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労働の帰り道、電車の席に座れなくて…

大学1年と2年の頃は、肉体労働のバイトをしていた。

2年間は教育課程にあって授業も多かったから、週末の土日だけ働いていた。通常は渋谷の本校で授業を受けていたが、週に一度だけ体育の授業があったので、その際には東急田園都市線のたまプラーザ駅まで行って、新校舎で終日過ごした。

父母と妹は高校2年の時からアメリカにいたので、浪人が決まった時、2年間過ごした下宿を出ることになった。落ちついた先は、千葉県船橋市にあった父の会社の寮。今はその寮もなくなっているが、ホテルみたいな所だった。その話はまた別の機会に。

*映画「息子」から 車内が暑い 団扇であおぐ

その寮を起点に、週末だけ、日払いや日給月給の肉体労働をこなしていた。その頃はまだバブル経済まっただ中で、学生でも仕事はいくらでも入った。ただ今と比べれば安かったな。実質労働8時間で1日6,000円、時給にして750円だった。

自分の高校はバイト禁止だったから、バイトをしてお金がはいることは嬉しかったね。だから、週末は夢中で体を動かした。離れた場所でも仕事もしたな。日曜とかに、電車で往復4時間かけて船橋から横浜まで仕事に行ったりね。深く考えなかったな。

言うなれば、10代の若さってやつだろうね。月曜から金曜まで授業はしっかりと出て、土日はみっちりとバイト。でも、佐賀県から出てきて新聞屋さんに住み込み、朝晩の配達をこなす立派な仲間もいた。それに比べると、恵まれた環境にあったと思う。

*映画「息子」から バイトはこんなイメージ

日払いの仕事なんかでは、ロッカーは使いまわし。前日に誰が使ったかもわからない。ひどい匂いがした時もあったね。路上生活者もバイトに来ていて、風呂に入らない人間も多かった。夏なんかは大変、戻ってきたら荷物に匂いが移っていたりしてね。

それでも、お金がもらえることが嬉しかったから、季節に関係なく大汗をかきながら働いていた。

夏のある日、渋谷から山手線に乗って品川まで行き、大井のコンテナ埠頭へ。そこからコンテナトラックに乗って、引越作業の助手をした。このコンテナの中が暑い。鉄板の箱がまともに陽を吸収するから、中での作業は体が燃える。汗を流しクーラーで乾かしての繰り返し。夕方、埠頭に戻った時は、作業着は真っ黒になる。大雨もあったりで、すべての汚れを吸収したような感じ。

*映画「息子」の設定は 当時の状況と同じ

帰りの山手線の中、あまりに自分が汚かったから、座席に座るのに気が引けた。座っちゃいけない気がしたんだ。対面の席だから特に嫌だった。立ちんぼで渋谷まで行く。渋谷から事務所の代々木まではバスだ。もう疲れに耐えられなかった。席は前向きだったし、空いていたから座ることにした…。

悪いことをしてるはずなんかないんだ。しっかりと働いて来たんだから、恥ずかしいことなんて何もない。そもそも作業着についた汚れは誇るべきものなんだ。でも、その汚れが座席にしみつくような気がして、電車の中では座れなかったんだ。

汗して働くというのは尊い。まだ、よく世の中を知らない学生だったが、おかしなところで社会人ぶっていたのかな。

その尊さを自己主張できるほどには、自分は大人になり切れていなかった。今となっては、純粋な思い出のひとつだ。

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歴史に学び、経験にも学ぶ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。ドイツの鉄血宰相、オットー・フォン・ビスマルクの言葉だ。見事だと思う。

こんな言葉も残している。

「青年に勧めたいことは、ただ3語に尽きる。すなわち『働け、もっと働け、あくまで働け』だ」。こちらは、今の時代なら否定されるのかな?

