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今日も時間は、刻々と流れていく。

介護職員初任者研修を終えて、すでに一週間が経った。研修は短期集中だったから、かなり時間の流れを早く感じた。でも、休みになればなったで、こちらも時間の流れが早い。小学生や中学生の頃を思い出してみるといい。夏休みが始まった日は42日を楽しみにしたが、あっという間に残り1日の日を迎えたものだ。

*実技試験のために 自分で脚本を書いた

だから自分は、研修最終週が始まった時に通信教育の準備をしておいた。研修を修了した時、流れで次の学びに入れるようにしておいたんだ。昔の自分なら、少し休息をするかなって思いもしたが、今は時間を大切にしようと思うようになった。時間の勢いに流されるのではなくて、時間の上に乗ってみたくなった。

時間を無駄にするのは勿体ない。小中学校の頃なんて何も考えなかった。毎日がすべて楽しかったとは思えない。でも、守られる立場にあったから、大体が楽しく収まった。高校の頃も大学の頃も、社会はまだ遠かったから楽しかっただけ。大学を卒業するまでは、時間の早さを感じても、時間の重さを感じなかった。

*出来のいいテキスト 今後も大切にしたい

社会に出てから30歳を迎えるまで、これはあっという間の毎日だった。会社員時代のことで、やることが多くて立ち止まる暇がなかった。仕事がすべてのような時代、仕事の合間に趣味を差し込んでプライベートを楽しんだ。それでも、プライベートの時間に不満もなく、気がついたら30歳を超えてしまっていた。

個人になってからの20年弱はさらに時間が加速。個人ゆえの必死な毎日、30代は時間など見えなかった。見えていたのは仕事を終えた後の、美味しいお酒だけだったのかもしれない。世の中が見え始め、社会人として本当に充実し始めて、でも学ぶことがまだ溢れていて。時間が見える余裕などあるはずもなかった。

*初任者研修が次へとつながっていく

それが40代に入った時、何かが変わり始めた。長く住んでいたアパートの階段でつまずく、腰を痛める、警戒感が増す、勢いがスローダウンし始めた感じに。挙句の果てに初めての手術と長い入院生活に休業。自然と時間を意識し始めていた。時間の勢いだけではなく、時間の重さを意識し始めるようになっていった。

時間の重さ、時間の中に積み重ねられていく自分の充実感の重さだ。どれだけ充実した時間を過ごせたのか、それを中心に意識するようになった。がむしゃらに生きるだけで時間を重ねるのではない。中味の濃い時間を過ごすことによって、どれだけ自分が満足して納得出来ているかを、一番大切にしていくようになった。

*このハッシュドポテト 美味しかった

室内でつまずいてしまう、その事実をしっかりと受け止める必要がある。目をそらして、もっと若かった頃のように勢いに任せて生きるだけでは、ちょっとしたことで大きな怪我にもつながる。時間が足りないと思うから急ぐのだろうけど、勢いだけで充実感を得られるわけではない。時間を操りながら生きる必要がある。

自分の身を時間に委ねるのではなく、時間をしっかりと区切り、一つ一つの中味を充実させていく。具がスカスカの餃子ではなくて、皮を破った瞬間に具が飛び出してくるような餃子、充実感がつまった時間でなくてはならない。それを踏まえた上で、時間の早さを意識しながら50代を過ごして行く必要があるんだ。

*ビルの隙間の空は いつもより青かった

この先も時間が止まることはない。半世紀以上も人生を重ねてくると、この先、同じように半世紀を生きることには無理があるとわかる。生きることが出来ても、ずっと健康であり続けることは難しい。時間と比例して肉体は衰え、物事の覚えも悪くなる。それは努力だけではどうにもならない、誰にも等しい現実なんだ。

だからこそ、時間の中に充実感を見出して行く必要がある。時間の重さを実感する必要がある。時間が肉体を衰えさせることに抗うように、時間のひと粒ひと粒に自分自身をギッシリと詰め込んでみたい。誰かが自分をかじった瞬間に、肉汁がジュ~って噴き出してくるぐらいの、そんな充実感を時間に詰め込んでみたい。

*自宅の乾杯も ノンアルが定着した

1ヶ月短期集中の研修は確かに終わった。修了書を手にした瞬間、久しぶりに大きな充実感を感じた。感じられたからこそ、次の充実感が欲しくなった。新しい仕事の中にも欲しいし、新たな勉強の中にも欲しい。大好きな歌にも欲しいし、未知の中にも欲しい。勢いだけで生きるのではなく、時間の重さを感じたい。

