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人生経験 介護の仕事 俺の考え

今考えている僕の未来

介護関係の仕事についてから、合計で1年半になった。昨年末から、今後の目標をよく考慮しながら働き先を探していたら、予定以上に長い1ヶ月半近くの休業をすることになった。覚悟を決めてのことでもあったが、連続での就業が切断されたので、今はこれまで以上に毎日、介護の仕事と真剣に向き合っている状況だ。

※僕を感動させる偉大な作品のひとつ

夜勤専従でパート契約している身ではあるが、正社員でも契約社員でもパートでも、仕事の内容に差は無い。やっていることは全く同じ、違うのは賞与等の待遇面、パートだからそこまでは等と言ってはいられない。まあ仕事と名がつき労働対価が発生するものに、手抜きなど許されるはずもない。真剣な毎日で当然だ。

よくよく考えてみれば、介護のような慢性的人手不足の仕事においてだよ、契約上に正規非正規の差があること自体ズレているんだ。賃金の契約上で、資格保持者と多少の差があるのは仕方ないけれど、センスがない人もいるんだ。言葉を選んで利用者と話が出来ない常識外れより、別の面で優遇されてもいいと思うよ。

※おにぎりは色々な味を試して作る

兎にも角にも、仕事をする日の前後に時間を費やし、僕なりに学びを進めている。夜勤専従だから、出勤前には時間的に余裕がある。1月から介護福祉士実務者研修を始めているから、通信学習のために毎日テキストを開く。テキストだけでは物足りない、介護専門の書物もめくる。読みたい箇所は多く、時間は足りない。

まあ仕事に絡んだことだけが学びではないし、介護に携わるためには外側から幅広く学ぶ必要もある。人間を磨くことが一番大切かも知れない。そのためにも本を読み映画の鑑賞もする。益々時間が足りないことを自覚する。だから計画性が必要だ。DAY BY DAYのような僕が計画のある日常を過ごしている。全く驚きだ。

※いつもと変わらぬ風景に心休まる

こんな僕ではあるが、ひとつ所に留まって仕事を続けられるタイプではない。ましてや一匹狼が信条、独りで出来ることがあるならば、可能な限り独りで出来るやり方を追求したい。施設という箱の中での仕事は安定している。しかし僕は、安定という言葉にあまり魅力を感じない。波に揺られた状況の方が楽しみがある。

確かに苦労は多い。30歳で個人事業主になった時は全くもって計画性がなく、借金返済のために運輸業・建設業に身を置き働いた。汗を流す=お金であって、躍動する筋肉に酔いしれていた。たまらなかったね。食べるだけ食べ飲めるだけ飲んで、それでも体重は反比例して減った。達成感に溢れる充実した毎日だった。

※施設の夕食のひじきを頂いた

僕のような好奇心の塊的な人間は、独りでも己に課題を課せる。運輸業を単純な仕事と見る人もいるが、とんでもないこと。運輸業は走るプロであり、同時に荷物を扱うプロだ。運転には常に事故がつきまとうから安全運転をする上でも技術が必要だし、荷物には様々な形があり、それぞれに合った運びの技術が必要だ。

その形の上からゲテモノと言われる荷物も多いが、荷主様にとっては大切なお品だ。数や金額に関係なく、最善の方法手段で確実に送り届けなければならない。時間があれば運ぶ方法を考え技術を学んだし、車輛の箱の内外に適正な改造を加え、独りで出来る最高のサービスを追求したものだ。己を売るための鍛錬だった。

※京成電車が走る風景は落ち着く

こういう話をすれば、お分かりだと思う。組織や箱の中に収まって仕事をしていると、どこかしらで横並びを求められたり、本当に行いたいサービスが出来なくなったりする。サービスなんてものに上限は存在しない。独りの仕事では、僕の仕事スタイルそのものがサービスであり、常に高い付加価値を加える必要がある。

結果的に採算度外視にもなり、儲かった例はない。お金が多く入ったこともあったが、それは次のサービスの為に道具を揃えたり学びの為に使ったり、結局プラマイゼロが常だった。その反面、お客様からの指名は確実にあった。僕はそこに充実すべきポイントを置いて来た。何よりも、技術のアップに快感を感じていた。

※知人と楽しんだ牛角の焼肉食べ放題

今の僕もその頃と同じ。だから施設の中で、中味の濃い仕事だけが坦々と行われているのならまだしも、常に存在する職員同士の感情のぶつかり合いを見るにつけ、下らないと思うと同時にレベルの低さを感じてしまう。そんな無駄口を叩くよりも、自己犠牲を払ってでも、利用者様への厚いサービスを提供したらどうか。

