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仕事を始めた頃は、ひたすら走りつづけた。

お世話になった社長さんから離れ、個人で仕事を始めた。内容は運送業。新卒で入社した西濃運輸から始まり、地元の運送会社で見たこと、自分の中にあった肉体労働への思い、合わせて考えていったら、やはり運送業に収まった。事務的な仕事ばかりだったから、本格的な肉体労働中心の仕事は初めて。

でも、勢いだけの無計画資金もなし。そこで知人からトラックを借りることにした。平成5年製の、距離数があまりのびていなかった状態のいいもの。荷台の箱は三和シャッター製で出来が良かったが、箱の中の装備は長距離を考慮していない簡単な装備。まず何が出来るのか?考えたのは建材を運ぶということ。

*ふくらんだ外装 肩にかついで運んだ

同じ形をした箱ものや袋状のもの、ほとんどが重量物個数をこなすことが中心。積載をオーバーしない範囲で積込み、千葉県内の現場を中心に運ぶことにした。自分で直接荷物を取れる立場ではなかったから、少し前からお世話になっていた老舗の運送会社さんを通して、毎日のように仕事を頂くことにした。

初めは重さも感じたけれど、慣れて来ると、この重さが快感になって来る。それとをこなす楽しさ。トラックの扉がシャッターだとガッチリしていた反面、開けて押し上げた分だけ荷台のスペースも取られる。天井まで満載で積むには工夫が必要だった。数をこなす必要があったから、とにかく頭をひねったよ。

*住宅の外壁と内壁の間に使用する断熱材

納品先は建設現場が中心で、工務店さんの倉庫に入れることもあった。現場ではヘルメットをかぶるのが基本。現場で頭をぶつけた大工さんが血を流しているのを見たこともあったので、頭を守ることの大切さはよくわかっていた。現場に着いたら、反射的にかぶるようにしていた。かぶるたびに、気が引き締まったね。

現場に組まれた足場の間をくぐり抜け、室内の指定された場所に十字に組んで積み上げる。現場内は基本的に土足厳禁。脱いだ後に靴に履き替える時間が惜しくて、靴下のまま歩いていたから裏はいつも汚れまくり。とにかく、商品の数と回る現場の数をこなすことが大切。運ぶ際にひねられた腹筋が硬く鍛えられていた。

ほぼ同時期に、納品をする人達がいた。内壁に使う石膏ボードを運ぶ運転手たちだ。彼らの仕事がまた、搬入技術を必要とされるものだった。たたみ一畳分ぐらいあるボードを、独特の持ち方で数枚同時に搬入。長さがあるから、足場をくぐるにも技術が必要。さらにボードは重い上に雨にも弱い。時間との勝負だね。

*石膏ボードを運ぶ運転手はたくましかった

良く鉢合わせする運転手も増え、仲良くなったりもする。狭い現場だったりすれば、トラックを停めるにしても気を遣いあう。持ちつ持たれつの世界。黙って手を貸しあうことも少なくない。仲良くなれば話もはずみ、情報を共有できる。ネットよりも、口で伝え合えることに味がある、生身の人間の世界だった。

一番燃えたのは、銚子駅横まで1日に2往復していた時。前日に積み込んだものを、7時半には降ろし始めて9時までに終了。75㎞戻って工場で積み直し、また同じ現場に戻って降ろす。高速道路は使わない。すべて一般道で夜には翌日分の積込みが待つ。休憩なしで走るか降ろすかだけ。走ることの楽しさを実感できた。

初めの2年間は、ひたすら走りつづけた。心身ともに解放されたのかもしれない。ちょうど30代に入った頃で、まだ未熟者ではあったけど、人の役に立つことが本当に楽しいと思えていた。

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お世話になった社長は、リゲインのCMの如く。

西濃運輸を退職した2000年の7月、自分はこの佐倉市に住んでいた。その時から1年9ヶ月くらい前に、会社が佐倉にトラックターミナルを開設、それに合わせて総務担当として赴任していた。その年の11月、昨年の夏に手術を受けた病院がある街で、地元の運送屋さんに就職した。

今日まで、大体11年ぐらいお世話になったと思う。その会社の社長は出会った時は40歳、やる気があふれおちてくるようなイメージをもった。バブル期佐川急便出身で、社長賞も獲得したことがあるとか。他の企業に在籍中には、名を知られた宗教法人の複写機を、全国規模で乗り換えさせたこともあったらしい。

https://youtu.be/_PoZk8rGfNQ
*この歌を聞いても疑問を感じなかった

そもそも佐川急便に入った理由が、借金の返済のためだったらしい。最初の独立をした時に事業に失敗、家族を養うための一番の近道が佐川急便だったとか。バブル期だったから、頑張った分だけ金が入ったみたいだ。寝不足の毎日、信号待ちの間に寝て、鳴らされたクラクションで起きて又走るの毎日だったとか。