今日も時間は、刻々と流れていく。

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介護研修日記5、初任者研修を終えて。

5月24日から始まった、介護職員初任者研修が終わった。短期コースとは言え、本当に早い1ヶ月だった。早いと思えたのはきっと、それだけ充実していたということだろう。確かに充実していたと思う。教室通いは週に3回だったが、平均1日7時間の予定はあっという間に流れ、よくできた研修内容だったと言える。

*修了証明書 なんていい響きだろう!

何よりも講師の方々に熱意を感じた。熱意を持てる方たちだからこそ、講師に抜擢もされるのだろう。小中学校に高校、どんな教育の場であっても、熱意のない先生や講師からは学びたいという意欲が湧いてこない。導く存在の方たちに熱意があってこその学びの場だ。ゆえに、この研修は充実感が溢れたものだった。

近頃は、遊びでも仕事でも熱くなれない人が多い。自分より若い世代が、熱い人が好きになれないなんて言っているのを耳にすると、君は何のために生きていたいの?と聞きたくもなる。夢や目標の大きい小さいなんてどうでもいいこと。夢を実現するために熱くなれない人間は、人の心温まる応援だって得られないよ。

*アルコールが入るとパワーが増す仲間たち

この研修を集中的に受けるにあたって、講義以外に自宅でもテキスト中心の生活に切り替えた。もちろん、息抜きだって必要だから、適度に趣味だってやったがヒトカラは封印した。封印した分だけ深夜や早朝に、自分を鼓舞するつもりでたくさんの音楽を聴いた。音楽の幅もさらに広くなり、当然やる気は高まった。

教室での眠気に負けないように、開始時間よりも2時間ほど前に近くの駐車場に入り、100分の待機時間を作った。半分以上は自由時間にして過ごし、残りは仮眠の時間にした。どの眼鏡も老眼に合わないため、すぐに目が疲れてしまう。夜は遅く朝は早いから、少なかった睡眠時間に対処するための苦肉の策だった。

*この唐揚げは 本当に美味しかった

高校の頃などは、授業中に眠たくなるとシャープペンの芯先で手の平を突き、眠気を払おうとした。それでも眠たくなったけれども、この老眼による目の疲れは、その程度のことでは眠気も飛んでいかない。渋滞に巻き込まれないように、早い時間に自宅を出て待機時間を長くしたわけだ。それでも眠気はやって来た。

だけど、高校の頃などと違うのは、興味をもって学んでいるということ。興味をもって学んでいるからこそ、講師の熱意がその眠気を打ち負かしてくれる。特に上手いタイミングで生徒に質問を投げる講師だと、次は自分の番かもしれないと身構えさせるから眠気どころではない。今回はそういう講師が多かったようだ。

*実技試験もペアを組んだ逞しい仲間

とにかく、学びの場に必要なのは、講師と生徒の学ぶことへの溢れんばかりの熱意だ。講師に熱意があれば生徒たちにもそれが伝わり、始まった時よりも熱意を大きくさせて学びを楽しむようになる。14回目は1日を通して実技試験だったが、試験の合間に相手と練習を繰り返したら、翌日は筋肉痛を起こしたぐらいだ。

実技試験で合格者が出るたびに、お互いに拍手をして喜びあう。筆記試験の前には、みな一心不乱に課題の用紙に目を通す。嗚呼これが学びの場なんだ、こんな気持ちになれるのも励まし合える仲間がいるお蔭なんだ。そう思うとさらに熱意が湧いてくる。合格すればいいのではなく、一番で合格したいと思ったりもする。

*酒の席だからこそ 焼き鳥も美味しい

筆記試験の時、自分の問題用紙のめくり方が早かったらしく、いつもの仲間たちが横でも前でも焦ったとか言っていた。そんな風に思われて逆に光栄だったね。他人に緊張感を与えられるなんてこと、高校の頃には考えられなかった。一番ではなかったけれども、良い点で合格できたと思う。切磋琢磨って素晴らしいね。

修了式を終えた後、まだ陽が高い内に仲間と飲食した。この仲間たちが、本当に良き戦友と呼べる方たちだった。このご時世だから、半年以上も飲み会からは離れていたが、マスクも自然と順番に外すような感じで飲食をし、お互いの頑張りを労った。互いを褒め合った。頑張ったからこそ感じられる美味しい会だった。

