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目標100を達成、久々の達成感に酔う。

久しぶりに空を楽しみながら歩き、ゆっくりと写真を撮った。

*毎年のことだが 田んぼに映る電車がいい

昨夜、ブログ記事の目標100を達成した。4月1日に21本から始めて79回更新、合計100になった。日記はつけ始めてから13年目に入っているが、ブログは初めての体験。始めてみたらけっこう大変だった。そもそも、偉そうにブログと言えるものなのかもわからない。それを評価するのは読者の方々だけだ。

*夫婦らしき方達が 田植えに精を出す

今は、ツイッターを通してブログ更新を伝えている。欲を言えば人の参考になる経験談や意見として、名前でストレートに検索してもらい、読んでもらえるようになることが最大の目標だ。今回の目標を100にしたのは、自分がブログを書くことを義務づけたかったからだ。毎日書くことを習慣づけしたかったんだ。

*道の両側に水が張られると初夏を感じる

1日1本書くだけなら、前日でも当日でも一瞬のひらめきでも準備して書けばいい。たぶん出来ると思う。ただ30日の間に79本書くことは大変だとわかっていた。初めから満足できる内容に仕上げることはできないし、追求しない方がいいと思ってはいたが、やはり職人気質な性格、いい意味で災いしたようだ。

*スマホのカメラは いい仕事をしてくれる

書いては直し書いては直しの繰り返し、これでいいかなと思っても何かが気になる。掲載する写真を加えていくと、さらに文章を合わせるように変えたくなる。その結果、1本仕上げるのに平均3時間前後かかることになった。休業中だから良かったが、他にもやることはあるから、睡眠時間が平均4時間ぐらいになった。

*公園の中で 緑と土の道に心が和む

ブログで食べているブロガーの諸先輩たちは、やはり惹きつけるものを作り上げているのがわかる。元から才能がある人もいるかもしれないけれど、さ迷うように内容を模索しながら文章を書き続ける中で、ある時ふっと答えにたどり着き、成功している感じだ。簡単に成功するものなら、誰もが成功しているはずだ。

*樹の姿には 何か心温まるものがある

こうして、あっという間に4月が終わった。時間の流れは本当に早かった。昨夏の入院生活にしたって48日もあったはずなのに、退院を迎えた日には、1ヶ月もなかったように思えた。要は何かに集中していると、時間を忘れるってことだ。秋の「瞳の住人」の録音の時も、時間があってないようなものだったしね。

*このふわっとした感じがたまらない

目標をもつというのは、大切なことだと思う。どんな内容でもいいんだ。自分のためでもいいし、誰かのためでもいい。達成感を得られるってことが大切なんだ。当然、成功した時に得られる達成感なら一番いいとは思う。でも失敗したとしても、何かを得られたのであれば、そこにも達成感を感じていいと思う。

*高校の頃から ここにあったのかも

今しかないと思えるなら、突っ走るべきだと思う。歳は若い方がいいにこしたことはない。今ようやく興味を持ったからと、再び受験勉強を始めてもね、現役の受験生記憶力には勝てないと思う。だからこそ20歳前後に、受験勉強をできることがいい経験にもなるんだ。この歳になって気づくのも、情けない話だけど。

*印旛沼は今日も穏やかにそこにあった

ひとつの目標を達成したら、すぐに次の目標を立てて、可能な限りつなげていった方がいい。連鎖的に頑張っていけば、終わりが見えないということにさえ、幸せを感じることができると思う。これから先は1日1本の記事を基本にして、内容を濃くしながらブログを育てて行きたいと考えている。

*この目は何をみているのかな

半袖で過ごしたら、ほどよく腕がやけた。朝イチにリハビリもあり、ウォーキングに出る時間もセーブしていたので、屈伸運動のような1日にかなり疲れも出た。でも、心地よさが残る疲れだ。

6月の精密検査と診断を待って、新しい仕事も考えていく。新型コロナウィルスの影響がどうのこうのと、言い訳には使いたくない。この1年に自分が考え経験したことが、必ず答えを導いてくれると信じている。目標があるかぎり、明日が待ち遠しい。

*道はつづく
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阪神淡路大震災、あの時をふりかえる 2

両親からの電話を受け取ったのは、臨時に設置された公衆電話の1台から。当時はまだ、携帯電話は普及していなかった。2年ぐらい後に初めての携帯を買ったが、名古屋で買って岐阜に戻ったら圏外になるような感じだった。メーカーはKENWOODでデザインはカッコ良かった。今となっては捨てたことが悔やまれる。

両親の無事を知り、仲間と週末まで撤去や移動の作業を続けていたが、風邪をひきっぱなしのままだったので、夜はただ眠るだけだった。土曜まで頑張り大垣に戻ることになったが、おまけがついていた。業務命令で、月曜からまた一週間現場で作業しろとのことだった。日曜はしっかりと休み、月曜にまた戻った。

*こんな光景は 見たことがなかった

2回目は1年目の後輩が一緒で、自分と同じく個性的な人物だった。2人で組んで作業をしていたと思う。2週間目ということもあって、作業自体には慣れていたし、その場所での作業は順調だった。順調だったせいか3日目の水曜の朝、労務課から戻って来いとの連絡を受けた。後輩と2人で当日中に戻れと言うんだ。