その時は、佐川急便の協力会社の仕事を獲得したばかりで、意気揚々としていた。佐川急便の出身者であるとかは一切関係なし。協力会社として登録されるまでに、かなりの時間を必要としたらしい。だから、依頼の電話が3度来て、すべて対応できなかったら2度と依頼は来ないからと説明を受けていた。

*このフレーズが頭にこびりついていた

ちょうど会社が7年目に入った時で、自分は配車係として雇われていた。会社は当初は木材運びから始め、イベント関係にも進出したばかり。仕事に合わせて、の荷台から箱形の荷台へとトラックが変わる途上。そこで決まった佐川急便との契約。孫請けから直請けに変わる。口癖は、仕事は直で請けるに限る。

事業を始めた頃、当然仕事は来ない。佐倉市内で知らない会社は無いと言えるぐらい営業しても依頼が来ない。何も仕事がないことが恥ずかしくて、空いた時間は、広い駐車場がある公園にトラックを隠すようにして営業していたとか。出会った頃も、寝る時は枕元に携帯を置き24時間対応、その携帯も常に2台あった。

入社した2日目に社長さんが運転するトラックに乗り、深夜、有明の東京ビックサイトまでイベント撤収の仕事に行った。ビックサイトの中にトラックを突っ込み、4台の自社トラックが並んでいる光景を見て、感慨深そうにしていたのを覚えている。後に自分もイベントの仕事をしたが、この時の経験も生かされた。

*自分は飲まなかったが 売れていたな

そんなわけで、会社を辞めた時、最初にお世話になった社長さんには、いろいろと学んだ。中でも一番印象深かったのは、賃金支払い方法についての話かな。お金は大切かつ最も汚いものでもあるから、初めにしっかりと話をしておきたい、そう言われた。

もっともだと思った。どんなに綺麗ごとを言ったって、労働の対価はお金だけだから。頑張って得るものがあったのでお金はいりません、もしそういう人がいるのなら、自分は信用できないね。これだけのことをやったから、これだけお金をください、それぐらい言われた方がやる気も感じる。その方がよほど信用できる。

*今の時代には 敬遠されるかな

バブル経済期に流行った歌「勇気のしるし」。24時間戦えますかのフレーズに疑問は感じなかった。社長さんが成功しつつあった理由は、そんな気持ちで仕事をしていたからだ。半年後に独立するので辞めたが、その後長く仕事を頂くことになった。

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馬を見ていたら、見つめ返された。

久しぶりに通った道沿いに、気になっていた牧場がある。千葉県富里市にある若草牧場さん。5年ぐらい前に、毎日横を通って通勤していたが、なかなか馬に会うことができなかった。今日は幸運だった。海からの帰り際、坂を上ったあたりで、馬の白いお尻が目に入った。やっとご対面、カメラを手にして柵のわきへ。

*食事の途中で 顔を上げてくれた

自分は競馬をしないけど、大垣にいた頃、馬が好きでたまらないっていう後輩がいた。好きだから競馬をするみたいな感じに思えたけれど、競馬自体が好きなわけじゃなかった。馬そのものが好きだったみたいで、長い休みの時、北海道まで馬に会いに行ったりしていた。その気持ちが、あまりよくはわからなかった。

学生の頃、オグリキャップという名馬がいて、それはそれは競馬の世界を盛り上げていた。競馬をやらずとも、誰もがその名を知っていたぐらいだ。引退した後は、北海道にいたと聞いていたから、彼は会いに行ったのかもしれない。あの頃はオグリのぬいぐるみも流行っていて、窓越しに飾ってある車をよく見たものだ。

*ちょうど 調教中の馬がいた

でも今日、青空の下で馬を見ていたら、今さらだけど彼の気持ちがわかるような気がしたんだよね。望遠で馬たちの顔を拝んでいただけなんだけど、馬の顔っていうのは本当に優しい。人の顔に例えれば、細面ってことになるのかな。真正面から見ていると目も隠れているようだけど、実はよくこちらを見てる。