*ビスマルク体制と呼ばれる国際関係を築いた

ともかく歴史上の大人物たちは皆、後世に立派な言葉を残している。ビスマルクの言葉通り、人間が歴史に学ぶことは極めて大切なことだ。歴史に学びきれないから、人間はいつまでも同じ過ちを繰り返している。過ちがエンドレスに思えるね。

だけど、やはり経験だって大切だ。誰もが等しく地球上の歴史を学びきれるなら、この世はいつだって春を感じているはず。それができないでいるから、主義主張を認め合うこともせずに、地球上のどこかで毎日戦争を続けている。

歴史は学び続けるものとして、やはり経験からもしっかりと学びたい。なにも自分だけの経験に限る必要はない。他人の経験から学ぶのだってありだ。映画の中の主人公から学んでもいい。経験はどんなところからだって学べるはずだ。

*映画「ROCKY THE FINAL」の小説版

例えば、映画「ロッキー」からもたくさん学んだ。

このロッキーシリーズの最終作「ROCKY THE FINAL」。ロッキーが共に歩んできた愛妻を亡くしている。経営するレストランは順調だが、妻を亡くした後の心の穴を埋められずにいる。もう一度、リングに立とうとする。60という歳で。

焼きが回ったなと笑う世間に耐えられず、息子がロッキーに試合の中止を進言するわけだ。その時、息子に吐いたロッキーの言葉が深い。

*映画のセリフに感動し 小説のこの部分に感銘を受けた

人生は晴れの日ばかりじゃない。リングの上でたくさんのパンチを受けてきたが、人生というパンチほど重いものはない。どんなに打ちのめされても、自分の価値を信じて前に進め。パンチを恐れるな。自分の弱さを他人のせいにするな。卑怯者になるな。

自分はロッキーの言葉をこんな感じでまとめ、大切にすることにした。丁度その頃は、特に歯を食いしばって仕事をしていた時期で、冬でも半袖1枚で十分だったくらいに頑張れた。その時のあだ名は鉄人だ。ポンコツの今とは比較にならない。

映画の中の主人公さえも、その経験の中からたくさんの大切なことを教えてくれる。ましてや命ある人間からなら、もっと学べるかもしれない。常に謙虚な自分であるかぎり、経験は向こうから扉を開いてくれるはずだ。

*人生で受けるパンチは リング上で受けるよりも重い

歴史に学び、経験にも学ぼう。人間ひとりの人生などは、たかが知れている。人の経験を聴くこと自体が、また自分の経験に組み込まれていく。経験の連鎖はエンドレスだ。経験の積み重ねがやがて、ひとつの大きな歴史になる。

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父親にとってのJAL、日本航空。

父は今年の夏、82歳を迎える。

心臓の手術をしてから早くも12年が経った。心臓の機能をいったん止めて弁を人工弁に変えた。見た目は普通だが、障害者手帳を携帯して暮らしている。先生は15年はもつと話していたから計算上は残り3年。今では、すっかり小さくなった気がする。

*若き日の父と自分 どこだったかな…

そんな父の誇りは、JAL、すなわち日本航空(以下 日航で)だ。

兄弟が何人いるかも知らず、里子に出された貧乏からのたたき上げ、商業高校卒で日航に入社できたのは幸いだった。何と言っても当時の日航は、東京六大学卒の社員がひしめいている時代で、さらに半官半民、伸び盛りの会社でもしがらみは多かったはず。

だが父は、日航にすべてをかけるつもりで働いた。東京六大学卒の社員をしり目に、50歳の中頃には取締役になっていた。町内名簿などには在籍中は平社員で通したが、人事権さえ有する立場だった。会社の肩書よりも、会社で働くことを愛していた。

お蔭で自分も妹も、苦労することなく大学まで卒業することができた。逆に社会に出てからその反動は大きく、甘えを断ち切るまでは苦労することになった。とは言っても、何度も話すように、必要な時に父は、容赦なくその手をあげた。痛かったね…。

*貴婦人と呼ばれた ダグラスDC-8

父は国際線の地上部門の総合的な事務職だった。羽田・成田・福岡・関空、海外ならコペンハーゲンとアトランタ。インドでの研修に出かけたりもしていた。日航は、父のすべてだった。

