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人生経験 俺の考え 趣味 音楽

X JAPAN に思う。

X JAPAN が好きだ。

何が好きかって、その世界観がだ。YOSHIKIが創る作品が中心だとしても、あのメンバー達がいるからこそ、YOSHIKIの世界も成り立っているんだろう。

*まず ジャケットからして目を奪われる

」を歌っていたXの頃は、ビジュアルのイメージも強くて、音楽も激しいものが中心だと思っていた。「紅」という曲はまさに燃えるような紅そのもの。が見えるような曲だった。

アルバム「Jealousy」の中で「Silent Jealousy」に、その激しさの流れは引き継がれている。

だが、YOSHIKIのすごいところは、同時に「Say Anything」という素晴らしいバラードを送り出したことだ。TOSHIの声も美しく、奏でられる音も胸に響きわたる。

*最初に感銘を受けた雄大なバラード
*どこから こんな曲がうまれてくるのか…

X JAPAN になり、「ART OF LIFE」という大作を送り出す。

この曲はたった1曲で29分近くある。初めて聴いた時は、いつ終わるのかと思ったが、動と静のからみあいが見事としか言いようがなかった。ここまでくると交響曲だ。才能があるということには、時として畏怖の念を抱いてしまう。

*この1曲で29分にも及ぶ もはや交響曲だ
*10分前後の間奏に まず魂がいった

始まってから10分前後のところでの間奏は激しい。ここでまず激しさにしびれる。そして、15分ぐらいのところから10分間にも及ぶ YOSHIKI のピアノ独奏。まるで舞台の世界だ。終わってまた激しさをのぼりつめる。魂はすでに昇天している…。

この次に送り出されたのが、アルバム「DAHLIA」。

かの有名な「Forever Love」も収録している。この曲の素晴らしさと美しさは言うに及ばない。バージョンも多いし、どのバージョンで聴いても完成度が高い。

だが、ここで聴いてほしいのはタイトル曲「DAHLIA」。

ただ聴いていただければいい。人の音楽の趣味は様々だけど、音楽を語るには幅広いジャンルに耳を傾けることが大切だ。この曲を聴くと魂が沸騰する。色褪せるなんて言い方は神への冒涜だ。

*タイトル曲DAHLIAは 激しさの中に美の極致が
https://youtu.be/0ePQnCUhFTE
*ただ見とれるだけ…

何よりも自分が言いたいのは、やはり音楽の世界も、動と静をからみあわせられてこそ、そこに価値が生まれるってこと。動の激しい音と静のバラード。この両方が出来る音楽家たちは、時代を超える音楽を残している。

もちろん、あくまでもその人の世界観の中でね。

動的な音だけ、静的な音だけ、偏った音楽だけでは人間の感情を表現しきれないと思う。

人間は激しい喜怒哀楽の中で生きる動物だ。いつも楽しいばかりではないし、いつも哀しいだけでもない。様々な感情の中で生きることを強いられている。

音楽は人間の感情そのものだ。X JAPAN の音楽はその感情を見事に表現できている。だからこそ涙も流せる、自分はそう思っている。

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オフコース 人生経験 俺の考え 趣味 音楽

オフコースの、言葉にできない とは。

言わずと知れたオフコースの名曲、「言葉にできない」。

この曲を知ったのは、彼らが活動を休止していた時、中学2年の時だったろう。先日お話しした、「君が、嘘を、ついた」に衝撃を受けた後のことだ。鈴木さんが抜けて4人になってからの曲を先に知り、後追いで5人や2人の時代の歌を覚えた。

*1982年2月に発売 通算23枚目のシングル

詞を普通に読んでいけば、ろくに恋愛も知らない中学生でさえも、きっと感じるだろう。これは恋愛の曲だ、失恋の曲だって感じにね。

一般的には、そんなイメージで一人歩きしていると思う。特に今の時代にCMとかだけで聴いたりすれば、そう思っても当然だ。

大学3年の時に、小さな塾で講師のバイトを始めた。塾長は京都大卒の方で、大学紛争当時に学生時代をすごしていた。よく音楽の話もした。オフコースの歌っていうのは裏返しなんだよ、そう話していたね。理解できたつもりで耳を傾けていたよ。

裏返しの意味を理解できたのは、社会人になってからかもしれない。それは自分の中で、オフコースの歌を単に綺麗な歌として聴いていたかったからだと思う。大好きなアーティストの曲を、研究材料にするような聴き方だけはしたくはなかったからね。

*長いこと 恋の歌だと思っていた

オフコースは3人が2人になり、5人で大ブレイクして一旦活動休止、4人で復活して解散の道をたどっている。爆発的にヒット曲を連発した5人の時代よりも、実は2人や4人の活動期間の方が長いんだ。もし今5人のまま続けていたら、どうだったかな?

