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阪神淡路大震災、あの時をふりかえる1

あの日の明け方、岐阜県大垣市の独身寮で揺れを感じた。

築30年以上で老朽化が進んでいて、コンクリートガチガチの5階建ての建物。ガチガチに固まり過ぎていて、地震でも揺れないようなイメージもあったが、あの日は違った。ドーンと突き上げられるような感覚があった。すぐに収まった気もしたが、その後また、小さくドンドンが繰り返された。後日、震度4と知った。

日本で地震は何処にいても起こり得る。ちょっと大き目の地震だったのかなと考え、いつも通り会社に向かう。自分の出社時間はいつも早かった。本社は8時の朝礼で仕事が始まるが、自分はいつも6時半に出社。毎朝の雑巾がけがあったからね。それについては話をしたと思う。守衛さんに挨拶して、2階に上がる。

いつもと雰囲気が違う感じがした。普段なら6時半に出社しているのは、運行管理の部署だけ。やけに人が多くて、みんなが騒いでいる。長い中央廊下に集まっている。部署を仕切るパーテーションがいくつも倒れていた。長いもので20mはある。それが一気に流れるように波打つように倒れていた。みんなで起こした。

*当日の朝のニュースは ごく普通に始まった…

ただ事ではなかった。どこかで大きな地震が起きたのは間違いがない。どうも関西の方らしい。テレビが設置され情報が入り始める。神戸の方で大地震が起きたようだ。大きな火災も発生している。現在のようにネットも普及していなかったから、テレビの報道とラジオの情報だけが頼り。関西の店所にも被害が出ていた。

数千人規模で被害者が出ているとわかり始めた午後、若い社員が集められて出発の準備をしてくるように言われた。本社フロア全体の社員が対象。もちろん自分も選出され、夕方には1台の大型バスに押し込められて出発、行先は大阪の豊中崩れた店所撤去作業をするらしかった。大垣インターから高速にのった。

だが、すぐにバスが動かなくなった。当然だ。関西方面に向かう高速はすでに麻痺していた。15㎞ぐらい先にある隣の関ケ原インターでバスは一般道へ。ここからが長かった。運転手は先生と呼ばれていたベテランの本社運転手。大変だったろうな、今思うと、ほとんど動かなかったからね。自分たちは寝ていたのに。

*テレビの映像だけが現実を知る手段だった

前日の17時頃に大垣を出発して、豊中支店に到着したのは明け方少し前。途中で寄った餃子の王将、あの時のご飯はを忘れることはできないね。とにかく腹が減ってはなんとやら。みんな黙々と食べていたよ。食べ終わったら出発、渋滞はますます激しくなっていた。

豊中支店は豊中インターの近くにあって、神戸から離れていた。だが、トラックの駐車場になっていた1階部分に2階より上の建物が5階まで丸ごと落ちていて、荷物を積んだトラックはすべて箱ごとつぶれ、神戸から離れていたにもかかわらず、支店の状態がひどかったので周囲一体が危険区域にされた。

とりあえず毎日、ひたすら撤去作業。コンビニの棚には何も無かったが、3日ぐらいしてから銭湯での入浴はできた。5人ぐらいで川の字になって雑魚寝。夜だけは休み、馬鹿話をすることを活力にしていた。体調を崩したが休んではいられない。崩壊した建物からの荷物出しを続ける。高所恐怖症にも目をつぶった。

*社員が 裂け目に突っ込んで亡くなった

実はこの時、肝心なことを忘れていた。目の前の作業に集中するあまり、神戸の六甲アイランドに両親がいることをすっかり忘れていたんだ。携帯も無い時代だったし、お互いに連絡できる手段は固定電話だけ。両親は無事だったが、電話を受けたのは4日後のこと。ある意味では、これもまた若さだったのかもしれない。

「阪神淡路大震災、あの時をふりかえる1」への2件の返信

この時の揺れほど怖い!と思った経験はありません。大阪は、それでも震度4ではなかったかと記憶しています。情報を!と慌てて主人がつけたTV。しばらくして神戸が震度7であることを知りました。いろいろと思い出すのでここで止めておきます。

kumaさん、こんばんわ。

ご丁寧に、ありがとうございます。
あの時は大変でしたね。あの時の実家は被害を免れましたが、島から本土への橋が落ち、
人工海岸も沈下したのはよく覚えています。
自然には逆らえないことを学んだ時でした。

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