*1日明けて見た 地元佐倉の素敵な空

研修中に障がい者施設での仕事も決めた。7月の初めからだが、すでにその先にある未来も考えている。今回の初任者研修を通して、資格を取ることの大切さを実感した。同時に、学ぶことは人生を楽しむことだと実感した。熱意あるところには仲間が集い、熱意あるがゆえに、深く眠りについた夢さえも起こしていける。

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介護研修日記4、熱意と好奇心の大切さ。

研修も11回を終えた。時間の早さには驚くばかり。そして、教室にこもる熱意にも驚くばかりだ。初日からのメンバーを中心に考えれば15人くらいだが、他の教室からの振替で受講に来る人達も毎日1人2人といて、遠いところからでもやってくる。皆、ここで何かを吸収しようと、熱意をむき出しにして学んでいる。

熱心になるのは講義がおもしろいからか、それとも必要に迫られているからか。その理由は個々人で違うだろうけど、目の前の講義をクリアしていけば何かの役に立つことは間違いない。かく言う自分も、学校時代に開いた理科の教科書よりも、人体図などは今見ている方が楽しい。健康管理も大切な歳になったためかな。

*ランチはパンで簡単に済ます

生徒達が熱心になるだけあって、先生方も熱意があふれている。すでに10人の先生の講義を受けたが、どの先生方も仕事に情熱と誇りをもっているのがよくわかる。自分より若くて、既にいくつも施設を経営しているという先生もいる。実技指導を受けて思うのは、話し方も手先も滑らかで温かみを感じるということ。

その先生、昨日はシビアな一面も見せた。9時20分開始で1分遅れた生徒がいた。本当に1分だった。電車が遅れたらしい。いつも1番に廊下で待っているから嘘とも思えない。でも入室を許可されなかった。初日からの約束事で、遅刻は厳禁をしっかりと守った。どんな状況が起ころうとも対処できるのが社会人か。

そう言えば、大学3年の最終試験の日、東京で大雪が降った。前日からわかっていたから、電車のルートを変えて普段2時間のところを3時間半かけて時間を守った。大学はまだ甘い世界でもあるから、時間をずらして試験を行ったが、そういう気持ちは社会に出てからも生きている。講義も社会人には時間厳守が大切だ。

*パンダが好きなだけで買ったおっとっと

中国籍の生徒さんが帰り際、スマホで黒板の文字を写そうとしていた。別の70歳近い先生がそれを叱っていた。あくまでも、自筆で写していけと。今の学生はスマホ撮りが当然みたいだが、あれはあまり褒められたことではない。何しに大学に行ってるのかと問いたくなる。それこそ大学は通信教育で十分になるのでは?

介護の仕事に就く就かないは本人の自由。

だが、介護は人間を相手にする。それも元気な人を相手にするわけではない。病気や障がいをもち、長い自分史をもつ人間を相手にするわけだ。自分のちょっとした気の緩みが、その方々の尊厳を傷つけることもある。その尊厳を傷つけずに自立を促す支援をするには、熱意と好奇心をもって基本をしっかりと学ぶことだ。

実技でもグループ討論でも、初日から組んでる方々が3人いる。隣に座るのが体格もたくましい30代の女性、母親も旦那さんも介護が仕事とか。自分と同世代の水商売をしていたという女性、いつも監督官のような感じだ。140㎝を切る小柄な体で介護職に就いてる女性、Wワークでヤマト運輸の仕分け作業もこなす。

*近頃の冷凍お好み焼きは美味い

実技が始まった時、練習とは言え女性の体にふれていいのか考えもしたが、今は慣れたもの。相手もあくまでも練習台としてぶつかってくるから、自分も練習用の人形のつもりでぶつかっていくだけ。昨日の自由練習の時間も、相撲稽古をしているような感じで練習を繰り返した。誰もが汗を流しながら練習に励んでいる。

あらためて思うのは、熱意や好奇心を持った時こそ人は多くを学べるということ。熱意や好奇心こそが、学びたいと言う気持ちを無限に増大させるようだ。介護職初任者研修の次は実務者研修へとステップが用意されている。自分はまだ受けないが、昨日の帰り際に先生を囲んで、そのことを皆で語った時は盛り上がった。