あの時はすでに、新幹線が動いていた。岐阜羽島駅で降りる予定だったから、こだまに乗っていたのかな。自分の気持ちは、マグマが噴出する直前ぐらいの状態だった。3日で戻すくらいだったら、なぜ行かせたんだって感じで怒り心頭。車内で缶ビールを買って、後輩と2人で酔っぱらうまで飲みまくった。

*この設計が通ったことが不思議なくらい

駅に着いて、そのまま帰宅するだけなら良かったけど、一度出社しなくてはならない。それをわかっていながら酒を飲んで酔っ払っていた。本社にタクシーで乗りつけた。下はジーンズで上だけ社服。廊下ですれ違う人たちにニコニコしながら挨拶を交わし、酒の匂いをもらしながら、直属の労務課長の前に立った。

『なんで俺だけ戻すんだ!行けと言われたから頑張ってやろうと思って行って来たのに、なんで3日目で戻すんだよ!』

課長を課長と思わないような感じで怒鳴りつけた。怖いものなんてない、相手は現場を知らないんだから。締め切り作業も終わる寸前、その時は現場が優先されるべきだと信じていた。酒の勢いもあったけど、顔に出ないタイプ。しかもジーンズ姿。目立っていたね。怒鳴ってスッキリして、失礼しますと言って帰宅した。

*この光景だけは忘れられない

後日、別の仕事をしていた時、その課長が冗談まじりに言っていた。また、○○に怒られちゃうからよって。自分が会社を辞めた後も、仕事大好きのその課長は順調に出世し、取締役まで務めて退職したらしい。大学だけが東京、後は大垣だけで終わったみたいな方だったが、上司にも人間臭さが残っていた時代だったね。

結局その後、2度と手伝いに出されることはなかった。3年目に入る年だったし、仕事も忙しくなっていたからね。仕事で神戸まで行くことはなかったが、実家が神戸だったから倒れた阪神高速の横を通ることはあった。今でもよく覚えている。撮影された写真の通りの状態。あんな細い足で、よく支えていたもんだよ。

*店の車輛も荷物ごと こんな感じでつぶされた

それ以来、自分で仕事をするようになってからは特に、首都高速でも古い所を通る時は早く抜けたくなったね。渋滞ではまるなんてとんでもないよ。首都高の3号線なんか、ジグザグ構造の1本足で立っていて、渋滞になると揺れているからね。ここで地震が起こったらと思うと気が気じゃなかった。3階建て構造だしね。

人は、自然には勝てない。勝とうとしたり手綱を引こうとしたり、その時点で間違っているんだ。人は自然の一部に過ぎない。他の動植物と同じように、生かされているに過ぎないんだ。いかに自然の上に自分たちを乗せていけるか、それを考えることの方が大切だと思う。そうすれば、自然が語りかけてくれると思う。

忘れた頃に天災はやって来る。あれから各地で多くの地震があったけれど、自分は直接的な被害を受けたことがない。だからこそ人の経験は大切にしたいし、そうなった時に自分がしっかりと行動できるように、普段から準備しておきたいと思っている。

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阪神淡路大震災、あの時をふりかえる1

あの日の明け方、岐阜県大垣市の独身寮で揺れを感じた。

築30年以上で老朽化が進んでいて、コンクリートガチガチの5階建ての建物。ガチガチに固まり過ぎていて、地震でも揺れないようなイメージもあったが、あの日は違った。ドーンと突き上げられるような感覚があった。すぐに収まった気もしたが、その後また、小さくドンドンが繰り返された。後日、震度4と知った。

日本で地震は何処にいても起こり得る。ちょっと大き目の地震だったのかなと考え、いつも通り会社に向かう。自分の出社時間はいつも早かった。本社は8時の朝礼で仕事が始まるが、自分はいつも6時半に出社。毎朝の雑巾がけがあったからね。それについては話をしたと思う。守衛さんに挨拶して、2階に上がる。

いつもと雰囲気が違う感じがした。普段なら6時半に出社しているのは、運行管理の部署だけ。やけに人が多くて、みんなが騒いでいる。長い中央廊下に集まっている。部署を仕切るパーテーションがいくつも倒れていた。長いもので20mはある。それが一気に流れるように波打つように倒れていた。みんなで起こした。

*当日の朝のニュースは ごく普通に始まった…

ただ事ではなかった。どこかで大きな地震が起きたのは間違いがない。どうも関西の方らしい。テレビが設置され情報が入り始める。神戸の方で大地震が起きたようだ。大きな火災も発生している。現在のようにネットも普及していなかったから、テレビの報道とラジオの情報だけが頼り。関西の店所にも被害が出ていた。

数千人規模で被害者が出ているとわかり始めた午後、若い社員が集められて出発の準備をしてくるように言われた。本社フロア全体の社員が対象。もちろん自分も選出され、夕方には1台の大型バスに押し込められて出発、行先は大阪の豊中崩れた店所撤去作業をするらしかった。大垣インターから高速にのった。

