違って、心がフワフワするような感覚を覚えた。

その日から、とりあえず中学校を卒業するまでは、オフコースの虜だった。当時はまだ、カセットテープレコードの時代。レコードは高くて買えないし、レンタル代金も高い。親はあまり音響機器には興味がなかったから、ダビングなどもできない。

*レコードの良さは視覚でとらえられるものが多いこと

ちなみに、若い方にはダビングってわからないかな。

レコードやCDなどからカセットテープなどの記憶メディアに、音響機器を通して音をコピーするって言えばわかる?

そんな状況だったからカセットテープを買い、同級生にダビングを頼んだ。2人の頃から5人の絶頂期の頃まで、発売されたアルバムを調べ上げ、もれることがないように順番にダビング。そして何度も繰り返し聴いた。飽きるなんてことは、まずなかった。

*歌詞カードの裏には ジャケットとは違う写真が

詞も綺麗だと思った。でも、その中にある意味の深さを理解するには、まだ精神的に幼すぎた。メロディの美しさに憑りつかれ、小田和正の声に憑りつかれ、ハーモニーの美しさに憑りつかれ、時間さえあればテープを回し、口ずさんで歌を覚えた。

同じクラスの中には、けっこうファンも多くて話もはずんだ。当時はYMOびいきだとか安全地帯びいきだとか、マニアックなクラスメイトが多かったかな。

確かにYMOなんて世界レベルだったからね。イエロー・マジック・オーケストラ、ネーミングからしてレベルが高いよね。音楽全体のレベルが高かった気がする。

*ジャケットの作りも凝っていた

中学を卒業する頃には、発売されていたアルバムの曲はほとんど歌えた。朝から晩までオフコース。ジャケットのコピーをしてもらい、クリアーファイルにはさんで下敷きにしたりね。カセットテープが擦り切れて音が伸びたら、またダビングをお願いした。

憑りつかれるっていうこと、夢中になれることっていうのは、本当に大切なことだと思うんだ。それも、本物に夢中になりたい。すぐにメッキがはがれるような嘘っぽいものに、夢中にはなれない。どんなに時間が経っても、本物は人の心を裏切らないから。

曲名は「君が、嘘を、ついた」

でも曲は、嘘をつかなかった。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

山形県天童市まで、走り続けた!

平成16年9月の話。山形県の天童市まで走った。

茨城県の下館市から荷物を積み、当日中に天童市まで走るという引越の仕事だった。元請けの会社から個人で仕事をいただき、仲のいい運転手を助手につけて走った。8万円ぐらいの仕事。

*佐倉市を朝4時に出発 下館市で8時まで待機した

千葉県の佐倉市を朝の4時に出発。余裕はたっぷり取るのがやり方。現地近くには1時間前に待機、これが基本。

助手につけた彼はすごい運転手だった。秋田まで毎週トラックで3往復、今では考えられない仕事の仕方だった。一番信用できる相手で、時間が合えば、自宅で語り合う仲だった。

8時から積込みを始めた。引越というからには、既に用意ができていると思っていたが、なかなか仕事が進まない。手伝いの方は多くても、積む予定のものを当日に考えていた感じ。2㌧積載のトラックに天井まで満載にして、終わったのは昼の12時

*天童市までは 東北道と山形道を使った

これから天童市まで走り、荷物を降ろし終えなくてはならない。若さも十分、根性も十分の2人だったけど、不安もあった。とにかく走るしかない。コンビニで食糧を買いこみトイレを済ませ、最も近い入り口から高速道路に進入した。

トラックにはアルパインのデッキがつけてあり、今となっては化石のようなCDチェンジャーもつなげてある。助手の彼にCDを入れ替えてもらいながら、ひたすらアクセルを踏む。天気は上々、東北道の走りはなんとも爽快な気分になれた。

*東北道から山形道へと舵をきる

村田JCTから山形道に入り、さらに走り続ける。やがて左手に、蔵王の山々が見えはじめる。晴れていたから特に綺麗だった。

ただ、トラックが急な坂に耐えられなかったね。走らないんじゃなくて、重さに負けて加速できなかった。そんなにエンジンが強い車輛じゃない。左側の登板車線に移り、ハザードランプをつけながら低速で走った。時速20㌔ぐらいだったと思う。