その5人の時代が終焉間近の頃に、小田さんが書いたのがこの曲だけど、歌われている内容の真意は小田さんにしかわからない。

ただ、自分は次のように解釈している。失くしてはならなかったはずの戦友、鈴木康博さんに贈った裏返しの歌であると。

*収録されたアルバム名は over 意味深い…

終わる筈のない 愛が途絶えた いのち尽きてゆくように」⇒ 君と別れるはずがないと思っていたのに、本当に別れることになってしまった、まるで僕の命が消えて行ってしまうかのよう。

ちがう きっとちがう 心が叫んでる」⇒ 君は嘘を言っている、そんなことはあるはずがないんだ。

ひとりでは生きてゆけなくて また 誰かを愛している」⇒ 音楽を歌うことを続けたいけど、やっぱりひとりではできない。

せつない嘘をついては いいわけをのみこんで」⇒ 自分を慰めるために嘘をついて、情けなくなっていいわけをのみこんでる。

果たせぬ あの頃の夢は もう消えた」⇒ 思い描いて来た夢は果たせない、夢はもう消えていってしまった。

誰のせいでもない 自分が小さすぎるから」⇒ 君を引きとめられないのは誰のせいでもない、自分が小さすぎるから。

それが くやしくて 言葉にできない」⇒ それが本当にくやしくてしかたがない、言葉にすることができないよ。

こんな感じで、勝手に理解して聴いている。「言葉にできない」の中に、小田さんが鈴木さんへの思いを、恋愛を隠れみのにして歌っている、こう思うわけなんだ。

でも、こう考えると、それこそ詩の勉強をしているみたいだよね。要は、小田さんの詞が一つの文学なんだよね。本当に奥が深い世界だと思う。

特に自分が好きだから、それだけじゃない。小田さんを始めとして、この当時の音楽家たちの詞は本当に奥が深いんだ。そして何よりも、日本語がとても綺麗。メロディ無しで、詩集として楽しめる作品も多い。

語り継がれる歌というのは、やはり、奥深い意味があるんだ。

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人生経験 俺の考え 健康 入院日記 2016年冬 日常生活

健康であるために、考えてみた8つの心得。

2016年に、右肩の手術で入院した時は、スマホに頼らない生活をしていた。というよりも、SNSとのつきあいはまだ浅く、ツイッターにも登録していなかった。自宅でのネットの使い道も、音楽鑑賞や映画鑑賞、それと通販ぐらいだった。

41日間もの入院期間中、何をしていたのか。思い出されるのは、と話をしていたことと、を読んでいたことの2つかな。そして、健康であるために考えた心得がある。

*仲が良かったトラック修理屋さんから

去年の夏の入院時は新病棟で生活したが、前回は旧病棟集団部屋で生活をした。隣のベッドとの間隔は少し狭く、けっこう気を使っていた気がする。その分、患者同士の距離も近く感じられ、いろいろな人と話をすることができた。

新型コロナウィルスの影響みたいなものはなかったし、口を大きく開けて語り合えたね。今回の入院時のように、気を遣って話すなんてことはほとんどなかった。話をしたい人間は見晴らしのいいところに集まり、誰かしらと話をしていた。

*旧病棟からは真正面に日の出を見られた

その中に、80歳の奥さんがいらした。元気すぎて仕方ないって感じの。自分より1週間以上は後に手術したのに、早く退院したいが口癖だった。スポーツ好きで、肉食むきだし。他の奥さんたちも交えての話は、朝昼晩と続いていたと思う。

41日間の入院中に、その方も含めて41人と話をしていたと言ってもいいぐらいかな。看護師さんやヘルパーさんを含めればそれ以上になる。院内の生活に、それほど充実感を味わっていた。人との生のふれあいは、今回とは比較にならない。

*退院前に仲の良かった方達から

自分は人見知りをしないから、誰とでも話をする。話をして相性が合わないと思えば、距離を取ればいいだけの話。とにかく、人の関係は話すことから始まると思っている。まず話をすることから始まる。