だが、すぐにバスが動かなくなった。当然だ。関西方面に向かう高速はすでに麻痺していた。15㎞ぐらい先にある隣の関ケ原インターでバスは一般道へ。ここからが長かった。運転手は先生と呼ばれていたベテランの本社運転手。大変だったろうな、今思うと、ほとんど動かなかったからね。自分たちは寝ていたのに。

*テレビの映像だけが現実を知る手段だった

前日の17時頃に大垣を出発して、豊中支店に到着したのは明け方少し前。途中で寄った餃子の王将、あの時のご飯はを忘れることはできないね。とにかく腹が減ってはなんとやら。みんな黙々と食べていたよ。食べ終わったら出発、渋滞はますます激しくなっていた。

豊中支店は豊中インターの近くにあって、神戸から離れていた。だが、トラックの駐車場になっていた1階部分に2階より上の建物が5階まで丸ごと落ちていて、荷物を積んだトラックはすべて箱ごとつぶれ、神戸から離れていたにもかかわらず、支店の状態がひどかったので周囲一体が危険区域にされた。

とりあえず毎日、ひたすら撤去作業。コンビニの棚には何も無かったが、3日ぐらいしてから銭湯での入浴はできた。5人ぐらいで川の字になって雑魚寝。夜だけは休み、馬鹿話をすることを活力にしていた。体調を崩したが休んではいられない。崩壊した建物からの荷物出しを続ける。高所恐怖症にも目をつぶった。

*社員が 裂け目に突っ込んで亡くなった

実はこの時、肝心なことを忘れていた。目の前の作業に集中するあまり、神戸の六甲アイランドに両親がいることをすっかり忘れていたんだ。携帯も無い時代だったし、お互いに連絡できる手段は固定電話だけ。両親は無事だったが、電話を受けたのは4日後のこと。ある意味では、これもまた若さだったのかもしれない。

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最初にもらった仕事は、雑巾がけだった。

1993年7月1日、大垣本社の労務部労務課に配属された。3ヶ月に及んだ研修もあっという間、やっと仕事を始められる、そんな気持ちで溢れていた。同期の大卒の女性は2人いたが、同じ総合職でも4月に先に配属されている。短大卒も含めた同期の女性達は、1年目から野球部の応援団をやるのが慣例だったからだ。

*当時の机はこんなのもザラ 釣りバカ日誌より

初めに覚えたセイノー体操のことは、先に話をした。今回は、仕事のようで仕事じゃないような仕事について話をしたい。

当時の労務課は、人事の深いところに踏み込んで仕事をする上層部の賃金班1つと、全国を東部・中部・西部にわけて賃金計算をする3つの計班に分かれていた。自分は東部班に入れられ、東北と関東及び甲信越の店所の賃金計算をすることになっていた。

おもしろいもんでね、この3つの班は性格がクッキリと分かれていた。西部班は柔らかいイメージ、東部班は堅いイメージ、そして中部班はその真ん中。案外よくあることだ。自分は当然のごとく東部班に入ったわけだが、西部班と中部班に入れられた同期の2人も、各班に性格が一致していた。上はよく人を見ている。

*PC周りを綺麗にしてくれる 小道具たち

さて、東部班のチーフは自分より5年先輩だったかな。近江出身のお堅い方だった。当時は自分も堅かったから、その班にいたわけだけど。そこで自分が最初に引き継いだことは、班のメンバーと部長の机の雑巾がけをするというもの。8時の始業前までに、確実に終わらせる。ただの慣習に過ぎなかったのだけれど。

翌日から、休み以外は毎日が雑巾がけで始まった。来る日も来る日も雑巾がけ。時間にすれば、どんなにゆっくりやっても15分ぐらいのこと、特に苦にもならなかった。毎朝7時には出社していたかな、合計9つの机を拭いていたね。時には他の班の机まで拭くこともあった。ついでだからっていう気持ちだけで。

ちなみにだけど、他の班の同期は雑巾がけはやらない。東部班だけの、いや東部班のチーフが単独で始めたことで、業務と言われるものではなかった。昔の映画やドラマだったら、よく女子社員がやっていたでしょう。始業前の雑巾がけとかお茶くみとかいろいろ。その雑巾がけを自分がやっていたようなもの。

*深夜でも 電源を切る前に埃を落とす

慣れてくると楽しくなる。元々、掃除が好きな人間だ。もっと早い時間に、ほとんど人が来ない時間に出社して雑巾がけをしたくなった。やがて6時半には会社に行って雑巾がけを済ませ、本社前の弁当屋で買ってあるおにぎりを頬張り、新聞を読んで8時を待つ、そんなパターンが定着した。5年3ヶ月、それは続いた。

当然、後輩も入社してくるわけだが、特に自分は引継ぎをしなかった。でも思っていた。自分の姿を見て、後輩が自分からやりましょうかって言ってこないのかなと。今思えば身勝手な考え方だよね。自分だって先輩に、ごく自然に押しつけられたようなものなんだから。ただ自分は好きだから、続けていただけのこと。