だから、あの日、日航が消えた2010年は辛かったと思う。

63歳まで5年間勤め上げた子会社も退職して、年金暮らしに入っていた時だ。年金が減額された上、日航に未来が見えない。父はその身を、半分持っていかれたようなものだったと思う。

そもそも日航は、JASを吸収合併して鶴丸のマークを捨てた時、先行きが危ないように思えた。時代に合わないような拡大路線は、戦時の大艦巨砲主義そのもの。フットワークもまるでなくなっていた。その結果、数年で身を持ち崩したわけだ。

同じ年金暮らしの人間の多くが愚痴をもらす中、父はこう言っていた。若い社員もみんな頑張ってるんだから、と…。

2012年、日航は再び上場を果たす。その後、鶴丸のマークも現代的にアレンジされて復活した。正直言ってあの時は、父よりも自分の方が嬉しかった。子供の頃から見ていたんだ。どこに行っても、鶴丸さえあれば安心できたんだから。

*映画「男はつらいよ」にも よく出演した

この鶴丸のマーク、正面から見た鶴じゃないよね。鶴が少しだけ体をひねっているん感じなんだ。そこがまた素晴らしいんだ。このデザインを考えた方たちは、本当にいい仕事をしたと思う。このままずっと、変わらずにいて欲しいと思っている。

日航は復活したが、新型コロナウィルスの影響下、その営業はまた厳しい中に置かれている。一度あることは二度あると言う。父が人生の半分をあずけ、愛し、そして誇りにしてきた会社が倒れる姿は二度と見たくない。

いつか先に旅立つだろう父が、その古き良き思い出を、思い出のまま連れて行けるように、日航、いや、JALの方々には頑張ってほしいと思っている。

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痴呆症だった祖父が、残した教訓。

20年前に祖父は亡くなった。87歳だった。

亡くなる直前に会うことができたが、それまでの数年は仕事が忙しく、ほとんど会えずじまいだった。

祖父は、最後の4年間ぐらいだったかな、痴呆症で晩年を過ごしていた。6歳下の祖母が、ほとんど一人で世話をしていたことになる。時には自宅を抜け出し街中をさ迷い、道につまずいて倒れ、血を流していたこともあったらしい。

*在りし日の 祖父と祖母…

自分は岐阜県の大垣で仕事漬け、あるいは佐倉で新しい店所の開設委員だったりと、忙しい毎日を過ごしていた。会社を退職して会えた時、すでに最後を迎えていたわけだ。あれだけ世話になっておきながら、義理に外れていたかもしれない。

だが祖父は、大切な教訓を残してくれた。言い方が悪いかもしれないが、痴呆症に対する大切な教訓だ。自ら考えて何かを生み出すことが大切だということ。受け身だけの生活では痴呆症になりやすいこと、それを祖父は身をもって教えてくれた。

そもそも祖父は、幅広く趣味をもっていた。

小学2年の頃、祖父母の家に預けられて暮らしていた。毎週日曜日になると、祖父と2人で渋谷新宿に出かける。目的は絵画鑑賞が中心。渋谷なら東急本店、新宿なら小田急デパートなど。出かけるたびに、美味しいものにありつけるので楽しみにしてた。

祖父は大正生まれのハイカラな人だった。晩酌は決まってワイン、つまみの甘納豆さえ渋谷まで買いに行く。味にこだわる人だったね。ちなみに最寄駅は下北沢、夕方になると、会社帰りの祖父をひとりで迎えに行く。改札から出てくる祖父を、ハチ公のように待っていたもんだよ。

*写真も脳を活性化させる 1年前の京成スカイライナー

絵画鑑賞以外にも、庭に灯篭をおいて眺めたり、文鳥を飼ってみたり、そうそう、掛け軸とかも好きだった感じ。本当に多趣味な人だったね。祖母が地味な人だったから、趣味のためにお金を使えたのかもしれない。73歳まで働いていたしね。