を食べているところを、望遠を使って顔を上げる瞬間を狙って待っている。チラ見されるんだけど、食べることに夢中の時はチラ見するだけで又食べ続ける。よくあれだけ食べるなって思うけど、あの体なら必要な量なんだろうな。足の細さのわりには体が大きく感じるものね。ムシャムシャがよく似合っていたよ。

*この馬は じっとこちらを見ていた

この茶色のお馬さん、望遠で見ていたら、途中からずっとこちらを見ていたんだ。本当だよ、目をそらさなかったもの。初対面の自分が気になっていたのかもしれないけど、望遠だから見えていただけ。あの体のわりには小さく見える目で、よく自分のことがわかるなって思うと、愛おしくもなってくる。

馬に乗る人たちが、顔を撫でているシーンってけっこうあるでしょう、映画なんかでもね。馬って古来から人に身近な動物なんだろうけど、お互いに信頼関係をもてるようになれるって、憧れも感じるな。人よりも馬を愛してしまう人だっているのかもしれない。馬の目を見ていると、その気持ちがわかる気もするね。

*2頭同時に見られると 恥ずかしくもなる

帰りにいつもの肉屋さんに寄り、コロッケを買った。このお店の売りの商品に、実は馬肉がある。食べたことはないけれど、美味しいって話だ。

どんなことでもそうなんだろうけど、こういう時って複雑な気持ちになるよね。飲み屋さんで馬肉を注文することもあるし、馬だけが牛や豚よりも特別な生き物ではないんだけど、ああいう目を見てしまうと、複雑な気持ちにもなるよ。

人間は実際のところ、勝手な生き物なのかもしれないね。

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転職してからのことを、海を前に思った。

平成5年の4月、西濃運輸に入社した。先日も話をしたと思うけど、入社式の前日には、青春18きっぷで電車を乗り継いで大垣まで行った。期待と不安で、というよりも期待だけで自分自身が満たされていた。入社式の前から、隠れ愛社精神家だったのかもしれない。新幹線よりも、旅の感覚の方が好きだったけどね。

その愛社精神も、7年と3か月後に崩壊、退職へと向かうことになる。その間に経験したことは、一言では語り尽くせないほど充実していた。それについては、また別の機会に語る。とりあえず今は、転職について少し語ってみようと思う。

*朝陽というのは いつ見ても気持ちが昂る

そもそも自分は、転職するなんてことは考えていなかった。自分が大学を卒業した頃は、転職なんて言葉を聞いた記憶がないし、一度会社に入いれば終身雇用で頑張るような風潮があった。

だから、自分よりも4年ぐらい後に入社した社員が、1年ぐらいで辞めていくことを理解できなかった。頑張れよと言っていただけ。一緒にお酒を飲む時は、思い切り楽しんでいたけどね。

だからこそ寂しかった。後から来た彼らが先に辞めていくことがさ。まあ自分だって、1年目や2年目には悶々としていたから、いつ辞めてもおかしくはなかった。それが7年弱も在籍できたのは、3年目から楽しくなるぞという、例の部長の言葉を信じていたからかもしれない。要は、石の上にも3年ってやつだ。

*漁師の方たちが 黙々と働いていた

やがて時は流れた。

退職した後の自分は、転職ではなく個人の立場に立った。それも自分にかぎっては、勢いだけの計画性のない個人事業主になり、30代という若さだけが自分を引っ張ってくれた。それが7年弱続いた第一次運輸業時代。その時、ハッキリと悟ったことがあるんだ。

西濃運輸という組織がいかに巨大な企業であったのか、自分がいかに小さい存在であるのか、いかに自分が弱い立場に立たされているのか、それをハッキリと悟ったわけだ。大企業の傘に守られぱなっしで、飛び出してみたら知らないことばかり。社会保険の算出方法さえ、ろくに理解していなかった。

それからの自分には、知識と知恵がものすごい勢いで蓄えられていった。無我夢中だったよ、自分が生き残るためには。初めて知ったわけ、自分を守れるのは自分自身の力しかないってことを。必死になるのが当たり前。何よりも優秀な技術を身につけて、皆に使ってもらいたかった。

*波もふだんなら 画になるんだけどね

会社を辞めたことで、その後の20年間は極めて充実することになった。苦しいことの方が多かったけれど、今となってはすべてが自分の糧になり役に立っている。無駄なことは何もなかった。転職が、大きな転機になった人生の一つの形。

ここでハッキリと言えるのは、今の自分が好きだってこと。ここまでやってこられた自分を嫌いにはなれない。

学びたいことを学ぶことができた。学びたいと思った数だけ、誰に気兼ねすることもなく学ぶことができた。時間が許すかぎり学んだ。少し偉そうだけど、こうして語ることもできるようになった。これから先も学びは続くけれども、思い出すたびに楽しくなれるというのは、幸せなことだと思っている。

*小さな砂丘みたいな場所も好きだ

海を見ていると、余計な力が抜けていく。一生かかっても梅を抱くことはできないが、海はいつでも自分を抱いてくれる。海を見て安らぎを感じられなくなったら、人生も終わりに近い。

まだ何かができる、自分自身を信じられる今日の海だった。

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トイレ掃除の仕事には、もっとお金を支払って!