それでも、なんかしっくりこなかったな。それで、昨年20年ぶりに再会を果たした、半年限定で大阪から来ていた課長に聞いてみた。課長は、同じ独身寮を仮住まいにしていた。後輩たちが誰も、私が雑巾がけをやりましょうか?って言ってこないんですけどって。矛盾したような話だったんだけどね。

課長は言った。そんなもんは気づいた奴がやればいいんやって。聞き慣れた大阪弁で。目から鱗が落ちたような気持ちだったな。

*白いと汚れが目立つから 掃除が習慣づく

自分から始めたことではないけれど、すでに自分の仕事にしていて、自分がやらなくてならない、そんな義務感さえあった。人にお願いする気持ちなどなかったんだ。自分は上下関係とかは、あまり好きじゃない。先輩後輩よりも、自分が率先してやるタイプだ。気づくとかよりも、自分がいいと思えば続けていくだけ。

何よりも、自分の机を綺麗にするのは、やはり自分自身であるべきだ。人にやってもらうよりも、自分で綺麗にした机で仕事をする、その方がずっと気分もいいし仕事に弾みがつくと思うんだ。自分でやるということは、仕事をさせてもらう机に感謝することにもなる。綺麗にしておけば、机も気持ちに応えてくれる。

精神論的だと言う方もいるかもしれないけど、雑巾がけって難しい。松下幸之助氏もおっしゃっているけれど、適度な水分を残して雑巾をしぼるのは、難しいことなんだ。しぼり過ぎれば拭きとれないし、水分が多過ぎれば汚れを広げる。適度に残して綺麗にする、その微妙な感覚を覚えるにしても根気が必要なんだ。

新入社員にとっては案外、一番の勉強になるかもしれない。

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猫のおもしろさは、一言で語りつくせない。

昨年の秋、実家の猫が亡くなった。16年弱生きることができたから、大往生に入るんだと思う。ロシアンブルーという種類で、とにかく気位が高かった。母に一番慣れていたが、長く抱かれることを嫌った。あくまでもマイペース。ただし晩年はジャンプが出来なくなり、さすがに素直になったとか。素敵な猫だった。

*ベランダ側で寝るのが好きだった

自分が考える猫のタイプには、3種類ある。

① 人が近づくと、警戒してすぐに逃げてしまうタイプ。
② 人が近づくと、ジッと見つめ返して観察しているタイプ。
③ 人が近づくと、興味津々ですぐに近寄ってくるタイプ。

細かく分ければ、もっと多いとは思うけどね。ちなみに実家の猫は①のタイプだったのかもしれない。温室育ちの家猫なのに。

*昨年 本佐倉城で会った人懐っこい猫

昨年の入院前に本佐倉城で会った猫、お腹に子供がいたようだったけど、やけに人懐っこかった。会ってから離れなかったから写真を撮るには楽なんだけど、ここまで体をくねらせながら甘えられるたのは初めてだった。足を踏み出すごとについてくるから、まともに歩けない。典型的な③のタイプの猫だ。

*佐倉城の駐車場でよく会う猫 その①

ウォーキングの出発地点にしている佐倉城にも、なじみの猫たちがいる。特に自分が覚えている猫は2匹いる。毎日会わないとしても、お互いを覚えているのかもしれない。素直に写真を撮らせてくれる。晴れている時しか写真を撮らないから、眠たくなる時が多いらしい。会えば大体は眠たそうにしてる。②のタイプだ。

*佐倉城の駐車場でよく会う猫 その②

その①とその②の猫は、だいたい一緒にいる。性別を確かめたことはないから、友人同士なのか夫婦なのかそんなことはわからない。猫のテリトリーなどにも、特に興味がない。ただ2匹が仲良くしていると、微笑ましく思える。猫がのんびりとしている姿には、平和を感じるんだよね。鳩が平和の象徴とされていてもね。

*佐倉城内で 最近初めて会った猫

そもそも、鳩が平和の象徴とされるのは、旧約聖書の「創世記」の中にある「ノアの箱舟の物語」に基づくものだ。

大洪水が起きた時、箱舟に乗ったノアは助かる。水が引いたか確かめるためにカラスの次にを飛ばす。鳩がオリーブの枝を持ち帰り、ノアは神の罰の終わりを知る。鳩は、神と人間の和解によって得られた平和の象徴になるわけだ。敵が水だったから鳥を使ったと思う。でも、猫がその役だったらなんて「If」も考える。

*佐倉藩総鎮守 麻賀田神社によくいる猫

いつもこんなことを思いながら、猫に出会える瞬間を楽しみにしている。子供の頃でも、自分の周りでは野良犬を見た記憶は残っていない。首輪をつけた犬が、放し飼いにされていたことはあった。野良猫の存在だけはあの頃と変わらない。

麻賀田神社でよく見る猫は、住んでいるのか通いなのか、やけにゆったりした動きをする。佐倉藩総鎮守に現れるだけあって、どっしりと構えていて、背中から見ると石と同化している感じ。

*この横顔のふっくら感がなんともいい

たわいもない猫の話だが、猫の話をする時は、のほほんとしているぐらいで話すのがいいと思っている。のほほんとした気持ちで話さないと、いつまで経っても、猫のマイペースには追いつけない気がするんだよね。