本来忙しい人間は、無駄口など叩いている暇なんかないはずなんだ。仕事だけに没頭して、気づいた時には時間が流れている。おかしいと思うことは、仕事をしながら変えて行くんだよ。人を責めるより、まずは己で考え実践し、自然な形で人を巻き込んで行くんだよ。それが正しいことならば、誰も文句を言わないはず。

※この不敵な笑いは自信を裏付ける

すっかり前置きが長くなったが、ここで今考えている僕の未来を語ってみる。施設での仕事は2025年1月をリミットと考えている。その時点で、介護福祉士の試験を受ける為の実務面での条件はクリアしている。それまでに、シャア専用ザク並みに人の3倍ぐらいのスピードで介護面での学びを進める。これは楽しみだ。

試験勉強の為の期間は十分にある。計画的に進めるのは当然、この間に、第一級アマチュア無線技士の資格取得にも動く。これも欲しい。今年が勝負だろう。そして施設での仕事の先に見ているのは、同行援護の仕事だ。派遣元への登録は必要だが、視覚障がい者の方の外出時の援護を行いたい。独りの力が試されるはず。

※キャベツ焼きもだいぶ上手くなった

この援護の為には当然、研修を受けなければならない。一般課程と応用課程でまた費用が掛かるが、福祉に関係する仕事の僕の目標はここに置いているから、早い時期に研修を終えて準備をしておきたいと考えている。他にも資格を上乗せしていく予定だが、あくまでも独りの形で仕事をする為に、己の研鑽を重ねていく。

去年、普通二種免許や秘書検定2級を取得したことも、この目的の為の流れの上にある。そしてバイトでもボランティアでもいいから、話し相手になる仕事もしたい。昨年働いた施設に、同じ歳で半身不随の方がいた。同じ歳だと話が出来る。僕は話が好きだし話題も濃く豊富だ。思い出話でも人に役立つことは多々ある。

※松本零士先生、ありがとう!

少々粗削りな話になったが、これが今考えている僕の近未来だ。そして2025年の6月には、予定されている大阪万博に行き、空飛ぶ車を見てみたい。それが、これから2年間の僕自身への褒美になるだろう。そこで未来を感じて、次の未来への目標を固める節目にする。僕のドキドキは、この先も止まることを知らない。

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「待てない」ということ

買い物をしていると、必ずと言っていいほど、イライラしている人がいる。特にレジ待ちの列の中で。なぜイライラするかって?なかなか、自分達のレジの順番が来ないからだ。前の順番に、たくさん買い物をする人がいたとしたら余計にイライラしている。他人の買い物かごをチラ見しては、イライラを助長させている。

※毎日見慣れた風景も味があるもの

そこに更に拍車をかけるのは、レジ打ちの店員さんが新人研修生の時。独りで打ってはいても、レジ打ちの速さに問題なしとは言えない。研修中は特に注意力を研ぎ澄ましているから、本人が思っている以上に、レジ打ちのペースは遅くなっているのかも知れない。だが、研修中から間違うよりはいい。遅いのが当たり前。

慣れてくれば、普通にペースも速くなっていくはず。個人によって差はあるとは思うが、その人に仕事への意欲があれば自然とペースも速くなっていくものだ。何をやるにしても、初めから速かったり上手に出来るのであれば、誰も苦労はしない。覚えていく過程自体が学びであり、教える側にとっても再確認の場になる

※半額で買っても美味しさは同じ

問題は、そういう人を前にして、待てない人達がいるということだ。まあ、人それぞれに性格は違うのだから、待てない人がいても当然かも知れない。ただ、いい大人達が、待てない気持ちを顔にありありと浮かべている姿は、目にした者にとって気分が悪いものだ。あなた方に、研修していた時代はなかったのだろうか?

それにね、そういう顔をしていると、レジを打っている研修生は緊張を高めてしまい、焦りも生じて混乱を来たすことだってあり得る。それなりに人生経験を積んだ人間なら、例えお客の立場であっても、相手を応援するぐらいの気持ちで、ドンと構えて見守っている方が、ずっとカッコよく見えるのではないだろうか?

