西濃運輸を退職した2000年の7月、自分はこの佐倉市に住んでいた。その時から1年9ヶ月くらい前に、会社が佐倉にトラックターミナルを開設、それに合わせて総務担当として赴任していた。その年の11月、昨年の夏に手術を受けた病院がある街で、地元の運送屋さんに就職した。
今日まで、大体11年ぐらいお世話になったと思う。その会社の社長は出会った時は40歳、やる気があふれおちてくるようなイメージをもった。バブル期の佐川急便出身で、社長賞も獲得したことがあるとか。他の企業に在籍中には、名を知られた宗教法人の複写機を、全国規模で乗り換えさせたこともあったらしい。
そもそも佐川急便に入った理由が、借金の返済のためだったらしい。最初の独立をした時に事業に失敗、家族を養うための一番の近道が佐川急便だったとか。バブル期だったから、頑張った分だけ金が入ったみたいだ。寝不足の毎日、信号待ちの間に寝て、鳴らされたクラクションで起きて又走るの毎日だったとか。
その時は、佐川急便の協力会社の仕事を獲得したばかりで、意気揚々としていた。佐川急便の出身者であるとかは一切関係なし。協力会社として登録されるまでに、かなりの時間を必要としたらしい。だから、依頼の電話が3度来て、すべて対応できなかったら2度と依頼は来ないからと説明を受けていた。
ちょうど会社が7年目に入った時で、自分は配車係として雇われていた。会社は当初は木材運びから始め、イベント関係にも進出したばかり。仕事に合わせて、平の荷台から箱形の荷台へとトラックが変わる途上。そこで決まった佐川急便との契約。孫請けから直請けに変わる。口癖は、仕事は直で請けるに限る。
事業を始めた頃、当然仕事は来ない。佐倉市内で知らない会社は無いと言えるぐらい営業しても依頼が来ない。何も仕事がないことが恥ずかしくて、空いた時間は、広い駐車場がある公園にトラックを隠すようにして営業していたとか。出会った頃も、寝る時は枕元に携帯を置き24時間対応、その携帯も常に2台あった。
入社した2日目に社長さんが運転するトラックに乗り、深夜、有明の東京ビックサイトまでイベント撤収の仕事に行った。ビックサイトの中にトラックを突っ込み、4台の自社トラックが並んでいる光景を見て、感慨深そうにしていたのを覚えている。後に自分もイベントの仕事をしたが、この時の経験も生かされた。
そんなわけで、会社を辞めた時、最初にお世話になった社長さんには、いろいろと学んだ。中でも一番印象深かったのは、賃金の支払い方法についての話かな。お金は大切かつ最も汚いものでもあるから、初めにしっかりと話をしておきたい、そう言われた。
もっともだと思った。どんなに綺麗ごとを言ったって、労働の対価はお金だけだから。頑張って得るものがあったのでお金はいりません、もしそういう人がいるのなら、自分は信用できないね。これだけのことをやったから、これだけお金をください、それぐらい言われた方がやる気も感じる。その方がよほど信用できる。
バブル経済期に流行った歌「勇気のしるし」。24時間戦えますかのフレーズに疑問は感じなかった。社長さんが成功しつつあった理由は、そんな気持ちで仕事をしていたからだ。半年後に独立するので辞めたが、その後長く仕事を頂くことになった。