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子供の遊ぶ姿を見て、子供だった頃を考える。

今は新型コロナウィルスから身を守る状況下にある。ゆえに、この話はあくまでも、平時から自分が考えていることだと思っていただきたい。

*旧住まいの1階部分 ネズミはどこから

昨年、同じ佐倉市内で引越をした。最寄り駅から見て北東方向に2㎞ぐらいの場所から、北西方向1㎞以内の場所に移っただけ。
19年暮らしたアパートにネズミの侵入を許し、半年にわたったいたちごっこの後で敗北、自分が追い出される羽目になった。大家さんとも親しかったが、本の帯まで食われたら限界だ。

新しいアパートは6㎡狭くなったが、角部屋で窓も多いから採光にもすぐれていて電気代もかなり落ちた。何よりも引越をすることで気分転換にもなったし、住環境としては問題なしだ。

*荷物を運びこむ前の新住まい 採光よし

旧住まいと新住まい、それぞれの町内で共通していることは、子供の声がよく聞こえるってこと。ただでさえ近頃は、子供の遊ぶ姿を見なくなった。社会が危険に満ちているから親が遊ばせないというのも理解はできる。自分は親の経験がないし偉そうには言えないが、親が果たしてくれた務めについてはよく覚えている。

ただ、近頃の子供はかわいそうだとも思うね。あまりにも神経質に守られ過ぎじゃないのかって思うんだよね。あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないだけでは、いつまでたっても、子供は自ら学んだり選んだりする力を育てられないとも思うんだ。子供の内だからこそ、許される失敗もあるからね。

*こんな空に慣れてしまうと 戻れない

自分が子供だった頃の方が、空気も汚れていた。日本の復興と共に工場の煙突はを吐きまくり、排気ガスも充満していた。自分は煙草を吸わないが、当時の父は日に3箱ぐらい吸うヘビースモーカーで空気も悪い、生まれた時から受動喫煙だったわけだ。そんな中で精一杯呼吸をして、とりあえずデカくはなった。

食事にしたって、現在みたいな細かい表示はなかった。親や祖父母が受け継いで来たで食事を済ませた。床に肉を落としても、よほどのことがない限りは埃をはらって食べ、出されたものは残さずに食べた。あれもこれも嫌いだなんて言えば、じゃあ明日から食べなくていいからで終わり。お蔭で好き嫌いをもたない。

*たかが胡瓜 されど胡瓜 食べられる喜び

住みやすさなどの住環境や、食べられるものが多過ぎて選択の幅が広過ぎるくらいの食の環境、お金さえ出せば限りなく欲を満たしてくれるモノの環境。こんなに満たされているのは平和な証拠だが、子供が本来学ぶべき環境の方は、情報過多の中で神経質に守られ過ぎているようにも思える。

10年くらい前だったかな。もう少し奥まったところに住む仲間の話だ。森の中に遊びに行く子供が多いって、ここまではいい。森の中携帯ゲームをもって行って遊んでるって言うんだ。冗談にも取れない話だったけど、本当の話らしい。涼むのは大人も同じだけろうけど、目を和ませる場所で目を悪くさせなくてもね。

*トンボの羽も良くできている

それと近頃は、虫が嫌いな子供も多いよね。自分より歳の若い親でも、虫が嫌いだって人が多い。親が嫌いなら子供も嫌いになるのかな。自分だってゴキブリには好意を持たないけど、野原にいる虫には興味があるね。好奇心が見たされるよ。人間にはない命の神秘を感じるし、小さいゆえに命の尊さも学べる。

子供の頃、1日だけアマガエルを預かった。両生類だから水以外に陸が必要だなんて知識もなかった。海苔の缶の中に水を溜めてアマガエルを入れておいてたら、翌日水に浮かんで死んでいた。蛙には陸が必要なことを学び、命の尊さも学んだ。どぶに手を突っ込んでヤゴも捕った。手が汚れたら洗えばいいだけのことだ。

*マクロレンズで見るアマガエルは格別

こうした好奇心は、歳を経たにの方が強くなった。アマガエルには迷惑だろうけど、30分追いかけたとしても飽きない。

子供が元気な社会には、明るい未来を感じられる。最近は子供の貧困問題が取りざたされて、暗い話題も多くなった。子供たちにもっと、自由な発想ができるような環境を、等しく与えてあげられればと思う。少なくとも公園放課後の校庭で、子供たちが遊ぶ声を聞けるのは嬉しい。

今の状況が、早く良くなればと思う。

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映画「ランボー」は、何を教えてくれたのか。

シルベスター・スタローンの出世作は「ロッキー」。そして、アクションスターとしての地位を不動のものにすることになった作品が「ランボー」。あるベトナム帰還兵の孤独な戦いの話だ。

*ランボーはなぜ 街を破壊するほどまでに

映画の公開当時は、ベトナム戦争終結から時間も経っていたが、アメリカ社会からベトナム帰還兵に向けられる目は冷たく、戦争での労苦をねぎらう者は限られていた。

国のために戦って来たにもかかわらず、帰還した当時の歓迎ムードは一時的で、その労苦はすぐに忘れられ、厄介者として扱われることも多かった。帰還兵のPTSD問題も深刻化していた。