※マンガがついていると勉強も捗る

まあ、こんな風に偉そうに話している僕ではあるけれど、もっと若い頃は、僕自身もイライラする側にいたのかも知れない。もっと融通を利かせて速くやれよ、なんて心の中で叫んだりしながらね。でも、こういう時の僕は案外控えめな性格になったりする。相手の気持ちを考えてしまう、僕自身を同じ立場に置き換えて。

どちらにせよ、まだ世の中が分かっていない子供ならまだしも、いい大人が腰に手を当てたりして、まだかよ!みたいな態度でイライラしている姿はみっともないものだよ。子供をもつ親であるような人なら、子供の動きの遅さに毎日イライラしながら過ごしているのかな。世に言うタイパが、すべてに及んでいるのかな。

※この映画は心がホンワカする

でも、この待てないという態度は、介護の世界では致命傷になり兼ねないね。なぜかって?当然だろう、待ってもらわなければ、先に進めない人達の世界で仕事をしているんだもの。速くしろ速くしろなんて心で思っていたら、己が気づかぬ内に介助の中にそれが表れて、気づいた時には相手が呼吸困難になっているかも。

だから正直に言えば、初め僕には介護が向かないと考えていた。運輸業や建設業という時間が勝負の世界で若い頃を過ごした僕が、食事介助を必要とする利用者さんを前に、皆さんのペースに合わせて口元にゆっくりとスプーンを運べるのか、僕は自分自身に自信を持てなかった。窒息させてしまうかもなんて考えたり。

※巨大おにぎりの具はハンバーグ

初任者研修の講習時、いろいろな講師に問いを繰り返していた。僕みたいな性格をしている人間が、食事介助など出来るんでしょうか?相手のペースの遅さに、すぐにイライラしてしまうんじゃないでしょうか?講師の方々は、頷きながらも話された。仕事として割り切れるのであれば、決して性格だけではないですよと。

実際に仕事を始めた頃は、右も左も分からないから戸惑いの中で焦りも生まれ、僕自身のペースの中に落ち込んでしまうこともあった。だが、3つ目の施設で仕事を始めた今、僕は自分をコントロール出来ている。個々の高齢者のペースに合わせて、自分のペースをアップダウンさせている。あくまでも利用者様が主体だ。

※こういうモクモク感の雲がいい

だから余計に、日常風景の中で待てないという現実を見るにつけ、それを僕自身を客観的に見る機会と捉え、反面教師的な学びの場とさせてもらっている。待てない気持ちを顔にありありと浮かべている姿が、いかに醜いものなのか。人間は神様ではないから完璧などはあり得ないが、感情のコントロールは大切な事だ。

それ故に思うんだよね。介護の世界において資格は大切だし性格も大切だけれど、まずは人間としての器を磨くことが大切ではないかと。利用者の方達だって、本当に思い切り体を動かしたいんだよ。それが様々な理由で出来ない。そこに来て介助まで本人が望むペース以外のものなら、生きる楽しみは下がる一方だろう。

※ローソンの巨大コロッケは美味

こんなことを話してみようと思ったのは、このレジ打ちのような話が日常茶飯事だからで、近頃ますます増えているような気がするからなんだ。時間を切り詰めることばかりが求められて、人を育てることに時間を費やそうとしない。それを取り巻く外側の人間も、少しぐらい我慢をして見守ろうという余裕が消えている。

人を育てるには時間がかかり、費用もかかる。だから費用を抑える為に最短の時間で人を育てようとする。でも、そこには必ず無理が生じてくるものだよ。基本が完成しないところに、応用もまともに成長はしない。長い目で見れば時間的な余裕は大切。その余裕をもつためにも、人間としての器を育てる必要があるんだ。

※京成電車に似合う臼井の風景

人ひとりの成長さえ余裕をもって見守れない社会に、明るい未来など考えられない。人の成長は、社会に出てからの方が本番になる。誰もが待ってもらいながら、自分を成長させてきたはずだ。少しでも自分が成長出来た時、次に成長していく人達が現れる。そんな時こそ原点に戻り、気長に待てる僕でありたいと思う。

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認知症の世界を学ぶ

初めて認知症の方と向き合った時、それは驚いたものだった。これが認知症というものか、と。徘徊だけならまだいい方だ。今食べたはずの食事を食べたことを忘れる。今行ったはずのトイレに行ったことを忘れる。挙句には、排泄とういう行為があること自体を忘れ失禁を繰り返す。それはそれは、別世界のようだった。

※ 仕事の日は大きなおにぎりを持参

だから、ある程度は達観した生き方を覚えているはずの僕自身でさえも、その対処の仕方には戸惑った。ましてや他人だ、その方達の人生については人づてに聞くか、あるいは記録されていることでしか知りようがない。その方が重ねてきた人生が分からなければ、話の聴き方も分からない。まずは、観察あるのみだった。