実のところ、自分は次の仕事をすでに確保してある。この研修を受講していることも役に立った。詳細は後日にするが、この研修を終えてからは、通信教育で取りたい資格が2つ出来た。最低でも1つは年内に修める。この短期の研修が、勉強したいという意欲をさらに引き出した。健康であり続けるためにも必要なこと。

*隣の奥さんのラムネに 笑顔がひとつ

日経で、前法政大学総長の田中優子氏が素敵な話をしていた。氏は江戸文学に夢中になっていたが、それは勉強ではなく遊びに夢中になっているのと同じ気持ちだったと言う。子供の頃から「競争心」というものが皆目わからないでいる、もったことがないというんだ。今でもずっとそのままだとか。

学生を見ていても競争心よりも好奇心の方が期待できる。わくわくと向き合うものを見つけた時にこそ、力を発揮する。「負けないように頑張る」とはなんとつまらない言葉だろう。人をごく狭い視野に閉じ込める呪文であろう。競争の彼方にこそ、新しい道が開けていると言う。否定すべき部分が、何ひとつない言葉だ。

きっかけは何でもいい。今こうしたい、今やってみたい、そう思った時こそがチャンスの時だ。そういう時の人間ほど、楽しそうに見える時はない。やりたい気持ちに熱意や情熱や好奇心が重なった時、楽しいという気持ちしか持てなくなる。何も苦に感じられない、ただ楽しい。先の見えない道ほど、楽しくなるんだよ。

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介護研修日記3、認知症から考えること。

介護職初任者研修の受講を始めて、昨日で8回目の折り返しを迎えた。連日、教室の中では教師が熱弁をふるい。自分たち生徒はうなずいたりペンを動かしたりを繰り返しながら、遅れまいと集中力を高めて聴く。講義だけの時は、昼が過ぎれば眠気も襲ってきたりしたが、実技が続く今は眠気よりも汗が気になる毎日。

講義の3回目ぐらいの時、認知症のことを学んだ。昨日のニュースによると、アルツハイマー型認知症に対する薬がまた一段と進歩を遂げたようだ。自分の祖父が認知症だったことは、何度か話をした。昨日のニュースの中で、若年性認知症の母親を長く介護している方の映像が流れていた。切実な問題だと思う。

*ちょうど1年前 本佐倉城の野良猫と戯れた

自分の両親について考えてみようか。特に今になって考え始めたことでもない。10年くらい前から、積み重ねるようにして考えてきたことだ。今年、父は82歳を迎え、母は78歳を迎える。二人とも頭を働かせてよく考えるし、それぞれのペースでよく歩いているから、今のところは元気と言える。

母は父の見なくてもいいような、あるいは思い出さなくていいような負の部分だけが気になって愚痴をこぼす。それを電話で自分が聞くことになる。さすがに疲れもする。愚痴をこぼせば母は楽になるかもしれないが、一番肝心なことを忘れているんだ。愚痴をこぼせる相手がいることが、ありがたいってことをね。

医学的な視点からどうのこうのって話じゃない。自分自身が感じていることだ。要は、愚痴を言うってことは、何か対象になることに対して考えているわけで、母にとっては頭を働かせることができているからいい。粗さがしをやっていれば、次から次へと考え続けるわけで、内容が新しければなおのこといいわけ。

*1年前に出会った 引っ越し先付近の野良猫

父の側からすれば、また今日も始まったのかという嫌な気持ちになりもするだろう。だが、父自身のやり方で上手く流しながら受けて立っていれば、こちらも家庭内の儀式みたいなもので頭は衰えない。2人が互いの存在を認識できている限り、頭の中は活性化されていて、認知症には遠いと思っている。自分の考えだ。

20代の会社員時代、30歳で父親を亡くした先輩がお葬式の後に話していた。親が生きている内に、親からたくさん借金しておけ。親は借金を返してもらえてない限り、こいつにはまだ借金を返してもらってない、ここで死んでなるものか。こう考えて長生きしようと思うんだと。早稲田大学出身の優秀な先輩だった。

ぶっちゃけた話、お金の勘定をしている人は長生きする、間違った考え方ではないと思う。何と言っても生活はお金があってこそ成り立つ、社会で生きていく上では常識。現物でもネット上でも何でもいい。1円でもずれてはいけないのが金勘定であり商売なんだ、細かい計算に憑りつかれていれば脳は働き続ける。