でも、ここで考えておきたいことがある。

それは、祖父の趣味は、ほとんどが受け身の形で、自ら考えて生み出しているものがなかったってこと。幅が広く多趣味ではあったけれど、亡くなった時に祖父の自作と言えるものが無かったに等しい。手に入れて眺め、感想をもって終わりだったんだな。

指先を器用に使っている人はボケない、そう言われる。指を一本ずつ動かすことで脳を活性化させるらしい。楽器を弾いたり絵を描いたり、あるいは文章を書いたりとかいろいろとある。それが非日常的なことで、ものを創造することにつながるのがいい。

*去年猫を亡くしてから 母はaiboを調教する

やったことのない新しいことを、可能な限り指先を使って行う。そんな時こそ脳が活性化し、ボケ防止につながるというわけだ。

自分としては、この考え方は正しいと思っている。

現実に、音楽家たちは音の追求を続け、もの書きをする方たちは言葉を著すことに貪欲だ。絵を描く方たちはより良い色を求めて長く描き続け、料理に生きる方たちも味の追求に余念がない。みんな、新しい創造をすることに努め、そこに終着点を感じない。

有名無名、業界人一般人とかは関係ないよね。自分がやってみようという気持ちになって続けること、それが大切だと思うんだ。

*母は絵を描くことに夢中で 実家の壁は絵でうまる

自分は今、本格的に書くことに目覚め、集中的に始めることで楽しむことを知った。77歳の母は絵を描くことに夢中だ。

互いに祖父の血を引き、互いに好奇心が強い。その好奇心が進むべきところは、自分で何かを生み出して行くという世界だ。

人生100年を意識するよりも、いかに健康充実した毎日を続けていけるか、それを追求する方がよほど大切だと思う。

いい意味で、祖父は教訓を残してくれたと思っている。

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日常生活 読書 趣味

読書は必ず役に立つ! その2

友人に薦められて、源氏物語を読んでいる。

田辺聖子さんの「新源氏物語」、新潮文庫で上中下の全3巻、合計で1,400ページ。さすがに大作だ。この作品が平安時代に書かれたなんて、紫式部という人のすごさには脱帽してしまう。

*平安時代の甘美な世界を味わえる

でも、急いで読んだりはしない。じっくりと味わいながら、他の本と並行して読み進めている。速読が似合うような内容じゃないよね。平安の悠久な時を感じながら、ゆっくりと進めていく。

高校の頃は国語の授業が嫌いだったから、教科書の掲載文にさえ興味がなかった。古典の授業なんて何がおもしろいのか、まったく理解できなかったね。現実の生活には何の役にも立たないような古くさい文章、読んでも意味がないような気がしたよ。

今だって古典の文章のままなら、読む気が失せたかもしれない。

やはり、田辺聖子さんの訳がうまいからだろうな。惹きこまれていってしまうんだ。読みやすいから、その気になれば一気に読めそうな気もする。だからこそ逆に、味わって読んでみたくもなるんだ。ゆっくりゆっくりと、源氏の足跡をたどっていってる。

ところで、読書するのに最も集中できる場所ってどこだろうか?

源氏物語に限らない、どんな本を読むにしても、自分にはトイレが一番いい。ドアを閉めれば読書のための個室だ。窓はないから、外の音からも遮断される。こんなに集中できる場所はないと思う。文字を追い続ける瞬きの音しか聞こえない、そう言っても差しつかえないだろう。

第一次建設業の時代には、出発前の5時から5時半までが、トイレで読書する時間だった。この毎日30分の繰り返しが、今の集中力を鍛え上げたかもしれない。もちろん、仕事を終えて帰宅してからも読書は欠かさなかった。

*昨年の引越の際にかなりの本を処分した

当時はね、こんなことを真面目に考えていた。

この先死ぬまで何冊読めるかな。60歳を一つの目標として、1年に100冊読んだとしたら、20年あるから2,000冊読める。単純に考えて80歳までなら4,000冊。やれるかもしれない。

とにかく、読みまくることにしたんだね。

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人生経験 俺の考え 入院日記 2020年夏

看護師さんの前に立つ!