トイレ掃除というのは、尊い仕事だと思っている。10年以上も前になるけど「トイレの神様」という歌があった。トイレもこんな歌になると、綺麗なイメージになるなと思ったよ。植村花菜さんの声が、まるでトイレを磨いていくように思えたものだ。

*まるで声がトイレを磨いているようだった

トイレについてのエピソードと言えば、本田宗一郎氏については印象深いものがある。詳しくここでは述べないが、とにかく氏はトイレという場所を大切にした。トイレを汚くしている人とは付き合わないと決めていたぐらいだ。本にも書いてある。

自分が住むアパートのトイレには、ウォッシュレットがついている。入院生活の時の便利さが病みつきになり、使うことが日常的になった。ただし、使うだけでは駄目。流すだけの水洗トイレと違い繊細さがあるから、ノズル周りのこまめな掃除も大切。

でもやはり、一番大切なところは便器の部分だと思う。自分はフタをしておくタイプだが、自分しか使わないとわかっていたとしても、フタを開けた時に便器光っていると嬉しい。開けた瞬間に、川の流れのような跡がついていると気持ちがなえる。

*1回使用するたびに マジックリンをひと吹き

体の中から出されるのは排泄物。尿でも便でも綺麗じゃないことはわかっている。綺麗じゃないから排泄する。それならば、受け側の便器も汚くていいのか。

不思議な話だけど、便器が汚いと用足しが気分悪くなる。

外出先のトイレを使った時に、そう感じることがないかな?デパートのトイレが汚れていたりすると、そのデパート全体が汚く思えたりする。スーパーだったらなおさら、食品売場さえも不潔に思えて来る。本田宗一郎氏の言うことは的を得ていると思う。

20代の時にお世話になった独身寮の寮母さん、当時70歳だった。古い寮だから5階まであってもエレベーターはない。毎日順番を決めて、トイレの掃除をしてくれていた。築30年以上でも古いだけで、汚いって感じたことがなかった。ありがたかった。

*ホーミングで磨くと 輝きがよみがえる!

求人を見ていると思う。トイレ掃除の時給は、仕事のわりには本当に安すぎる。その立場で考えてみるといいよ。不特定多数の人間が、毎日使うわけだ。一歩前になんて貼り紙に有効性があるとは思えない。便器からはみ出した汚物も処理する。時には固まっていることもある。残っていることもある。すべてを処理する。

一般的に肉体労働の賃金は安い。肉体労働という仕事自体が安く見られている気もする。自分でやってきたからわかるけど、誰もができそうで、誰にでもできるわけじゃない。それ相応にも必要だし、技術だって必要だ。やってみればをかくことの尊さがわかるし、賃金の安さを痛感する。

トイレ掃除ともなると、そこに汚さを処理するという条件が加わるわけだ。便器をこすったタワシの隙間から、汚水が飛び散って顔にかかることなんか日常茶飯事。さらにこういう仕事をする人は年配者が多い。賃金が安くては、若い人は集まらない。家庭もちならなおのこと、尊い仕事でも選択肢のひとつになりにくい。

*本田宗一郎は 伝説的なエピソードが多い

時々、スーパーホーミングで便器を磨く。ミサイルみたいな名前だけど、汚れに対しては最強で、磨き終わった後の輝きは他者の追随を許さない。

でも、便器一つだから満足がいくまで磨けるのかもしれない。ずらっと並んだ便器を、時間内に磨き上げていくっていうのは大変だ。入院していた時に、清掃する方には気を使ったよ。ゴミ箱からゴミを取り出しやすいように、袋にまとめておくとかね。

トイレ掃除に限ったことではないかもしれないけど、もう少しその価値が正当評価されてもいい、そういう仕事だと思うんだ。

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100本の目標、思うがままに書く!

