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阪神淡路大震災、あの時をふりかえる 2

両親からの電話を受け取ったのは、臨時に設置された公衆電話の1台から。当時はまだ、携帯電話は普及していなかった。2年ぐらい後に初めての携帯を買ったが、名古屋で買って岐阜に戻ったら圏外になるような感じだった。メーカーはKENWOODでデザインはカッコ良かった。今となっては捨てたことが悔やまれる。

両親の無事を知り、仲間と週末まで撤去や移動の作業を続けていたが、風邪をひきっぱなしのままだったので、夜はただ眠るだけだった。土曜まで頑張り大垣に戻ることになったが、おまけがついていた。業務命令で、月曜からまた一週間現場で作業しろとのことだった。日曜はしっかりと休み、月曜にまた戻った。

*こんな光景は 見たことがなかった

2回目は1年目の後輩が一緒で、自分と同じく個性的な人物だった。2人で組んで作業をしていたと思う。2週間目ということもあって、作業自体には慣れていたし、その場所での作業は順調だった。順調だったせいか3日目の水曜の朝、労務課から戻って来いとの連絡を受けた。後輩と2人で当日中に戻れと言うんだ。

あの時はすでに、新幹線が動いていた。岐阜羽島駅で降りる予定だったから、こだまに乗っていたのかな。自分の気持ちは、マグマが噴出する直前ぐらいの状態だった。3日で戻すくらいだったら、なぜ行かせたんだって感じで怒り心頭。車内で缶ビールを買って、後輩と2人で酔っぱらうまで飲みまくった。

*この設計が通ったことが不思議なくらい

駅に着いて、そのまま帰宅するだけなら良かったけど、一度出社しなくてはならない。それをわかっていながら酒を飲んで酔っ払っていた。本社にタクシーで乗りつけた。下はジーンズで上だけ社服。廊下ですれ違う人たちにニコニコしながら挨拶を交わし、酒の匂いをもらしながら、直属の労務課長の前に立った。

『なんで俺だけ戻すんだ!行けと言われたから頑張ってやろうと思って行って来たのに、なんで3日目で戻すんだよ!』

課長を課長と思わないような感じで怒鳴りつけた。怖いものなんてない、相手は現場を知らないんだから。締め切り作業も終わる寸前、その時は現場が優先されるべきだと信じていた。酒の勢いもあったけど、顔に出ないタイプ。しかもジーンズ姿。目立っていたね。怒鳴ってスッキリして、失礼しますと言って帰宅した。

*この光景だけは忘れられない

後日、別の仕事をしていた時、その課長が冗談まじりに言っていた。また、○○に怒られちゃうからよって。自分が会社を辞めた後も、仕事大好きのその課長は順調に出世し、取締役まで務めて退職したらしい。大学だけが東京、後は大垣だけで終わったみたいな方だったが、上司にも人間臭さが残っていた時代だったね。

結局その後、2度と手伝いに出されることはなかった。3年目に入る年だったし、仕事も忙しくなっていたからね。仕事で神戸まで行くことはなかったが、実家が神戸だったから倒れた阪神高速の横を通ることはあった。今でもよく覚えている。撮影された写真の通りの状態。あんな細い足で、よく支えていたもんだよ。

*店の車輛も荷物ごと こんな感じでつぶされた

それ以来、自分で仕事をするようになってからは特に、首都高速でも古い所を通る時は早く抜けたくなったね。渋滞ではまるなんてとんでもないよ。首都高の3号線なんか、ジグザグ構造の1本足で立っていて、渋滞になると揺れているからね。ここで地震が起こったらと思うと気が気じゃなかった。3階建て構造だしね。

人は、自然には勝てない。勝とうとしたり手綱を引こうとしたり、その時点で間違っているんだ。人は自然の一部に過ぎない。他の動植物と同じように、生かされているに過ぎないんだ。いかに自然の上に自分たちを乗せていけるか、それを考えることの方が大切だと思う。そうすれば、自然が語りかけてくれると思う。

忘れた頃に天災はやって来る。あれから各地で多くの地震があったけれど、自分は直接的な被害を受けたことがない。だからこそ人の経験は大切にしたいし、そうなった時に自分がしっかりと行動できるように、普段から準備しておきたいと思っている。

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