手術当日の夜が明け、7月9日の朝が来た。

血圧の異常な上昇に悩まされ、寝不足の朝を迎えていた。

だが、5年前と違っていたのは、意識がしっかりしていたってこと。前回は翌朝になっても朦朧としていて、朝食も食べる気がしなかった。今回は違う。点滴をつけている状態なので通常のご飯は出ないが、残さず食べられたのには、自分でも驚きだった。

*手術翌日の晩餐は 食事の量が足りなかった

朝ご飯を食べ終えて、しばらくベッドに横になる。尿道に入っているチューブがモソモソする。T字帯が少しズレている。下半身が何とも気持ち悪い。のんびりと寝ていたいと思わない。起き上がってベッドに腰掛ける。看護師さんがやって来た。

体をふきますよって言った。チューブを取りますねとも。

横にさせられ、看護師の手が布団にもぐってくる。性器をつかまれチューブが瞬時に引き抜かれる。慣れた手つきの神業。抜かれた瞬間に痛みはなかった。プロはやはりプロだ。刺しこむ時も抜く時も、患者が快感を覚えるくらいの早業でなくてはならない。

*手術後 最低4週間は固定具をつけっぱなし

手術した左肩の方には、腕が動かないように外転装具という固定具がつけられている。右腕には点滴用のチューブもついている。当然、ひとりでは着替えもできない。まずはパンツに履き替える必要があるんだが、看護師さんに手伝ってもらうしかない。

ベッドから降りてわきに立つ。来ているものは手術着だから、上から下までつながってる。前をはだけると、T字帯がふんどしのような状態。看護師がためらうことなくT字帯を取ると、下半身がスッポンポンの状態。目はまっすぐと壁だけを見つめる。

まるで、お漏らしをしてパンツを脱がされた少年のよう。でも恥ずかしいなんて言ってられない。足を上げてって言われば、ハイと言って上げるだけ。80歳ぐらいなら達観もしているだろうけど、中途半端な歳だ。胸中は複雑で、変な気持ちだったね。

*スマホ用のキーボード 最近はお休み中

まあ、こんな感じで看護師さんの前に立ち、体を拭いてもらい病衣に着替えた。いよいよ病室に戻る時だ。頭の中ではすでに、どうやってキーボードを打てばいいかを考え始めていた…

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俺の考え 日常生活

少子高齢化を考える。

出生率が低いと言われている日本。ずいぶん前から聞いているような気もする。今は、少子高齢化の時代にあるってことだ。

確かに出生率は低いんだろうね。昭和のベビーブームの時代と比べれば、その数字は明らかだ。2019年の出生数は90万人を切っている。これは、数字的に見れば少ない?

戦後の第一次ベビーブームでは、年間の出生数が平均250万人以上。1970年からの75年までの第二次ベビーブームでは、平均200万人以上。第二次の時と比べても110万人以上、現在は出生数が落ちているわけだ。やはり少ないのか。

*少子高齢化対策には攻殻機動隊の世界がいい?

まあ、考え方はいろいろあると思うんだけどね。

高度経済成長期のモデルをベースにして、すべてを考えるとすれば、現在の状況は間違いなく人口減少へと向かっている。人口が増えていくことを前提に、年金や社会保険のモデルもできているんだから、現状のまま進めば、やがて立ち行かなくなる。

出生率を上げるために、子供を育てる環境を整備しようとか、あるいは助成金を増やそうとか、いろいろと議論されている。

でも、それは過去のモデルを前提にしていると思うんだよ。あくまでも、人口が増えていくことを前提にしているんだ。

だけど人口は、望むように増えないと思う。何よりも、出生率がピークだった頃に比べて、各個人の価値観が変わって来ているんだから。結婚して子供をつくって下さいって言われても、それは現在では、ひとつの考え方に過ぎない思うんだ。

*意思だけ残して 体を交換すれば半永久的な命

人口を増やすことを前提に議論するのではなく、人口が減っていくことを前提に議論した方がいいんじゃないのかな?