書きためた21本の記事から始めたブログ。100本を目標にして書き続け、この記事で既に76本目。始めたのが3月31日だから、ちょうど3週間が経つ。順調に進んでいると思う。

なぜ100本なのか?答えは簡単。単に本に書いてあったから。始めたら、まず書き続けてみること。例えば100本書くっていう目標をもつのもいい、とにかく書いてみることだ、と。

*しっかりと選んだ指南書は有効活用したい

ただ、毎日3本とは書いていなかった。書き続けることが大切とだけあった。書くという習慣をもつことが大切であって、書く場所なんかどこでもいい。書くことを自分自身の使命にしろと。

そこで自分は考えた。毎日書いて79日目に100本を達成するか、それとも目標とする日付を決めて100本を達成するかの二者択一で。自分の性格に合った方法は果たしてどちらか?

選んだのは後者、日付を決めて達成する方法。1日1本だと、期間が長過ぎて油断しそうな気もする。今日書かなくても、明日2本書けば特に問題ないだろう、そう思いかねない気もした。

どちらかと言えば、自分は短期集中で燃えるタイプだ。当然、好きなことなら持続性も高いが、まず初めに自分自身を一気に盛り上げようと考えた。盛り上げた勢いで、持続可能を確実にする。

*まだ キーストロークがかみ合っていない

では達成する日付をいつにしたらいいのか?少し考えることになった。1日平均2本で書いていくと、5月末でも終わらない。それでは79日かけて書くのと大差がない。その差は2週間だけ。

自分を追い込むことが目的でもある。そうなると1日3本書くのが、少な過ぎず多過ぎずで丁度いいんじゃないか。少しだけ余裕を加えて、4月末までの30日間で達成するのがいいだろうと。

初めの21本は10日間ぐらいかけて書きためた、1日に2本のペースで。4月末を目標にすると、1日最低3本は書く必要があった。時間がある今なら、やれる!と思った。実行にうつした。

1週間目ぐらいは順調だった。調子が出てきて波に乗れたきがしたが、2週間目の終わりぐらいから、少し頭で考えるようになっていた。職人気質的な性格が少し前に出始めてしまった。

*久しく見ていないスカイライナー 見たい!

駄目だ、これじゃ!今は技巧に走る時じゃない!細かいことを考えるんじゃなく、まず書くことが目的なんだ!何を書こうかではなくて、思ったことを書けばいい!思い直してまた書き始める。

それでも1日最低3本のペースは、思っている以上に大変。写真も挿入したいし、ダラダラと文字を並べるだけでは満足できないし。完璧は今求めることではないが、だらしない文章はいやだ。

素人だから、初心者だからという言い訳をするタイプじゃない。
ましてや、記録書を作っているわけでもない。誰かに読んでもらえたらっていう思いも託している。恥ずかしい文章は駄目だ。

こんなことを考えていたら、ここ数日、久しぶりに頭痛が続いている。脳みそのパワー不足が言葉の生産活動を妨げているのか。
でも、100本目まで7割のところまで来た。立ち止まれない。

*久しく海も見ていない 見に行きたい!

今こうして自分の思いを記事にしたことで、また弾みがついた。

4月末日まで残り10日。この記事を除いて、残り24本でひとつのを乗り越えられる。長い休業の中で、達成感を味わえるはずの2つ目の目標。達成出来たら、次は文章の技巧にも重点をおいて書いていく。同時に3つ目の目標を進める。頑張らないと!

あれ?でも仕事は?まあ何とかなるだろう。目標を達成できたなら、何かが見えると信じているから頑張れるんだ。

今は100本を目指し、思うがままに書いてみよう!

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人生経験 俺の考え 日常生活 読書 趣味

松下幸之助から、今も学びきれていない。

自分は、松下幸之助という大人物から、直接学んだわけではない。関係する会社で働いたわけでもない。よくあるように、巷にあふれている氏にかかわる書籍を多く読んで学んだだけ。

正直に話せば、手元に残る氏の書籍は「道をひらく」「続・道をひらく」の2冊だけ。残りは昨年の引越の際、すべて処分した。

*この2冊は 絶対に手放せない

読める時にかなり読んだつもりだが、結局この2冊に収まった。いや収まったというよりも、特にこの2冊が大切だと思えた。

何度も話しているが、とにかく読みやすい。読みやすいからスッと頭に入る。でも実践することは難しい。氏だから書けた文章であり、それゆえに尊くもある。

この2冊では、間接的な言い回ししかしていないが、氏が考える上に立つ者の姿とは、大きく分けて3つある。

すなわち、①「才将」②「賢将」③「徳将」の3つだ。

①「才将」とは、他者がこの人には適わないと感じるような人。

②「賢将」とは、戦略や他者の使い方で成功を収めるような人。

③「徳将」とは、人徳によって他者が自然と集まり、持ちあげてもらえるような人。

この3者の内、氏が最もなりたかったものは「徳将」。

自分の人徳を慕って、自分よりも能力を持つ他者が自然と集まる。自分自身が指示を出さなくても、彼等が自ら気づいて考え、判断して行動し、自分を盛り上げて会社を発展させてくれる。
そんな人物が「徳将」と言われる。

