何度も同じことを話すけれど、熱意ほど大切なものはない。誰かに対して語っているようだけど、実際のところ、自分に対する叱咤激励のつもりで話している。人は、後になってふり返ってみれば、ちょっとしたことでつまずくことも多い。超えてしまえば何でもないことなのに、超える前に考えてしまうことが多い。
夢に大きい小さいは関係ない。その夢を実現するためにしっかりと前を見据えて進んでいれば、どんな壁もぶち壊して行ける、そう思わせてくれるのが夢のはずなんだ。だけど、やはり恐怖心というものは必ず生まれてくる。行けると思っていても、壁が予期せぬほどに大きければ、尻込みだってするのが人間だ。
でもね、恐怖心がないことが正しいとは思わない。恐怖心があるからこそ、恐怖心を打ち砕くために人間はまた考え行動して一歩ずつ大きくなって行ける、成長して行けるんだ。恐怖心こそが自分を励ましてくれる、一番の友達になる時だってある。恐怖心を認めて受け入れることが、人間を成長させる近道だとも思う。
恐怖心と言っていいものか、まあとりあえず恐怖心としておこうか。7月1日から始まった障がい者施設での仕事、毎日が戦いと言えば戦いだ。戦いと言うと語弊もあるかもしれないが、毎日毎日、本人が自分の大便を手にしてこちらに向かってくれば、これを戦いと言ってもいいだろう。決して綺麗事で語れはしない。
大便を手にするなんて、一般常識の中では考えられない。大便はあくまでもトイレで流す汚物だ。大便は汚物ゆえに、体内から吐き出されるべきものであり、それを手の平で握りしめるなんて常人には考えられない。だが、ある種の人たちにとっては、これが汚物ではなく、ただのモノとして認識されるようだ。
モノとして認識されるから汚物ではなく、臭いさえもクサいものとして感じられないようだ。それを手にして遊び、手にして相手を威嚇して自分の進路を開けさせようともする。それを突きつけられれば、ひるんで一歩後ろに引くのが常人のあり方だろう。後ろに引けば、相手は一歩ずつ前に進んで来る。
相手は長年の経験で、こちら側に恐怖心があることを理解している。理解した上で、進路を開くために向かってくる。こちらだって自分の身を守らなくてはならないが、防御もやり過ぎれば虐待になってしまう。だから、ギリギリのところで防御しながら、相手を押し戻すように体を動かす。一進一退の攻防だ。
攻防なんて言うと本当に戦闘をしているみたいだけど、実際にその現場を見ることがあれば、戦闘をしていると思うだろう。自分の大便なら毎日トイレで見ているのに、見知らぬ他人が大便を手にして進んでくれば恐怖心さえ生まれる、初めて経験する不思議な感覚が生まれる毎日だ。この恐怖心を克服することが重要だ。
こんなことが恐怖心と言っていいものか、自分でも可笑しいなとは思うよ。自分が赤ん坊の頃、いくら我が子とは言っても母親の毎日は大便の処理に追われていたわけだ。特にその頃はおむつで洗っては繰り返し使っていたんだから、手は大便まみれだったろうしね。ただ、大便も迫って来れば恐怖心にもなるんだよ。
ただね、物事には慣れってものがある。人間の臭覚も一番慣れやすい。そういう行動を起こすって分かっていれば、初めから防御のための装備をする。マスクをしていても臭いは突き刺さって来るが、仕事への熱意があれば活路を見出すために考えぬく。お蔭で脳みそは毎日フル回転の状態、次から次へと知恵が生まれる。
結局のところ、熱意なんだよね、必要なものは。熱意があれば活路が見えてくるんだ。同時に同じように熱意をもてる仲間が必要なんだ。この相手は、力も相当強い。限界まで力を出してねじ伏せていいと言うなら一人でも可能だが、虐待防止を念頭においているのだから一人では無理だ。防御も分担作業が必要になる。
自分を採用した取締役は身をもって熱意を示す。その熱意に動かされて、若い女の子さえも踏みとどまって頑張っている。さらに熱意に同調して、巨大な力をもった人物も参加してきた。今いる人間のベクトルが少しずつ同じ方向に向き始めた。熱意こそが原動力だ。この継続的な熱意が、さらに大きな熱意を生むだろう。