天童市内の目的地に着いたのは17時半ノンストップで、トイレ休憩もなし、燃料補給もなし。さっそく荷物を降ろし始める。

すべてが終わったのは、19時すぎ。

*天童でおりて天童市内に向かった

実を言うと、この引越は訳ありだった。事故で旦那さんを亡くされた奥さんが、実家に戻るために荷物を先発させたんだ。天童市のご自宅には、お婆さんらしき方と幼い兄妹の3人が、自分たちを待っていて下さった。

お茶をいただき、幼い兄妹たちと別れた。彼等の父親が亡くなったことを感じさせないぐらい、明るく話しかけてくれた。今でも思い出す。だから、その時を忘れないように、いただいたお礼で記念の時計を買った。時計は今でも元気でいる。

7時間半ぶりにトイレに行った。すべてを終えて、健康センターで汗を流した。コンビニにトラックをとめ、荷台で宴会をした。彼は荷台で毛布にくるまって眠り、自分はキャビンで鍵をかけて眠った。今思えば薄情なことだったが、彼は熟睡したらしい。

*いただいたお礼で 記念に時計を買った

翌日は5時に起床、佐倉市に向けて走り始めた。高速は使わない。一般道をひたすら南に向かって、ただ走り続けた。

今となっては、忘れられない素敵な思い出だ。でも、同じことは二度とできない。

あの時手伝ってくれた彼は、何年か前に消息が不明になってしまった。どこかで元気でいてくれればと、それだけを願っている…。

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人生経験 俺の考え 日常生活 映画 男はつらいよ

おおらかな時代だった。

映画「男はつらいよ」第8作、「寅次郎恋歌」の最後の場面。

おおらかな時代を感じない?

*旅の一座がトラックの荷台から宣伝活動を

寅さんが旅の途中で、以前会った旅の一座と再会するところだ。一座は、トラックの荷台に乗りこんで宣伝の途中。寅さんと、偶然に居合わせたって感じ。一座が勧めるままに、寅さんも荷台に乗り込んで、一座との楽しい時間を過ごすって寸法。

荷台に乗っていると言えば、映画「となりのトトロ」の冒頭、さつきとめいの2人が荷台にいた。三輪トラックの荷台の上、引越荷物の間にいるわけだ。警官がいると思ったさつきがめいに隠れてと言う。この頃でも、合法ではなかったってこと?

まあ兎に角、この荷台に乗るという場面があるってことは、実際にもやっていた人がいるってこと。100mとか200mとかの短い距離の話じゃない、長い距離の移動についてだよ。

*荷台にいる姿が はまっている感じ

実は、自分にもその経験があるんだ。もちろん、小さい頃のこと。小学2年生ぐらいの頃だったかな。

ある時、伯父夫婦が代沢の伯父の実家から、神奈川県の大船まで引っ越すことになった。伯父というのは、母親の兄にあたる人。距離にすれば片道で50㎞ぐらい。あの時、距離の感覚なんてあるはずがないけれど、けっこう長い時間乗っていた気がする。

さすがに高速なんかでは行かなかったよ。国道や県道だけ。荷台には祖父と2人だけ。荷台に乗っていこうか、祖父の一言で乗りこむことになった。自分の記憶が正しければ、はなかったと思う。が見えていたし、髪の毛がになびいていたからね。

*ひざ掛けまである 荷台乗車は当然?

都会じゃなければ、今もこんなことをやっているのかな?

引越のトラックには、引越主のお客様でさえも、助手席に乗せてもらえなくなったな。引越の仕事もしていたことがあるけれど、20年ぐらい前なら、まだ大丈夫だった。一緒に乗ることで、いろいろな話ができて、楽しかったのを覚えている。

お客様から差し入れをいただく前に、自分の方から、飲み物をいかがですか?なんて言って、クーラーボックスの中から選んでもらったりしてね。たった一日の関係でも楽しかったよ。

*さあ 楽しい時間のはじまりだ!

何でもかんでも、時代のせいにするつもりはない。当時と比較すれば、車の量も増えた。安全という点からすれば、荷台に乗り合う時代じゃない。ヘルメットでもすればいいかって、そんな冗談が通じる時代でもない。

仕事によっては乗り合うこともあるだろうけど、交通安全を守ることが一番大切だろう。

ただし、一つ言えることがある。「男はつらいよ」にしても「となりのトトロ」にしても、こういう荷台に乗るという場面がなかったら、映画の味も変わっていたってこと。

時代だけでは語れない、なにか温かいものがあったと思うんだ。

おおらかな時代だったよね。

*寅さんの笑顔 一座の笑顔 楽しいが一番大切