*人を引きつけられる魅力がほしい

極論を言えば、人徳をもつことで他者が集まり、彼等はこの人のためならと働き、自分はすわってるだけでいいってことだ。

一般的に考えて、こういう人物はほとんど存在しない。存在しないがゆえに、氏が「経営の神様」と言われるゆえんだ。

でも、どんな仕事をしていようとも、たとえ一人で働いていようとも、目標として目指すのなら「徳将」になるのがいい。

ただ、忘れてはいけないことがある。「徳将」でありたいなら、集まった他者に任せるという気持ちが大切だということ。せっかく集まってもらっても、任せきれないんだったら意味がない。

上に立つ者がやるべきことは、成功しても失敗しても最後の責任をとるということだけ。後は任せる。それが集まってくれた他者への最大限の敬意にもなると思う。俺が俺がの気持ちが残っていたら、せっかく集まってくれた彼等も、失望して離れていく。

*自分の非を先に認めた方が楽になる?

さて、昨今の新型コロナウィルスがまん延している状況の中で、どれほどのリーダー達が他者を使い切れているのだろうか?

下手にを焦ったり人気取りをするよりも、自分にない知識や知恵を持った人物をしっかりと使いこなし、的確な判断を下せるように内面を磨きなおした方がいいように思う、そんな人が多い。

俺がやらねばという気持ちも大切だろうけど、人間はその人自身が思っているほどには案外、期待されていないものだよ。

選ばれた立場に酔いしれるよりも、その立場を有効に使えているのかどうか、今一度、自分自身を見つめ直すことも大切。決断を焦ると、いつまで経ってもウィルスとのいたちごっこになる。

*いくつになっても 失ってはならない学ぶ心

松下幸之助氏の「道をひらく」は昭和40年代に世に出ている。自分が生まれる以前のことだ。時は流れて世の中は進歩したように見えて、人間自体はあまり進歩していないってことだろう。

松下幸之助氏ひとりにさえ、学びきれないことが多すぎるってことだね。

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人生経験 俺の考え 入院日記 2020年夏

病院の食事は、とても美味しかった!

病院の食事は、美味しかった!独身で料理をしないから、よけいこう思うのかもしれない。でも実際のところ、昨年の入院時も前回の時も、病院の食事は美味しかった。ひとつだけ、あれ?って思うことを挙げるとすれば、4年の間に、1食あたり200円値段が上がったということ。事情があるんだろうけどね。

*大学芋は甘さも控えめで美味しかった

入院当初、自分の食事はが少なかった。今回は新型コロナウィルスへの感染対策がついてまわっていたから、リハビリもリハビリ室でやらずに階ごとに行い、前回と比べればを流さないような内容。そのためか、お腹が減るって感覚があまりなかったが、患者は食べるのも仕事。少なさを感じたりもしていた。

*食事のたびに出る メニューと栄養表

原因は、入院した日に記録された体重の数値。自分は自宅でも、毎日体重を測るから、記録された数値を栄養士さんに見せられた時びっくりした。入院前日の体重よりも、10㎏多く記録されていたんだから。必然的に食事の量は減らされる。体重を減らすためのメニューになっていた。おなかがすくのは当然のこと。

*自宅では具が無くても気にしない冷やし中華

すぐに記録を修正してもらい、1日あたりのカロリー設定を上げてもらった。病院食の最大カロリーの2600kcalまでね。汗をかかないとなると、これは摂り過ぎだったかもしれない。でも、汗をかかずとも部屋で文章を考えたり読書をして頭を使うようになると、やはりおなかも減りだした。しっかりと食べたよ。

*回数は多めで 量も多かったのがカレー

何よりも美味しかったからね。カレーなんか見た目はお子様ランチのようにも思えるでしょ。実際はお皿も大きくて、ボリュームがあるんだよね。入院が長くなると、何回かメニューになっていたけど、そのたびに写真を撮っていたね。形が同じになるってことはないから、撮ることも楽しかったな。