観察だなんて言い方をすると、まるで動物園で檻の中を覗いて観察をしているようで、あまりいい感じはしない。だけど、仕方がない。仕事のためには、いい意味で観察をするしかない。綺麗ごとだけで、他人の人生の手助けなど出来るはずがない。その方が何を求めて言葉を発し動こうとしているのか、知る必要がある。

※ 今の方が福澤諭吉を理解できる

ある男性は、未だに自分が経営者だと思い続けていた。経営している会社を親族に任せて、自分はのんびりしている。その親族には経営能力がないから、早く帰らなければならない。自分が行かなければ会社が潰れる。今晩は電話をして、話を聴いてやらなければならない、でも電話が繋がらない…。会社は清算済みだが。

ある女性は、昼と夜が逆転していた。トイレの場所は分かっていても、行ったことを忘れる。でも男女の話は覚えている。若い頃、水商売をしていたらしい。様々なお客の相手をしてきたのだろう。入浴中には、こんな婆さんの相手よりも若い人の方がいいべ等と、その手の話には事欠かない。そんな時に顔が一番輝く。

※ キャベツ好きの僕にはたまらない

ある男性は、兎に角帰宅をしたがった。かかあが待っているから帰らなくちゃいけない。かかあが迎えに来ているはずだ。かかあの奴は先に帰ってしまったかな。俺が帰らないと家の仕事が回らない。夕方が来ると施錠された入り口の傍で、独り椅子に座り太陽を見ていた。言葉巧みに誘導する僕、少々後ろめたささえも。

変わって今働いている施設では、重度な認知症の方が少な目である。一方では、利用者の方が平均的に認知を落としているようにも感じる。そうなると数年経った時、皆さんが平均して認知を落としている可能性もある。そうなった時に介助する側には、更に掘り下げたモノの見方や知識や知恵が必要になってくるだろう。

※ 地道に介護に関する知識を学ぶ

でもね、今現在だって観察力は必要とされるし、観察するためには知識や知恵が必要だ。認知症の方にダメだよと頭ごなしに話している人がいるけど、何がダメなのか理解できない場合も多い。それよりも、その方の視線の先や心の先、その道筋を理解できるように寄り添い傾聴できる技術を身につけることの方が大切だ。

例えは悪いかも知れないが、先年亡くなった実家の猫さんについて話してみよう。彼とはたまにしか会えなかったが、僕は彼と話をするのが好きだった。彼は賢く、脳の大きさからすれば、彼の知力の方が僕よりも上に思えたりもして。追いかけて遊ぼうものなら、いつの間にやら、僕の方が追いかけられていたりしてね。

※ 通勤途中いい感じの雲に出会う

そんな彼と話す時、僕の目線を彼の目線かそれ以下に落として話をした。彼の話を聴くにあたり、僕が彼と同じ立ち位置にあり、互いに平等であることを伝えた。彼はじっと僕を観察しては時折、その手を僕の頭の上に置いた。まるで僕を慰めたり、僕の話に理解を示すかのように。それは僕にとって至福の時間だった。

認知症という病を持った方達は、ただ認知症という状況に入ったに過ぎない。80代や90代のお歳にもなれば、皆それぞれに深く生を重ねてきている。それを、ただの病人扱いして、子供を諭すような言葉遣いで話をすることは、その方達の長い人生への冒涜にも成り得る。猫さん目線より低くするぐらいの気持ちが必要。

※ 職場で頂いた大阪のお土産

そんなわけで、認知症の方と接する日々の中で、僕自身は認知症というものに抵抗が無くなった。いや、抵抗なんてものは元から無かったと思う。接した経験が無く、知識や知恵が不足していただけに過ぎない。自主的に勉強して来た今現在、もっと長い経験をしている専門職には適わなくても、更に学べると考えている。

どちらにせよ、認知症を患う人の数が2025年には700万人を超えると推計されている。65歳以上の高齢者のうち、5人に1人が認知症に罹患するという計算だ。家族の介護だけでは、家族そのものが病む可能性も出てくる。より多くの施設が必要とされ、真摯に向き合って仕事をこなせる専門職が必要とされるだろう。

※ 介護に関する書籍を並べ直した

介護や医療の仕事に就いていなければ、認知症の現実を知る機会は限られている。その現実を突きつけられた時、初めてその重さを実感するはず。仕事で向き合うのは赤の他人、だから仕事にできる。だが実の親だとしたら、事はもっと難しくなると思う。そこには、切っても切れない血の繋がりが存在しているからだ。