出生数が減って高齢者だけが増えていけば、将来の社会福祉にも大きな影響を及ぼすだろうね。子供が増えて働き手が増えて、そして高齢者が社会から支えられる、簡単に言えば今のモデルはこの形。働き手の数が右肩上がりなら、ごく自然にも感じられる。

でも今の時代は、結婚しない人もいるわけだ。事情は各個人によって違うと思うけれど、結婚することよりも他のことに価値観を見出す人もいるわけだよね。働き方だって昔とは違う。そう考えていくと、人口が減っていくのは自然の流れのように思う。

それに日本って、みなが思っているほど豊かじゃないんだよね。
最近のニュースの中で、貧困って言葉を聞かない日ってあるの?毎日聞いている気がするよ。14%前後の子供たちが貧困に直面してるっていうんだよ。統計とか見ると驚いてしまうよね。

*サイボーグなら AIロボットと話もできるかも

結局、この国は、自国の足元が見えていないんじゃないのかな。

自分は学者でも役人でもないし、ただの一選挙人に過ぎないけれど、国のことは真面目に心配している。大きなことはできないけれど、政治というものにしっかりと目を向けているつもりだ。

人口が増えることを前提に考えて、付け焼刃的な政策に頭をひねらせるよりも、人口が減っていくことを前提にして、政策を転換させていく方が、新しい考え方も浮かんでくると思うんだよね。

その過程では、必ず軋轢も生じると思うけど、どんなことでも方向転換していく上では、必ずは現れるものだよ。今までのモデルを前提に考えるってことは、変えるのを面倒くさがっているようにも思える。あるいは、しがらみが変化を許さないのかな。

*サイボーグなら記憶の中から正しい道も?

政治や政策は、今を生かし続けるためにあるんだろうか?

それとも、未来を輝かすためにあるんだろうか?

未婚で子供のいない自分でも、少子高齢化について真剣に考える毎日だ。

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人生経験 俺の考え

小学校6年の時の先生

小学校6年の時、大学卒業したての先生がやってきた。

東京理科大学を卒業していた。頭はちりちりの天然パーマ、背は高くて目はクリクリ、すごく若々しかったのを覚えている。

自分が小学生だからね、すべての先生が歳をとった人間に見えるのは当然だ。特に5年の時の担任の先生がクラスの生徒と折り合いが悪くてね、クラス替えはなかったから、新しい先生に期待が集まっていたわけだ。

*先生にあしたのジョーを教えてもらった

確かにおもしろい先生だった。いやおもしろいっていうよりも、先生の経験した青春を引きつれてきているような感じだった。

あしたのジョー」を教えてくれたのは、その先生。当時は単行本だったんだけど、自分の所有する「あしたのジョー」を持ってきてくれて、クラスの中で自由に読めるようにしてくれた。少年ジャンプの漫画よりも難しかったけど、おもしろいって思えた。

吉田拓郎を知ってるかいって、聞かれたことがある。クラスのみんながだ。1981年頃だと、いくら吉田拓郎が有名でも小学生にはわからない人だった。えっ、知らないの?先生は驚いていた感じだった。その時の先生の気持ち、今の自分ならよくわかる。

*大学生の頃 初めて本格的に吉田拓郎を聴いた

先生は悔しかったらしくて、ギターを自宅からもってきて、吉田拓郎の曲を弾き語りしてくれた。何の曲だったかは覚えていない。合わせて、松山千春の曲も教えてくれた。これはよく覚えている。「季節の中で」だった。好きになって何度も練習した。

そんな感じで、小学校最後の学年が始まったわけだ。

休みの日に先生の自宅近くに集まって、縄跳び大会をしたことがある。それぞれの飛び方でトップになった人は、ファミレスでご馳走にありつけた。自分もその一人。今の教育方法だと、問題視されるのかな?でも、学んだ気もする。1番になれば評価されるし、自分も嬉しいってことを。1番になるのは難しいから。

