夜勤専従者としての二連勤を終えた後、久しぶりに二連休になった。ちょうど土曜と日曜にあたり、世に言う週末の二連休ということになる。この仕事をしていると、日曜祭日とは無関係になってしまう。自分の希望休以外は、他のスタッフとのバランスを保ちながら、担当者がシフトを組む。365日が出勤対象日になる。
だが、週末に二連休になったとは言え、僕の生活が変わるわけでもない。7時頃に起床して雨戸を明け、まずは外気を感じて太陽を探す。太陽の光は、体内の時計を修正する意味でも非常に大切だ。雨戸を開けた瞬間に光が見えるのは、何とも気持ちいいもので、その日一日の幸先の良さを感じもする。太陽の存在は重要。
でも、よくよく考えてみると、僕の生活も随分と穏やかなものに変わって来ている。運輸業や建設業の時代は、3時や4時に起床するのが常だった。暗い内から仕事に出発する自分に自己満足さえ覚え、車で移動中に昇る太陽を見られることが嬉しかった。その頃と比べてみると、今の生活が何とも穏やかなものに思える。
そんな穏やかになった日常の中の貴重な二連休、出掛けるかと言えばそうでもない。これも、20代の頃などに比べると随分と変わってしまった僕の現実。大垣で暮らした頃には、14時頃から往復400㎞ぐらいのドライブにも勇んで出掛けた。20時には戻っていたから、ただひたすら走っていた。高速も快感だったね。
今の車は古くなり老いてしまったから、決してこれだけが理由ではないが、すっかりドライブとはご無沙汰。いや、本当は『男はつらいよ』的なドライブをしたいのだけれど、兎に角やりたいことが多過ぎて、時間も費用も捻出できない。休業も尾を引いてはいるが、籠ってやりたいことも多く、全く時間が足りていない。
先回にも話をした通り、夜勤専従で仕事をしていると、休みとしての時間は多くあるが、決して思い通りに体は動かない。夜勤はほぼ徹夜に等しいから、明けた日の昼頃には眠気に襲われるし、少し居眠りしたぐらいで眠気はなくならない。だから丸々一日が休みになって初めて、勉強などにも身が入っていくような感じ。
まあ、帰宅してから一旦寝ればいいのだけど、そうなると夜型の体に変わってしまう。それは極力避けたい。人の生活はあくまでも昼が中心で、25時間の体内時計も、太陽の光で24時間に調整する。だから居眠り程度に済ませて、可能な限り起きて出来ることをやっていく。その最たるものが、僕にとっては歌うことだ。
歌っていると時間も忘れるし、溜まっているはずの疲れさえも忘れられる。近頃はアプリを使って何度も同じ曲を練習する。その日の最高の満足を得られるように歌を録音する為、あっという間に2時間は流れる。気がつけば窓から見える空は夕陽に燃え、満足と反比例して疲れは倍増する。夜の熟睡にはベストな状況に。
熟睡はいいが、やりたいことは持ち越される。夜勤中に読めなかった日経を遡って読み、見たい映画やアニメも鑑賞。本も読みたい、掃除もしたい。必要としている勉強もしたい。これらを一日で収めるためには、休みの日にもカリキュラムが必要になる。生活空間は、あたかも学校のようになり、引き籠りも当然になる。
こうなると足腰が弱くなる。だから車通勤をせず、風景を楽しみながら歩いて仕事場まで往復する。往復4㎞ぐらいだから大したことはないので、休みの時は自宅でスクワットもする。17歳の頃から欠かしたことがない腕立て伏せを、カリキュラムの合間に繰り返す。結果的に、1月中旬から体重を4㎏は落としている。
こうして僕の休日は、隙間のない一日へと変わっていく。でも二連休なら時間に余裕があるのでは?ところがそうはいかない。映画鑑賞なら、見る本数を増やしたい。日経なら、じっくりと読みたい。勉強なら前倒しでやりたい。それぞれが更なる充実感を求めてくる。二連休などあっという間、全く時間が足りていない。
凡人の僕がこんな状態なんだから、世のやり手の経営者達はさぞ忙しいことだろう。朝令暮改は当たり前、やってもやっても満足のいく仕事をする為にも、時間が足りないことを嘆いているのかも知れない。いや逆に、仕事が出来る人達は時間を有効に使えているはずだから、凡人の悩みを理解することが出来ないのかも。
と言うわけで凡人の僕は、新型コロナウィルスが猛威を振るったから引き籠っていたわけでもなく、やることが多くて引き籠る時間が当たり前になっている。ただ引き籠りが日常化していることで、この3年間は楽だった。変わったことは、常にマスクを付けていることだけ。後は淡々と、僕の日常をクリアしてきたのだ。
貴重な二連休は瞬く間に終わった。映画を何本か鑑賞したし、勉強も良いペースで進められた。歌の練習も出来たし、本を読むことも出来た。だけどカリキュラムは未達状態に終わった。アマチュア無線の勉強が遅れている。英語の勉強も遅れている。やはり時間は足りていない。明日には明日の勉強があるし、さてさて。