中学1年の時、父親が福岡空港に転勤になった。当時は転勤となれば、大体4年間と決まっていた。父親も福岡に行くのは初めてだったので、母と自分と妹の家族全員で引っ越すことになった。ただ、働く父以外は翌年に千葉に戻ることになっていたらしく、父が慣れるまで家族でついて行こうということだった。
当時は千葉県の八千代市に自宅があり、1年後に戻るとなれば人に貸すこともなかった。通っていた中学校では1年の1学期だけを過ごしたことになるが、簡単なお別れ会までやってくれた。まさか翌年に戻ってくるとは、その時点では自分も知らなかったわけだし、ありがとうなんて寂しそうにお礼を言っていた。
ちょうど夏休みだったので、転校先の中学校には2学期の始業にあわせて転入した。小学校は3回かわっていたから、小中学校で合計5つ目になったわけだ。父の転勤に伴う転校は当たり前のように考えていた。家族寮に近いところに中学校があり、それも小高い丘の上で気持ちよかった。福岡市立長岡中学校だったかな。
2学期が始まってすぐ、1年生はリクリエーションで大分県の由布院まで行くことになっていた。泊りがけで、貸し切りバスで行く。その時の自分は、深く考えていなかったのかもしれない。今では考えられないけれど、中学生ぐらいまで乗り物酔いがひどい子供だった。父親が航空会社なのに、飛行機との相性も最悪。
途中までは良かったんだけど、どうも気分が悪くなり始めた。しかも後ろに近い席だったから、なおさら酔いが回った。気づいた時には遅かった。隣に座っていた男の子のズボンの上に吐いてしまったんだ。相手も驚いた。隣の奴がいきなり自分のズボンの上に吐いてしまったんだから。前にいた先生も驚いて飛んできた。
「気持ち悪いなら悪いと言わんかい!」。隣の彼がそう叫んでいた。「ごめん」としか言えなかった。今思えば情けない話だ。気分が悪くなってすぐだったことは、まあおいておこう。気分が悪くなって吐いてしまうことが、転入したばかりの自分には恥ずかしいことに思えたんだ。見栄で我慢しようって考えてしまった。
夜にはキャンプファイヤーとかがあり、男の子や女の子も心配してくれた。だが、被害を受けた本人はそうは行かない。その後、学校生活の中でよくちょっかいを出してきた。体格も良かったから体当たりして来たりね。今で言えば、いじめになるのかな。不良と言われる輩も多くて、一緒になって手を出してきたよ。
ただ、そういう輩と対極にいる友達も多かった。自分がチョッカイを出されると、やめろよと言って守ってくれた。女の子もそうだった。見てるだけじゃなかったんだ。最近のいじめとかの状況を見ていると、自分が恵まれた環境にいたんだと思えるよ。今みたいな体格をしてはいなかったけど、不思議と耐えていたね。
親には話さなかった。話す気もなかった。親を心配させたくないとかではなくて、話すことでもないような気がしていた。毎日普通に学校に行って勉強し、入部していた陸上部で練習を終えてから帰宅する。夜は普通に食事をしながら、その日にあったことを話していた。でも、心配させるようなことは話さなかった。
千葉の中学校は校則も厳しくて、教科書を学校に置いていくなんてことは許されなかった。福岡では驚いた。真面目や不真面目なんか関係ない。かなりの生徒が教科書を机の中に置いて帰宅。だから黒い革の学生カバンはペッチャンコ。わざわざペッチャンコにするために、カバンの両側をテープでしめつけてあった。
自分はすべて持ち帰っていたから、カバンの中はいつもパンパン。そうしたら仲がいい友達さえ言っていたよ、○○君はサラリーマンみたいだって。ついたあだ名が「サラ君」。サラ金業者と間違えそうだった。あだ名がついたことは嬉しかったけどね。1年後に千葉に戻る日まで、自分はサラ君であり続けたんだ。
今思うと、それがイジメであっても、陰湿さはなかったと思う。子供の数が多いマンモス校で、不良と呼ばれる生徒の数もかなり多かったけれど、校舎裏でネチネチみたいなことはなかった。自分がそこまでの対象になっていなかったのか、サラ君としてのペースを守れていた。部活の先輩もおもしろくて、楽しかったよ。
そうしている内に冬を超えて春を迎え、2年生へと進級した。