*現場で仕事前に出会った 可愛い野良猫

話を戻して、両親を例にした話の続き。結局のところ一番の問題は、どちらかに何かあった時、状況が一変するということ。

縁起でもないという人もいるかもしれないが、縁起でもないことが日常的に起きるのが当たり前なんだから、真剣に考えておく必要がある。自分自身だって、両親と一緒に歳を重ねている。もう少し歳をとった時には、もっと状況は難しくなる。少しずつでも考えた方がいい。誰にでも考える時がくるなら早い方がいい。

戦後の日本は核家族化が進み、現在では高齢者の単身世帯も増えている。子は親と離れて暮らすことも多いから、介護という職業が益々大きな役割をもつようになる。今、自分の両親の一方が認知症と診断された、あるいは大きな病をもったとする。離れたところで暮らす両親だけで、老々介護をするのは不可能だ。

老々介護が可能なほどには体力も残っていない。父は10年以上前に心臓弁膜症の手術をしており、人工弁の寿命の残りも減ってきている。介護をする体力などあるわけがない。母は長く足腰を鍛えてはいるが、介護できる程には体力がない。妹夫婦は離れたところで暮らし、これから高校生・中学生になる子供がいる。

*現場側から見た 室内で寝ていた飼い猫

当然のこと、独身の自分が一番動けると考える。でも、わずかな年金も、今後は70歳過ぎまでもらえないと考えれば、今仕事をリタイヤして介護に専念なんてできるはずがない。現実的に無理な話。親のためにという気持ちは大切だが、綺麗ごとだけで生活が成り立つはずはない。そうなると、介護という仕事が重要。

特に認知症と診断された時、薬が出来てきても、その効力はまだまだ未知の世界だ。今現在の状況はまだ続く、そう思っておいた方がいい。それなら、自分に近いところに高齢の2人を引越させようと考えたりもするが、いくら引越なれした人達であっても、場所が移動するだけで根本的な解決にはならず疲弊するだけ。

それじゃ施設に入る?2人で入る?それとも認知症が重くなった一方の親だけ?親にも今までの慣れた暮らしがあるから、やはり訪問介護や通所介護を受ける?でも24時間の介護を受けられるわけではないから、親はどちらが介護側でも心身ともに疲弊し、ストレスもたまる。無意識の中で家庭内虐待だってありえる。

*前のアパートの大家さんの飼い猫 柱が似合う

それなら自分が一緒に住む?母はそれが嫌だと言う。長く離れて暮らして来た親子だ、それこそ互いにフラストレーションが爆発するかもしれない。近くに自分が移り住む?少し現実的かな?でも、仕事はアルバイトをするわけには行かないし、自分にだって環境的基盤が必要だ。考えれば考えるほど難しくなってくる。

認知症ひとつでこれだから、他に病気が重なっていくといよいよ難しくなる。両親は自分たちが亡くなった後のことは、遺言にして残してある。でも一番大変なのは、2人がさらに歳を重ねながら病気も重ね、通院や入院が必要になる時だ。親といえどもつきっきりで介護するのは難しい。これが歳を重ねるという現実だ。

先日、少し強い口調で母親に話した。親の時代と違って現役世代やこれから社会に出る人は、長く働くことになる。子供や新しい世代に対して、素直にハイと言える気持ちも大切だろう。自分たちは働いて来たと言うけど、今は働いた分だけ金になる時代でもない。時間の早さも生活の内容も違うことを理解すべきだ、と。

*黒猫ゆえか 赤い鳥居が似合っていた

介護の研修を受けるだけで、認知症について考えることが多くなった。だが、知らないよりは知っておいた方がいい。2025年には65歳以上の5人に1人が認知症になるとか。誰にでも起こりうる。食べたものを忘れるのはもの忘れ、食べたこと自体を忘れるのは認知症の始まり。本人はそれさえも気づかないのかな?