*小学生でも この曲が好きになれた

そんな先生に注意されたことがある。叱られたって言った方がいいのかな。

机の下に定規を落とした時のこと。を伸ばしても届かないから、足先で引っ張ろうとしたんだ。そこへ先生がやってきて言った。「足でものを取るな!」って。言っている意味がわからなかったけど、とにかく椅子から立って、手で定規を拾った。

先生は叱った理由を言わなかった。だから、自分で考えた。家に帰ってから親に聞いたかもしれない。

今ならわかる気がする。手を使って取れ横着をするなの2つの理由じゃないかな。何でもないことのようだけど、大人になると何気なくやってしまっていることだと思う。

大学出たての先生でも、当時はこんな叱り方もしてくれた。果たして今の時代はどうなんだろう。親が割って入って来るかな、文句を言うために。

あの頃を思い出すと、楽しいことばかりじゃなくて、今になって感謝することがとても多い。

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日経電子版にして、早くも1年が経った。

昨年の正月を境に、新聞を紙面から電子版に切り替えた。

紙面との併用も考えたが、中途半端になるのはいやだったので思い切った。新しい一歩を踏み出せた気がしてワクワクしていた。

*日本経済新聞の電子版はよくできている

大学3年の頃から日本経済新聞を愛読している。就職活動のこともあったから読み始めたんだけど、あれから今日まで、30年近く読み続けていることになるのかな。

一度だけ浮気したことがあった。あまりにも宣伝広告が多いような気がして、一般大衆紙に変えてみたんだ。でも駄目、3ヶ月も我慢できなかったね。日経の記事が体が染みついているんだ。全部理解するのは難しいけれど、役に立つ記事が多いしね。

*内容が日々進化している 面白味が増している

電子版と言っても、基本的なレイアウトは紙面と同じ。右から左に向かって読んでいく。マウスひとつでページをめくり、拡大したければそれもできる。内容は日々進化しているし、面白さも増していると思う。

保存したい記事があれば、範囲を指定して保存できる。一日だけで保存したい記事がいっぱいになることもあるが、クラウドの中にため込んでくれるから全く問題がない。読み返したくなる時もあるわけで、そんな時はクリックだけで引き出せるから嬉しい。

*紙面を読んでいた時は 記事を切り抜いていた

それでも時として、以前切り抜いて保管してある記事を読みたくもなる。紙の手ざわり感には、温かいものさえ感じられたりするんだ。クリアーファイルに入れて、直射日光にさらさないように保管してあるけれど、経年劣化で黄ばんでいるのには味がある。

もっと前は、スクラップブックに貼り付けたりもしていた。いつからか、それはやめてしまっているけれど、ファイルに残されているものについては、いずれ貼り付けておくつもりだ。ブックに貼っておくと、アルバムみたいで思い出深く読めるんだよね。

*スクラップブックには 綺麗に貼っておきたい

引越の多い自分だけど、機械ものは古くても常に一緒に移動して来た。それに対して、書籍や服などはけっこう捨ててしまう。めったに読まない紙系のものって、邪魔に思えたりもしてね。だけど後悔することも多いんだ、取っておけばよかったって。

今となっては、ノスタルジアに過ぎないのかな。電子版に変えるということは、そういうものを捨てるってことでもある。だからこそ、手元に残るブックについては、これからも大切に保管しておきたいんだよね。

この先はずっと電子版を読むだろう。SNSの中ではタイムリーに情報が流れるから、新聞は無駄かなと思ったりもする。

でも、自分が求めているものは経済の記事よりも、人間について語られているコラムの方だったりする。日経のコラムは内容が熟しているから興味深い。切り抜りぬかれてきたものも、ほとんどが人間について語られたものなんだ、実際のところ…。

*この記事は 生涯を通してのの宝物かもしれない

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人生経験 俺の考え 健康 日常生活

感染対策の中で、変わってみたい!