*スタローンの熱演に胸が熱くなった

PTSDとは、心的外傷後ストレス障害のこと。命の安全が脅かされるような出来事などにより強い精神的衝撃を受けることが原因で、激しい苦痛や生活への障害をもたらすストレス障害を言う。

命の安全が脅かされる出来事とは、戦争や天災事故や犯罪や虐待などのことだ。PTSD自体は戦争帰還兵の研究から生まれたものだ。心的外傷とは俗に言うトラウマのこと、すなわち長い間それにとらわれてしまう状態のことを言う。

ベトナム帰還兵も、PTSDの症状に長く見舞われていた。精神的不安定による不安や不眠、そしてフラッシュバック。何よりも母国アメリカに裏切られたことが、彼らを苦しめていた。

*保安官はランボーに 自分が法律だと言った

映画の冒頭、主人公ジョン・ランボーは、食事をとるために立ち寄った田舎町で、帰還兵に偏見をもつ保安官に街から出て行けと高圧的な態度をとられる。反抗したランボーは保安官事務所に連行され、取調室での仕打ちに戦争当時がフラッシュバックする。

戦争当時、囚われの身になった時に受けた拷問がよみがえる。保安官助手たちを叩きのめし、ナイフを奪い返し逃走する。その戦いは山の中から始まり、州兵が出動する中で舞台を街へと移す。

*バイクをうばい 山に向かって逃走する

この映画を見始めた時は、ロッキーの流れの中で見ていた。筋骨隆々たる体に鍛え上げたシルベスター・スタローンが、今度は街の中で戦う帰還兵を演じているといった感じだった。

だがランボーは泣いていた。唯一の友人であったような元上司の大佐の胸で大声を出して泣いていた。「It’s a long road」が流れる中で連行されるランボーは、戦争に翻弄されて生きる哀しい男だった。戦争の虚しさってものを初めて考えてみたね。

*肖像画のような よく知られたランボーの写真
*自分のM-65 Made in USA の宝物
*最近はベトナム製などしか見ていない

映画として見ているかぎり、ランボーが1人で戦う姿に、カッコよささえ覚えてします。自分は今より若かったし、そもそも映画というのは娯楽だからね、楽しめなければ意味がない。

だけど、ランボーを見終わった時、ベトナム戦争がもたらした後遺症について考えたね。ベトナム戦争に限らず、イラク戦争についても同じことが言える。要は戦争って人殺しだからね。

*ランボーが大佐に語る話は哀しい

自分に正義があると思って戦わなければ、生き残れる可能性は低くなる。そして、最初の1人を倒した時は震えるんだけど、次からはそれが当たり前になっていく。相手を倒した数だけ勲章が増え、戦場の英雄にもなる。

でも戦争が終われば、積み重ねたその経験も多くは苦しみに変わっていく。現在は無人機での戦いも増えていて、遠隔操作する人間が相手を見ずして倒していくことで、後日PTSDになっているとも聞く。戦争はどんな形でやったとしても、心に障害をもたらすってことだろう。

*この歌を聴くたびに ランボーの孤独を思う

生身で戦ったランボーのベトナム戦争。戦争が終わっても、今なお苦しんでいる人もいるんだ。現実の戦争は、ゲームの中でやるお遊びとは違う。戦争はゲームじゃない。ゲームを楽しむのは個人の自由だが、たとえ相手が空想の存在でも、殺してやるなんて言葉は簡単に口に出さない方がいい。

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国破れて山河在り、城春にして草木深し…

久しぶりに歴博がある佐倉城の中を歩いた。梅や桜の季節は過ぎて、今は緑が中心の世界になっている。花壇を手入れする方や草刈りをする方が働いている。平日の午前中で人もまばら、小さい子を連れたお母さんや、年配のご夫婦、ウォーキングをする方や写真を撮っている方、思い思いに城内の雰囲気を楽しんでいる。

*綺麗に広がる絨毯のような草

昨年の秋から今年の冬にかけては、竹や木の森を中心にウォーキングを楽しんでいた。今はもっぱら歴博を中心にして、城内から佐倉の旧市街を回り、また城内に戻る歩き方。自然の中だけを行くのもいいが、旧市街をコースに含めると情緒があるので、近頃はこちらが中心だ。最後に寄る肉屋さんの揚げものが楽しみ。

*どうしたら こんな根っこになるのか

佐倉城内で一番魅力を感じるのは、様々な姿をした樹々だ。手入れをされた城内と言うよりも、自然の中で佐倉城が生かされているような印象を受ける。江戸時代の初めに完成した譜代大名の居城、日本100名城の一つに選ばれているが、天守閣などは跡地だけ。かえってそれが、自然にはいい感じもする。