ただ患者さんは、大体の人がを持て余している。話しかけられて、真っ向からいやな気持になることはないかもね。

そんな毎日のまとめとして、自分のために「元気なための8つの心得」を作ってみた。話をした皆さんから自分が感じたことを、簡単にまとめてみたらこうなったわけだ。

*当時 手元にあった名刺に速攻で書いた

1.適度な筋肉をもつ
2.好奇心をもつ
3.前向きな気持ちをもつ
4.数字と向き合う
5.何かを生み出す
6.やりたいことをやる
7.他人と比較しない
8.生涯、現役の精神


順番に意味があったのかは思い出せない。

でも、5年近くたって読み直してみても、何かしら役に立ちそうな気はしている。言葉にして残すことは、大切だと思う。

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俺の考え 日常生活 食事

やきとり缶で、炊き込みご飯を作る!

新入社員の頃、同期の仲間に教えてもらった炊き込みご飯。用意する材料は、お米2合とやきとり缶を1つだけ。楽ちんだよ!

1.HOTEIやきとり缶たれ味を用意する。HOTEIの缶詰とは長いつきあいをしている。

2.たれ味を選ぶのは、濃さがちょうどいいからだ。ふたを開けた時の香りに食欲がUP。

3.具を少しこまかく刻んでおく。スプーンなどでおおざっぱにやっておけば十分だ。

4.缶詰1缶に対して、お米は2合がちょうどいい。はちょっと少なめに思えるぐらいがいい。

5.やきとり缶の中味をすべて入れる。具は量はそんなに多くないので使い切る。

6.缶の中に水を少しだけ入れてかき混ぜる。缶の中にたれが残らないように使う。

7.やきとり缶の中味とお米が、よく混じりあうようにしっかりとかき混ぜる。

8.白米と同じように普通に炊きあげる。シンプルなお釜だから余計なボタンは無い。

9.よくかき混ぜてほぐす。かき混ぜると全体の色がうっすらと茶色になればいい。

10.お茶碗にもって、いただきます!少し薄口なので、醤油をたらしするのもいい。

HOTEIのやきとり缶種類が多いので、他に試してみるのもいいかもしれない。

終・わ・り。

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俺の考え 日常生活 食事

街の肉屋さんで、コロッケにホクホク。

今年になって、京成佐倉駅の近くにある肉屋さんに、よく行くようになった。店名は武田肉店さん。歩いて行ってもいいし、車で行っても大丈夫。目の前の道路は、駅に向かって下り坂の一方通行、かなり広く、短い時間なら停車も問題なし。

目印は馬のマークと店名。わかりやすい場所にある。肉屋さんなんだけど、今なら旬のタケノコもおいてある。馬のマークからもわかるが、馬刺しも売りのようだ。実はまだ食べていない。次回は買ってみる予定だ。どうも揚げ物ばかりに目がいってね。

*すっかり常連の一人になった感じだ

通常は、年配のご夫婦だけがいらっしゃる。ご主人は温厚そうな感じの方で、奥さんは日舞をやるような気品のある方だ。お二人とも、いつもニコニコして迎えて下さる。

*自宅で開けた時に 型崩れしていたことがない

まず、このお店で気に入っていることは、包み方だ。スーパーのお惣菜売り場とは違って、その場で包んでくれる昔ながらのやり方。この包み方に長年にわたる、経験の積み重ねを感じる。自宅に戻って開いた時に、まず型崩れしていることがない。

*店主がお薦めする 栗コロッケ

一番のお薦めは、栗コロッケらしい。値段は他の揚げ物よりも少しだけ高め。薄く紫がかった中心に、が入っている感じ。甘い味がさっぱりしていて何とも美味しい。

*メンチカツも手作り感があって美味しい

メンチカツは少し薄く感じるけど、熟練の昔気質な味だね。適度に柔らかくて、口の中でとけるような感じかな。油は多過ぎず、上手く揚げられている。

*ハムカツはかなりぶ厚く 直径が13㎝くらい

このハムカツ、直径が13㎝くらいあって、けっこう大きい方じゃないかな。ハムは噛みごたえがあって、フォークとナイフを使って食べても似合いそうな感じだ。

*自分としては やっぱり牛肉コロッケが好きだ

でも一番好きなのは、やはり牛肉コロッケ。牛肉というよりもジャガイモコロッケって感じもするが、細かいことは気にしない。食べた瞬間に自分のイメージするコロッケそのもの。口の中に広がるホクホクしてくる感じが好きだ。