*シンプルに見えても 実際は豪華

チキン南蛮は、外の料理屋さんに行けば、もっとタレも多いのかな。肉も油がもっと多くてテカった感じがあって、見た目からしてジューシーでね。そこは病院食。油も控えめで、タレも少なめだけど、そこそこに外食して来た自分には美味しかったな。さっぱりした感じが良かった。カリカリ感もあったのがいい。

*酢豚なんか自宅では まず食べない

酢豚なんて、まず自宅では食べない。中華料理屋さん以外では食べなくなってる。母親の料理なら食べたことがあったかな。この病院の酢豚、ご飯にかけてみたら美味しかったね。酸っぱさだって、外で食べるよりも控えめなのかな。豚の食感がちょうど良くて、やみつきになるような味で好きだったな。

*スクランブルエッグも何年ぶりだったか

よく病院食をまずいと言う人がいる。日常の濃い目の味付けに慣れてしまえば、薄口なんだからそう感じもするだろう。

自分は、子供の頃から好き嫌いを許されなかったし、そのせいではないと思うけど、まずいって感覚がほとんどないかな。出されたものは食べる、自分で作らない人間だからなおさらのことだ。特に病院食なんか、栄養士の方が可能な限り個別に内容を考えて下さっているし、朝早くから作っているのを見ているとね。

*食べやすくて美味しかったサンド

仮に外のお店で食事をして、本当にまずいって思ったら、2度と行かないだけのこと。お金を払っている以上、お金を払う価値がないものにをかけるほど世の中も甘くはない。食事に限ったことじゃないけれど、情をかけて商売を長生きさせることほど、本人にとってためにならないことはないよね。

そう考えると、病院の食事はとても美味しかったよ。

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活

塩分を1日6g以内、これはかなり難しい!

塩分を1日に6g以内に抑える。これは、かなり難しい!

毎朝毎晩、血圧を測っていることは話した通り。選んだ測定器も順調に働いてくれてるし、測定する習慣はしっかりと出来てる。2回3回と測り直すこともあるが、それは病院の看護師さんもやっていたことだから特に問題ない。要は、測定された数値が、平均的に下がって落ち着いているかが大切なんだ。

*2週間前の 血圧測定の記録

自ら購入した血圧手帳は、大当たりだった。毎日、数値を書き込んでいくことが楽しくなったし、数値を書き込むことがグラフ的な効果をもっているから見直すにもいい。数値が少し高めに出るだけで、不安とまでは行かないが、なんでだろうを考えるようになった。何が原因なんだろうって感じでね。

塩分6gについては、前回の入院時にも学んだ。父親が心臓の手術をした時にも、病院からの説明の中にあった。自分なりに意識して生活していたつもりだったけど、その場の勢いで暴飲暴食をしていたのかもしれない。特にここ3年ぐらい、問題があったと思っている。いい写真になった食事は、案外?がつくかも。

*インスタントラーメンは 塩分の量が多い

たとえば、インスタントラーメン。麺とスープを合わせた塩分の量はかなり多い。袋の裏面に記載されているから、誰でも確認できる。塩分の摂り過ぎが血圧を上げることは、周知の事実になっっているから、やはり気にした方がいい。6gを気にしたら、まずスープは飲めない、残すものとして考えてしまう。

でも、食事は基本的に3回だ。スープを残しても、麺にからんだスープもあるわけで、考えている以上に塩分を摂っている。しかも1日に6g以内だよ。摂取可能な塩分量の残りを、他2回の食事でうまく収めるしかない。これがかなり難しい。塩分がほとんど含まれてないものを選ぶしかない。例えば大豆の水煮とか。

*焼きそばは スープ以外の塩分が多い

こう考えていくと、高血圧対策というのは本当に難しい。毎日実践していることは、こんなところかな。

  • 食前と食間に高カカオチョコを1日25g食べる
  • ご飯や麺類などの主食を最後に食べる
  • 醤油やソースはかけずにつけて食べる
  • 卵・青魚・大豆などでたんぱく質を摂る
  • 牛乳・ヨーグルトなどの乳製品を食べる
  • お酢を毎日大さじ1杯以上摂る
  • 1日に5杯ぐらい緑茶を飲む
  • 時間が許す限りよく噛んで食べるようにする

などなど、細かいことなら他にもたくさんある。

*高カカオのチョコは高血圧対策にいいとか

でも体のためとは言え、ここまで細かく考えていくと、何をたべていいのわからなくなってくるよね。いや、わからないと言うよりも、食べられるものが限られてくる。たまには外食とか弁当でもって考えはする。我慢ばかりじゃストレスもたまるし、栄養バランスも偏るからね。それも、近頃は出来ないでいる。