*ポツンと低木があるとホッとしたり

佐倉城は戦前まで旧日本陸軍の駐屯地だった。だから城内には公衆トイレ跡などが、緑に溶け込んで残っていたりもする。かえって侍の時代のものより、陸軍の時代の史跡の方が目立つかもしれない。まあ現在の一番の主役は歴博、すなわち国立歴史民俗博物館だと思うけど、自然を楽しむという意味での主役は樹かもね。

*幾何学的な木の枝 角ばっている

あくまでも自分の考え方だし、興味の持ち方は人それぞれだと思うけれど、城内の樹をすべて拝むには根気が必要だと思う。以前来た時に見たはずなのに、見つけたはずなのにと思っても、足を踏み入れていないジャングルのような所が、今もたくさん残っている。次はあそこを歩いてみるかとか、ワクワクが止まらない。

*自然にトンネルのようになったのかな

樹が多いだけあって、いろいろな鳥もいるようだ。自分なんかは綺麗な鳥だなとか、いい声で泣くなとかで、写真を撮ってみようって気持ちになるが、鳥の追いかけ専門者は考え方が違う。先日なんか、珍しい鳥がいるから写真撮りたい、その場所を譲って欲しいなどと言われた。樹を撮る自分は、珍しいみたいな感じだ。

*撮り方ひとつで魅力も変わる

でも樹だって、人や鳥を撮るのと同じくらい面白いと思うんだよね。撮る場所を変えたり撮る角度を変えてみたりすれば、樹がいかにたくさんの表情をもっているかよくわかる。根っこはどんなことにも動じませんって感じで、枝は自由に伸びるのが当たり前みたいな感じ。撮り方次第で、その表情は様々に変化していく。

*お城の樹は 手頃な防御壁だったのかな

猫も撮るし鳥も撮る。可愛いから上手く撮れれば、ますます楽しくなる。同じように気に入った樹を上手く撮れれば、やはり嬉しい。近頃は、モデルになりたがっている樹が、わかるような気がもする。この樹は撮られたがっているみたいに思えたら、猫に近づくように、少しずつ距離を縮めてベストの構図を探す感じ。

*この池までくると 城内の散策が終わる

いつも思うことは、太い幹や根っこや枝をもった樹齢が長い樹は、どんな思いを内に秘めているんだろうかってこと。

自分がふれた幹と同じ場所を、かつて侍がふれていたかもしれない。樹が記憶した侍の心と自分の心が結ばれるような、ファンタジックな世界が現実になればとも思う。城は消え草木がしげり、樹々の中にとじこめられている思いだけが息づいている。

国破れて山河在り 城春にして草木深し」、杜甫は上手いことを言った。今も昔も、それは変わらない。

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オフコース 人生経験 俺の考え 趣味 音楽

素敵な音楽の数だけ、人生は豊かになっていく

この2ヶ月ほど、毎朝毎晩のツイッターで、自分の好きな曲を紹介している。朝は一日の始まりにふさわしい元気めの曲を、夜は一日の終わりにふさわしい静かめの、明日への思いを抱いていけるような曲を紹介している。その時の自分の気持ちも入っているけれど、かなり広い範囲から選曲しているつもりだ。

*レコードを手に入れたのは 解散から十数年後

ただ今は、邦楽を中心に選曲している。小さい頃から洋楽も聴いてきたが、洋楽に大好きな方たちに比べると、自分が好きな範囲を超えきれていない。好きな音楽ならいくらでもあるから紹介はできるけれど、邦楽ほどには広い範囲からの選曲はできないだろう。だから、邦楽中心の紹介をすることにしている。

自分の一番好きなアーティストは、オフコースだ。1989年解散して以来、一度も再結成をしない伝説的バンド。他のアーティストの素敵な曲を、どれほどたくさん聴いたとしても、最後にはオフコースに戻る。特に「NEXTのテーマ~僕等がいた」。今後こういう類の曲は、二度と出てこないと思っている。

*自分にとっての人生のテーマ曲であり続ける

20代の初めまでは、今ほど聴く範囲も広くはなかった。中学の頃はオフコース安全地帯、高校の頃はさだまさしなどのフォーク系の人たち、大学の頃はロック系を中心に広がりを見せ、社会人になってからはオールラウンダーに変わった。運送時代は仕事中でも車内で音楽漬けだったから、ますます範囲も広くなった。

アニソンから映画のサントラロックアイドル、とにかく聴いてみないことにはわからない。正直に話しておくけど、自分はインドアの音楽ファンだ。オフコースが活動していたらコンサートなどに足を運んでいただろうけど、再結成があり得ない以上、このままインドア中心で、音楽ライフが続いていくと思う。

*レコードのテカり方って優しい感じがする

それに、自分は再結成というのがあまり好きじゃない。特にオフコースのような神がかり的なバンドは、伝説のままの方がいい。再結成がないからこそ、自分の中で神の存在のまま生かすこともできる。まあ、音楽の楽しみ方は人それぞれでいいんだよ。感動の仕方だって人それぞれ、感じ方の違いで人生も変わっていく。

ただし、可能な限り幅広く聴いた方がいいと思う。このジャンルだけをなどとは決めない方がいい。バラードが大好きでも激しいロックも聴く、アニソンが大好きでも映画音楽も聴く、ジャンルを超えて聴くところに音楽の面白さがあると思う。そしてアーティスト同士の、意外なつながりが見えたりもしておもしろい。