キテレツ大百科の「お料理行進曲」を思い出してしまったよ。

帰り際に奥さんが笑顔で言う、「いつもありがとうね」。コロッケのホクホク感を感じるような嬉しい一言。この一言だけでも十分に満足。いつまでも元気に商売を続けて欲しい。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

新人研修の仕上げは、お寺の中で。

1993年4月1日、西濃運輸株式会社に入社した。

入社式は、岐阜県大垣市にある本社で。実際には、垂井町にある研修センターで行った。のどかな場所にあったよ。

父が転勤族だったこともあり、引越が多かった自分。母方の実家は東京の世田谷区にあったが、都会すぎて故郷というには遠い場所だった。今思えば岐阜は、自分が初めて経験した、故郷と感じられるような場所だった。赴任当時は気づかなかったけどね。

*西濃運輸のカンガルー便 夜の高速を彩った

研修は4月から6月末までの3ヶ月間だった。細かい内容は省いて、最後のお寺での研修について話したい。

当時はまだバブル経済が崩壊したばかりで、企業は新人研修にお金もかけた。その代表が、お寺自衛隊での研修だ。高校時代の親友が、卒業と同時に海上自衛隊の幹部の道に進み、自分が社会人になった頃には、自衛隊研修の教官をやっていたぐらいだ。

西濃運輸はお寺研修を行った。先輩いわく、この先味わえないかもしれないぞと。確かにそうだった。この歳になっても、2度目の経験をしてないからね。俗な話だけど、2泊3日の研修に会社は80数万円支払うとか。同期40人弱の研修代金としてね。

*ボンネットトラックのチョロQと独身寮の鍵

初めての経験とは言え、驚くことばかり。時間を知る必要はないからと時計は取り上げられた。起床時間も就寝時間も謎。音も出してはいけないから、おしゃべりも禁止。朝から晩まで座禅の繰り返し。肩を叩かれたら首を傾けて強く打ってもらう。

音を出してはいけないからシェーバーも使えない。カミソリを持ち合わせていなかったから、研修が終わった時にはまるで別人。お風呂はグループごとで一人平均5分だけ。どこを洗っていたのか記憶もない。もちろんドライヤーなんか使えない。短髪万歳!

時計を隠し持っている奴がいて、朝は3時から起こされて座禅を組んでいたらしい。食事は薄口。最後まで必ずたくあんを1枚残し、それをたわし替わりにして水をつけて茶碗を洗う。洗った水は飲み干す。夜中になると、多くの仲間が腹をこわした。

2日目の昼からは、闘犬みたいな犬を連れた、あたかも山伏のような坊さんと山登り。登り切った時は、さすがに気分良かった。3日目の昼までで研修は終了。その日の午前中に、住職の御母堂さまの指導で書経を行う。もう終わりだってわかっていたせいかな、筆先への集中力が高まって、文字も踊っていた感じ。

*ここまでやるとは 研修時には思わなかった

まあ終わってみれば、楽しかったって思えた。本当に二度と経験しないんじゃないか、そうも思えた。寮までの帰りのバス、盛り上がったね。戻って2日ぶりにひげを剃った時は、この世の天国を感じた。その晩に仲間と飲んだお酒は、本当に美味かった。

お寺の研修は、今もあるんだろうね。企業も余裕がない時代だから、研修に組み込んだりはしないかもね。

*映画「ファンシイダンス」を思い出した

でも、経験できる時があるなら、経験した方が自分のためになると思う。あの時ほど、俗世間から切り離されたことはなかった。どんなに綺麗ごとを並べても、日常生活は邪念に囲まれている。研修に限らず、時には日常から自分を切り離し、客観的に自分を見つめ直すことは大切だと思う。

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人生経験 仕事 俺の考え 日常生活

労働の帰り道、電車の席に座れなくて…

大学1年と2年の頃は、肉体労働のバイトをしていた。

2年間は教育課程にあって授業も多かったから、週末の土日だけ働いていた。通常は渋谷の本校で授業を受けていたが、週に一度だけ体育の授業があったので、その際には東急田園都市線のたまプラーザ駅まで行って、新校舎で終日過ごした。

父母と妹は高校2年の時からアメリカにいたので、浪人が決まった時、2年間過ごした下宿を出ることになった。落ちついた先は、千葉県船橋市にあった父の会社の寮。今はその寮もなくなっているが、ホテルみたいな所だった。その話はまた別の機会に。