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介護研修日記2、介護は自立を導くもの。

介護職初任者研修の受講を5回終えた。昨日から実技も始まり、15名の生徒と2名の先生だけしかいない空間には熱気があふれて、みな汗を流しながら勉強していた。今日は休みで本格的な実技は明日からだが、自分はMRI検査があるため、明後日に1日だけ振替受講を受けに柏まで出かける。時には他の場所でもいい。

*マスクの上にフェイスシールドをして受講

この10日間をどう過ごしたかって?テキストをめくっては読んでチェック、その繰り返しだけだね。今になって受験勉強を始めたような気持ちでいる。何度も話しているけど、あの時こう素直に勉強できていれば人生は変わったのかも。ただ、今こうして介護に目を向けている姿は、存在していなかったかもしれない。

何を今さらなんて思うかもしれないけど、やはり勉強というのはね、興味を持った時に一気に進めるのがいいと思う。興味がもてないことは、いくら頑張っても知識を詰め込んでる気だけで、馬耳東風的な状態になっている気がする。興味がもてると意欲さえあれば、派生的に勉強しようって気になるんだよね。

*久しぶりに 骨格の図を見ている

テキストは2冊あって、実技に関わるテキストは1冊。この2冊をクリアすれば、現場での実務は別として、知識としての実務は当然のことながら、将来的に介護福祉士になりたい人の知識としても結構なものらしい。確かに合わせて800頁の量は、毎日読みまくっても計画的に進めていけないぐらいの内容だ。

だが、現場での実務は、テキストに掲載されている写真だけでは細かく理解できないだろうな。実務の細かさは、どんな仕事でも実際に現場で働く以上には理解できないと思う。それでも、可能な限り理解してみたくなって、写真中心の図解本を読みたいという派生的な意欲にまかせ、既に本の注文をかけてしまった。

*腎臓って 本当に大切だと思った

過去の仕事でもそうだったけど、自分は形から入っていくことも多い。先に形を作り上げながら、自分自身をその気にさせていくわけだ。やり方は人それぞれだけど、自分としては効果がある。特に自分にとって未知が多い内容については、好奇心が自分を引っ張っていくから、まだまだ図解的な本も欲しくなりそうだ。

この10日間は本当に充実していた。自分は人見知りなんて遠い世界の人間で、興味があれば、トイレで用を足しながらでも話しかける。相手はビックリするかもしれないけど、この性格のお蔭で知識はどんどん増える。わからないことに遠慮していては、お金を払って作られた状況も無駄になる。聞いたもの勝ちだろう。

*講習仲間とも話す ワークマンの良さ

5回の授業を受けて、5人の講師と面識ができた。実技の時は2人の講師がいらして、昨日は1日目の講師もいらした。帰り際に肩の調子はどう?と聞いてくださり、介護の話からドローンのことまで話が及んで20分以上。ぜひ一緒に介護の仕事をやっていきましょうとおっしゃる。こう言われると自分は弱いんだな。

とにかく、介護というものが大変に奥深いものであり、人間を相手にするからこそ学びにも終わりがない、それがよくわかった。講師の方もおっしゃっていたが、好きになれば腰痛とつきあうことになっても続けたくなる、そんな仕事に思える。そもそも人間がもつ可能性は無限だから、人間が相手なら奥深いのは当然だ。

*PCの配線が 血管のように見えてきた

単純に介護を考えると、利用者が動けないから介護すると考えてしまうのが普通。でもそうじゃない。利用者にも何かをしたいという意思があり、残存能力だって残っている。その意思を最大限に尊重し、残存能力も十分に活用しながら利用者自身の自立を導き出していくのが大切。介護者は、あくまでも補助だけなんだ。

昨年亡くなった自分の祖母、90歳までは40年以上住みなれた家で一人暮らしをしていた。もちろんヘルパーさんもいたが、強い人で夜は独りだった。だが、先に亡くなった伯父が心配して、施設に入所した。その時点で、車いす利用が始まったらしい。それが足腰を弱らせる始まりだった。自立歩行が大切だったんだ。

*病院での食事 配膳にも意味がある

教室で学び自宅でテキストを読みまくり、一番大切だと感じたことは、人間はこの世を去るまで尊厳をもって生き続けるということ。利用者の尊厳を守り、その利用者が自ら自己決定をして自立していけるように支援していく、介護はそのためのもの。利用者をしばらず、風に乗ってもらうような心構えが大切なのかな。

ほんの少し知識をかじっただけだからね、偉そうなことは言えない。それでも、リハビリしてくれる若い彼等の気持ちを、少しだが理解できたような気がする。学べば学ぶほどに、もっと知りたいという気持ちも湧いてくる。人間である自分が、半世紀以上も生きて来たのに人間を知らない。命の無限を、願いたくもなる。