*レコードは大きい分 目を楽しませてくれる

これは音楽を創る側の人たちにも、同じように言いたいことだ。やはり世界の共通語英語なんだよね。だから、英語で歌っている曲には説得力があって、世界を支配している感じもする。今現在も活躍中の日本の大御所たちは、世界の音楽を聴いてコピーから始めた人も多い。そこから自分たちの音楽を探していった。

世界に進出して行ったけれど、認められた日本人はほんのわずかだ。YMO少年ナイフ、現在ならワンオクBABYMETALかな。それだけ世界の壁は厚い。そしてそれだけ世界の音楽は幅が広く深い。日本の音楽も素晴らしいけれど、音楽をやる以上は世界の音楽も聴いた方が、音の使い方もかなり違ってくると思う。

*オフコースのアメリカ進出も困難を極めた

オフコースアメリカ進出も、事実上は失敗だった。日本人が聴く英語詞のアルバムとしては綺麗だったけれど、アメリカで通用するレベルではなかった。

それでも、オフコースが素晴らしいと思えるのは、彼らの音楽は奥が深く、今も色あせることがないくらいに、とことんまで音を追求しているからだ。その元になっているのは、長い下積み生活と幅広い音楽への好奇心だと思う。ひとつのジャンルを極めるにしても、幅広いジャンルに目を向けた方が音も豊かになるはず。

素敵な音楽の数だけ人生も又、豊かになっていくと思う。

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目標はいつも、高いところにおきたい。

自分が子供の頃、SONYという会社は海外でも名が知られ始めていた。父親の仕事の都合で4歳から3年間、デンマークで暮らしたが、その時に家族ぐるみでおつき合いをした中で、SONYの駐在員の方がいらした。1970年代の初頭に海外で働いていたぐらいだ、その後かなり出世したと親から聞いている。

*盛田さんの志の高さがよくわかる

そんなおつき合いもあったからか、母はSONYが大好きだった。ラジオやテレビやラジカセやビデオ、実家に合った音響やAVに関わるものはすべてSONYの製品だった。今でも、その姿勢は変わっていない。自分は他社製品も使って来たが、今自宅にあるラジオやテレビはSONYだ。一度使うと中毒になるのかもね。

*初めからうまくいったわけじゃない

この盛田氏の本を読んだのは、学生から会社員になった頃。早い時期からアメリカで認められた氏だからね、読んでいてさすがだなって思ったよ。中でも、アメリカに出張するようになった頃の話が好きになった。ある日系アメリカ人の助言なんだけど、一生懸命な人間に対しては、誰でも親身になってくれるものだね。

*上手いことを考えるなって思った

当時は懐ぐあいが寂しかった盛田氏、一番安いホテルに泊まり自動販売の食堂を使っていた。それはいけないと言われる。自分のプライド会社の威厳を保つためには、何事もハイレベルにすべきだと。安いホテルの良い部屋に泊まるのではなく、良いホテル一番安い部屋に泊まる方がいいと。良い食事をして、料理の味やサービスの違いがわかるようにならなくてはいけない、とも言われたとか。素直にそうだなって納得できたね。

*まるで木造建ての学校のような感じだ

以前にも話をしたけれど、自分も同じようなことを父から言われていた。自分がどんなに小さい立場に思えても、自分自身を卑下してはいけないってことをね。

社会的な立場がどんなに小さかったとしても、自信をもって頑張っている姿は人の目を引く。逆に、自分なんて大したことないからと卑屈になっていると、声をかけてくれる人もいなくなる。それゆえに、ますます卑屈になってしまい、もっていた夢さえも縮こまっていく。自信をもち、胸を張って歩く方がいい。

*レーガン大統領をはじめ すごい面子

SONYという会社は自信をもっていたよね。社長であり技術者であった井深大氏と副社長の盛田氏。この2人だったからこそ、この会社を世界のSONYへと育てることができたんだ。電化製品の競争が激しかった1980年代、SONYはほとんど値引きしなかった。値引きをしないことが、SONYの自信の表れだったんだ。

だから、SONYの製品を持てることが、ステータスの時代もあったんだ。他社の携帯プレーヤーよりも、SONYのウォークマンを持てることがカッコよくもあった。何と言ってもSONYはデザインも良かった。好みもあるとは思うけれど、当時のデザインは令和の時代になっても通用する。を読んで作られているんだ。

*井深さんあっての盛田さんでもあった

SONYはアップルなどに押され、一時期低迷したが、近年のaiboの再開発などを見ていると、さすがにSONYだと思えてしまう。

そもそも、亡くなったスティーブ・ジョブズはSONYが好きだったし、何よりも盛田氏を慕っていた。アメリカを目指した氏の思いが、アメリカの人間を動かすことになったわけだ。高い目標や志をもった人間は、国境さえも超えて人の心を動かすってこと。

大した人間ではないけれどなんて枕詞をつけるよりも、自分にやりたいことがあるのなら、高い目標をもって進んで行きたい。