*映画「息子」から 車内が暑い 団扇であおぐ

その寮を起点に、週末だけ、日払いや日給月給の肉体労働をこなしていた。その頃はまだバブル経済まっただ中で、学生でも仕事はいくらでも入った。ただ今と比べれば安かったな。実質労働8時間で1日6,000円、時給にして750円だった。

自分の高校はバイト禁止だったから、バイトをしてお金がはいることは嬉しかったね。だから、週末は夢中で体を動かした。離れた場所でも仕事もしたな。日曜とかに、電車で往復4時間かけて船橋から横浜まで仕事に行ったりね。深く考えなかったな。

言うなれば、10代の若さってやつだろうね。月曜から金曜まで授業はしっかりと出て、土日はみっちりとバイト。でも、佐賀県から出てきて新聞屋さんに住み込み、朝晩の配達をこなす立派な仲間もいた。それに比べると、恵まれた環境にあったと思う。

*映画「息子」から バイトはこんなイメージ

日払いの仕事なんかでは、ロッカーは使いまわし。前日に誰が使ったかもわからない。ひどい匂いがした時もあったね。路上生活者もバイトに来ていて、風呂に入らない人間も多かった。夏なんかは大変、戻ってきたら荷物に匂いが移っていたりしてね。

それでも、お金がもらえることが嬉しかったから、季節に関係なく大汗をかきながら働いていた。

夏のある日、渋谷から山手線に乗って品川まで行き、大井のコンテナ埠頭へ。そこからコンテナトラックに乗って、引越作業の助手をした。このコンテナの中が暑い。鉄板の箱がまともに陽を吸収するから、中での作業は体が燃える。汗を流しクーラーで乾かしての繰り返し。夕方、埠頭に戻った時は、作業着は真っ黒になる。大雨もあったりで、すべての汚れを吸収したような感じ。

*映画「息子」の設定は 当時の状況と同じ

帰りの山手線の中、あまりに自分が汚かったから、座席に座るのに気が引けた。座っちゃいけない気がしたんだ。対面の席だから特に嫌だった。立ちんぼで渋谷まで行く。渋谷から事務所の代々木まではバスだ。もう疲れに耐えられなかった。席は前向きだったし、空いていたから座ることにした…。

悪いことをしてるはずなんかないんだ。しっかりと働いて来たんだから、恥ずかしいことなんて何もない。そもそも作業着についた汚れは誇るべきものなんだ。でも、その汚れが座席にしみつくような気がして、電車の中では座れなかったんだ。

汗して働くというのは尊い。まだ、よく世の中を知らない学生だったが、おかしなところで社会人ぶっていたのかな。

その尊さを自己主張できるほどには、自分は大人になり切れていなかった。今となっては、純粋な思い出のひとつだ。

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歴史に学び、経験にも学ぶ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。ドイツの鉄血宰相、オットー・フォン・ビスマルクの言葉だ。見事だと思う。

こんな言葉も残している。

「青年に勧めたいことは、ただ3語に尽きる。すなわち『働け、もっと働け、あくまで働け』だ」。こちらは、今の時代なら否定されるのかな?

*ビスマルク体制と呼ばれる国際関係を築いた

ともかく歴史上の大人物たちは皆、後世に立派な言葉を残している。ビスマルクの言葉通り、人間が歴史に学ぶことは極めて大切なことだ。歴史に学びきれないから、人間はいつまでも同じ過ちを繰り返している。過ちがエンドレスに思えるね。

だけど、やはり経験だって大切だ。誰もが等しく地球上の歴史を学びきれるなら、この世はいつだって春を感じているはず。それができないでいるから、主義主張を認め合うこともせずに、地球上のどこかで毎日戦争を続けている。

歴史は学び続けるものとして、やはり経験からもしっかりと学びたい。なにも自分だけの経験に限る必要はない。他人の経験から学ぶのだってありだ。映画の中の主人公から学んでもいい。経験はどんなところからだって学べるはずだ。

*映画「ROCKY THE FINAL」の小説版

例えば、映画「ロッキー」からもたくさん学んだ。

このロッキーシリーズの最終作「ROCKY THE FINAL」。ロッキーが共に歩んできた愛妻を亡くしている。経営するレストランは順調だが、妻を亡くした後の心の穴を埋められずにいる。もう一度、リングに立とうとする。60という歳で。