昨年亡くなった祖母が、なぜ100歳を超えて生きられたのか。最後は寝たきりだったけれど、よく思うことがある。添加物が多い食事をしていなかったなと。戦争をまたいで中心の食事も多かっただろうに、どう栄養を摂っていたのかなとも。

戦時中を生き抜いた人達はたくましい。あまり細かいことを考えずに長生きしてる。栄養学がどうのこうのよりも、長い時間をかけて人が築き上げてきた食事の歴史に従っているのかな。自分もすでに、現代病の1人になっているということだろう。

塩分6g以内の壁を、うまく乗りこなし行きたいと思う。

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人を見る時は、あくまでも自分の目で。

先日、話をしたセイノー体操。社長室の前にマイクを立て、腕を振りながら、かけ声を繰り返す毎日。間違えれば社長からのクレーム対象になる。新入社員が入ってくるまでは、最低1年間は自分たちが務めを果たす。1日1人の順番で、日曜と祭日以外は感情を捨ててマイクの前で体操を続けた。

翌年の春には、同期の1人が転勤。残った2人で交互に務めていたところへ、新入社員が1人配属された。3年目にも又1人配属されてきた。互いに平日の休みもあるから、完全に引退することは出来ない。時間の無駄を感じ始めていた。体操自体は必要だと考えていたけれど、体操に振り回されることが嫌になっていた。

1年下の後輩と決心した。声をテープに録音してしまおう、と。

*後輩と2人で毎日 メトロノームを眺めた

その日から約1ヶ月上司との戦いが始まった。上司というのは例の、自分にいじめてやるぞと言った上司だ。部長という職でありながら、窓際的なイメージしかなく、厳しい戦いの始まりを感じていたね。とりあえず、体操のやり方を変えてみたい、テープで録音して流したいという提案は通した。

皆さんは、この改革を簡単なことのように思うかもしれない。

でも、それは大きな間違い。何と言ってもこの体操、1代目の時代から同じやり方で行われてきた。しかも、労務課の新入社員の儀式として皆が見ている。ある意味で、楽しみにしているわけ。声をテープに吹き込むってことは、フロアの中心に立つ人がいなくなる。部署ごとに、かけ声を出さない人だけが立つわけだ。

*当時はまだテープを使っていた

そして、何よりも一番難しいのは、かけ声テンポなんだ。速すぎても遅すぎても駄目。誰もが納得できるような速さでなくてはならない。仕事で硬くなった体をほぐすための体操、終わった時に疲れを感じてしまっては意味がない。

この点について、自分と後輩の2人だけで計画を進めるには、まだ経験が浅かったようだ。

何度くりかえし録音したことか。テープに録音するたびに部長にのところへ。テンポが速すぎる、いや遅くなった、声が聴きづらいなどの辛口評価がくりかえされる。あっという間の1ヶ月だったね。後輩は、もう無理ですよと言い始めていた。テープを突っ返されるたびに、イライラも募っていたね。

*録音機器は違うが 録音ボタンを押し続けた

その部長は、社員から嫌われていた人だった。自分もその一人だったと思う。好きにはなれなかった。若輩者の自分の目から見ても、仕事らしい仕事をしているようには思えなかった。それこそが、若さというものかもしれないけどね。

なんとか許可をもらうことができた。テープは完成し、マイクの準備をすることなく体操を行う日を迎えた。

初日は成功だった。そして思った。録音されたペースは、ちょうど良かったと。お世辞とかではなく、部長が許可を出したペースに気持ち良さを感じられた。ドンピシャってやつだ。長年の体操経験から、一番気持ち良く体操をできるペースを、体が覚えていたんだと思う、部長さんは。

曇りガラスを通して部長を見ていたのかもしれない。大企業の部長というポスト、誰もがなれるわけじゃない。何かしら人よりも秀でたことがあったからこそ、その椅子に座っているのだろう。実際にその能力が、通用するものだったのかはわからないが、少なくとも自分たちには良き結果を導いてもらえた。

*ちなみに 今の録音機はこのタイプ

人を評価できるほどの人間ではないが、少なくとも他人の評価だけで結論づけることはやめた方がいいと思う。判断するのは、あくまでも自分自身。その結果が大多数の他者と違っていたとしても、自分自身が考えた結果なら納得がいくはず。可能な限りその判断を信じてみるのも、果ては自分自身のためにもなる。

人を見る時は、あくまでも自分の目で、だ。