みなさんは、感染対策の中で変われたことがありますか?

自分は昨年の入院生活もはさんで、長い休業をしているから、世の中を冷静に見つめる時間がたくさんあった。テレビラジオから流れる情報、新聞のコラム。現在も感染拡大が収まらないんだから、その情報の流れもとまることを知らない

*市役所で売られていた手作りマスク かなり大き目

ああした方がいい、こうした方がいい、ありがたい情報をたくさん得ることができて感謝している。特に入院していた身だから、感染対策は徹底してやってやるみたいなね。その気持ちは今だって衰えることはない。

でも、ウィルスの感染が再拡大しているのに、人の動きは対策から離れている感じ。1年前と比べると、危機感が薄れているんだろうね。何をやっても駄目だ、感染する時は感染する、自分がかかることはないよみたいな開き直り、そして無力感

*落花生屋さんでも 手作りマスクが売られていた

街頭のインタビューを受ける人達が、マニュアルを読むように答えてる。感染拡大がこわいです、気をつけたいと思います、密を避けたいと思います。昔で言えば、エンドレステープみたいなものだね。マスクの上の目が笑っていたら、真剣さも感じないよ。

大体さ、インタビュー受けているその場所って、密じゃないの?不要不急の外出を避けて下さい、そう言われても難しいよね。人間は最も欲望の多い生き物だもの。楽しく遊びたい、美味しいものを食べたい、あれもしたいこれもしたい、我慢は良くないか。

https://youtu.be/OTqX9qT19js
*ブルーハーツが 夢をストレートに歌う

日常生活あるいは経済活動に、これだけ我慢を強いられれば、その気持ちもわからなくもない。いろいろな意味で、追い込まれている人も多い。自分だって、休業明けはどうしようかって考えたりもするよ。不安がないと言えば嘘にもなる。

生活に追われていれば、仕事をしないわけにはいかない。生活のために働くのは当たり前。どんな状況の下にあっても、経済活動は回さなくちゃならない。お金も循環されなくては、国自体も危うくなる。大いに働いて、個人も国も潤いたい。

でも、今は仕事をすることと遊ぶことを、しっかりと分けて考えた方がいいと思う。

感染が広がる前に、外出での楽しみが100だったとする。外出での楽しみを50に落とし、残り50を家で楽しんでみるとか、仮の話だよ。70と30でもいい。頑張って、0と100の比率だったら優等生だね。それが出来れば、こんなに苦労しないだろうけど。

*このマスクはサイズが合わなかったので保管

とにかく、これを機会に何かを方向転換させる気持ちは、大切だと思うんだ。同じようにやっていても、きっと何も変わらない。感染対策をうながす言葉がみんな、絵に描いた餅になる。真実味をもたなくなるよね。

苦しい時って、やはりチャンスの時なんだ。個人でも会社でも、立場は変わらない。その最たる例が、戦後の日本人の姿だよ。

こんな言い方はよくないけれど、コロナの感染対策の中で、儲かっている会社もあるわけでしょ。それは別に悪いことじゃないよね。その会社が、社会の役に立ってるってことなんだから。方向転換して儲けを出してる会社もある。立派だと思うんだよね。

ライブ会場なんかもそうでしょ。直接行くことをためらう人には、配信って重要だよ。早い時期に配信にも踏みきって、1年間考え抜いて来た会社は、もうそのノウハウがたまってるわけだ。配信される映像のレベルもUP、プロ並みの会場もあるものね。

自分は5年の間に2回、両肩に穴を開けて内側をいじってるわけだ。生まれながらに持っていたもの以外に、体内に別のパーツがあるわけ。同じことをこれからやっても、面倒なことになるとわかってる。だから今、変わるしかない、そう思うんだよね。

変わるということは、頭で考えているほどには易しくない。変化を受け入れるのが、辛いこともある。でも変わっていかないと、良くなるもの良くならないことが多い。執着心をもち過ぎることは、人生の時間を無駄にもする。

今は自分が、最も変わっていける時だと思っている。