焼きが回ったなと笑う世間に耐えられず、息子がロッキーに試合の中止を進言するわけだ。その時、息子に吐いたロッキーの言葉が深い。

*映画のセリフに感動し 小説のこの部分に感銘を受けた

人生は晴れの日ばかりじゃない。リングの上でたくさんのパンチを受けてきたが、人生というパンチほど重いものはない。どんなに打ちのめされても、自分の価値を信じて前に進め。パンチを恐れるな。自分の弱さを他人のせいにするな。卑怯者になるな。

自分はロッキーの言葉をこんな感じでまとめ、大切にすることにした。丁度その頃は、特に歯を食いしばって仕事をしていた時期で、冬でも半袖1枚で十分だったくらいに頑張れた。その時のあだ名は鉄人だ。ポンコツの今とは比較にならない。

映画の中の主人公さえも、その経験の中からたくさんの大切なことを教えてくれる。ましてや命ある人間からなら、もっと学べるかもしれない。常に謙虚な自分であるかぎり、経験は向こうから扉を開いてくれるはずだ。

*人生で受けるパンチは リング上で受けるよりも重い

歴史に学び、経験にも学ぼう。人間ひとりの人生などは、たかが知れている。人の経験を聴くこと自体が、また自分の経験に組み込まれていく。経験の連鎖はエンドレスだ。経験の積み重ねがやがて、ひとつの大きな歴史になる。

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父親にとってのJAL、日本航空。

父は今年の夏、82歳を迎える。

心臓の手術をしてから早くも12年が経った。心臓の機能をいったん止めて弁を人工弁に変えた。見た目は普通だが、障害者手帳を携帯して暮らしている。先生は15年はもつと話していたから計算上は残り3年。今では、すっかり小さくなった気がする。

*若き日の父と自分 どこだったかな…

そんな父の誇りは、JAL、すなわち日本航空(以下 日航で)だ。

兄弟が何人いるかも知らず、里子に出された貧乏からのたたき上げ、商業高校卒で日航に入社できたのは幸いだった。何と言っても当時の日航は、東京六大学卒の社員がひしめいている時代で、さらに半官半民、伸び盛りの会社でもしがらみは多かったはず。

だが父は、日航にすべてをかけるつもりで働いた。東京六大学卒の社員をしり目に、50歳の中頃には取締役になっていた。町内名簿などには在籍中は平社員で通したが、人事権さえ有する立場だった。会社の肩書よりも、会社で働くことを愛していた。

お蔭で自分も妹も、苦労することなく大学まで卒業することができた。逆に社会に出てからその反動は大きく、甘えを断ち切るまでは苦労することになった。とは言っても、何度も話すように、必要な時に父は、容赦なくその手をあげた。痛かったね…。

*貴婦人と呼ばれた ダグラスDC-8

父は国際線の地上部門の総合的な事務職だった。羽田・成田・福岡・関空、海外ならコペンハーゲンとアトランタ。インドでの研修に出かけたりもしていた。日航は、父のすべてだった。

だから、あの日、日航が消えた2010年は辛かったと思う。

63歳まで5年間勤め上げた子会社も退職して、年金暮らしに入っていた時だ。年金が減額された上、日航に未来が見えない。父はその身を、半分持っていかれたようなものだったと思う。

そもそも日航は、JASを吸収合併して鶴丸のマークを捨てた時、先行きが危ないように思えた。時代に合わないような拡大路線は、戦時の大艦巨砲主義そのもの。フットワークもまるでなくなっていた。その結果、数年で身を持ち崩したわけだ。

同じ年金暮らしの人間の多くが愚痴をもらす中、父はこう言っていた。若い社員もみんな頑張ってるんだから、と…。

2012年、日航は再び上場を果たす。その後、鶴丸のマークも現代的にアレンジされて復活した。正直言ってあの時は、父よりも自分の方が嬉しかった。子供の頃から見ていたんだ。どこに行っても、鶴丸さえあれば安心できたんだから。

*映画「男はつらいよ」にも よく出演した

この鶴丸のマーク、正面から見た鶴じゃないよね。鶴が少しだけ体をひねっているん感じなんだ。そこがまた素晴らしいんだ。このデザインを考えた方たちは、本当にいい仕事をしたと思う。このままずっと、変わらずにいて欲しいと思っている。

日航は復活したが、新型コロナウィルスの影響下、その営業はまた厳しい中に置かれている。一度あることは二度あると言う。父が人生の半分をあずけ、愛し、そして誇りにしてきた会社が倒れる姿は二度と見たくない。

いつか先に旅立つだろう父が、その古き良き思い出を、思い出のまま連れて行けるように、日航、いや、JALの方々には頑張ってほしいと思っている。

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痴呆症だった祖父が、残した教訓。

20年前に祖父は亡くなった。87歳だった。

亡くなる直前に会うことができたが、それまでの数年は仕事が忙しく、ほとんど会えずじまいだった。

祖父は、最後の4年間ぐらいだったかな、痴呆症で晩年を過ごしていた。6歳下の祖母が、ほとんど一人で世話をしていたことになる。時には自宅を抜け出し街中をさ迷い、道につまずいて倒れ、血を流していたこともあったらしい。

*在りし日の 祖父と祖母…

自分は岐阜県の大垣で仕事漬け、あるいは佐倉で新しい店所の開設委員だったりと、忙しい毎日を過ごしていた。会社を退職して会えた時、すでに最後を迎えていたわけだ。あれだけ世話になっておきながら、義理に外れていたかもしれない。

だが祖父は、大切な教訓を残してくれた。言い方が悪いかもしれないが、痴呆症に対する大切な教訓だ。自ら考えて何かを生み出すことが大切だということ。受け身だけの生活では痴呆症になりやすいこと、それを祖父は身をもって教えてくれた。

そもそも祖父は、幅広く趣味をもっていた。

小学2年の頃、祖父母の家に預けられて暮らしていた。毎週日曜日になると、祖父と2人で渋谷新宿に出かける。目的は絵画鑑賞が中心。渋谷なら東急本店、新宿なら小田急デパートなど。出かけるたびに、美味しいものにありつけるので楽しみにしてた。

祖父は大正生まれのハイカラな人だった。晩酌は決まってワイン、つまみの甘納豆さえ渋谷まで買いに行く。味にこだわる人だったね。ちなみに最寄駅は下北沢、夕方になると、会社帰りの祖父をひとりで迎えに行く。改札から出てくる祖父を、ハチ公のように待っていたもんだよ。

*写真も脳を活性化させる 1年前の京成スカイライナー

絵画鑑賞以外にも、庭に灯篭をおいて眺めたり、文鳥を飼ってみたり、そうそう、掛け軸とかも好きだった感じ。本当に多趣味な人だったね。祖母が地味な人だったから、趣味のためにお金を使えたのかもしれない。73歳まで働いていたしね。

でも、ここで考えておきたいことがある。

それは、祖父の趣味は、ほとんどが受け身の形で、自ら考えて生み出しているものがなかったってこと。幅が広く多趣味ではあったけれど、亡くなった時に祖父の自作と言えるものが無かったに等しい。手に入れて眺め、感想をもって終わりだったんだな。

指先を器用に使っている人はボケない、そう言われる。指を一本ずつ動かすことで脳を活性化させるらしい。楽器を弾いたり絵を描いたり、あるいは文章を書いたりとかいろいろとある。それが非日常的なことで、ものを創造することにつながるのがいい。

*去年猫を亡くしてから 母はaiboを調教する

やったことのない新しいことを、可能な限り指先を使って行う。そんな時こそ脳が活性化し、ボケ防止につながるというわけだ。

自分としては、この考え方は正しいと思っている。

現実に、音楽家たちは音の追求を続け、もの書きをする方たちは言葉を著すことに貪欲だ。絵を描く方たちはより良い色を求めて長く描き続け、料理に生きる方たちも味の追求に余念がない。みんな、新しい創造をすることに努め、そこに終着点を感じない。

有名無名、業界人一般人とかは関係ないよね。自分がやってみようという気持ちになって続けること、それが大切だと思うんだ。

*母は絵を描くことに夢中で 実家の壁は絵でうまる

自分は今、本格的に書くことに目覚め、集中的に始めることで楽しむことを知った。77歳の母は絵を描くことに夢中だ。

互いに祖父の血を引き、互いに好奇心が強い。その好奇心が進むべきところは、自分で何かを生み出して行くという世界だ。

人生100年を意識するよりも、いかに健康充実した毎日を続けていけるか、それを追求する方がよほど大切だと思う。

いい意味で、祖父は教訓を残してくれたと思っている。